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(十)喪失

 潮見が部に来なくなって、一週間が経った。私には、潮見のいない道場がピースの抜けたパズルみたいに物足りなく見えた。あれから潮見のアパートに何度か電話してみたが、留守電に切り替わるだけで本人が出ることはなかった。潮見が携帯を持っていないのは知っていたし、学部も違うのでアパートの電話が繋がらなければ連絡手段は他になかった。

 自由練習が終わり、私は弓を片づけながら「潮見くん、今頃どうしてるかな」と思わずつぶやいた。流れでそうなったとは言え、気まずい辞め方をしてしまった潮見が哀れに思えた。隣では永野が袴を畳んでいた。

「あいつさ。今、花園町の市営弓道場に通ってるらしいんだよ。ゼミの奴が目撃したって言ってた」

 私は思わず、「潮見くんに会いたい」と訴えた。

「じゃあ、今から一緒に行こうか」

 私はうなずき、道場を出ると永野の車の助手席に乗った。

「でも、約束だ。潮見が嫌がったらすぐに帰ろう」


 もうじき十時を回るというのに、市営弓道場は社会人とおぼしき射手たちで賑わっていた。中に入ると、道場の隅の方で一人弓を引いている潮見の姿があった。鍛冶場にこもる孤高の刀匠のように、気難しい表情で鏡の前に立っている。そっと後ろから近づくと、潮見が振り返った。私たちの姿を見ると怒ったような顔になった。

「何しに来たんだ」

「潮見くん。この間のあれは、あなたと主将の言葉の行き違いだよ。ちゃんと話し合えばきっと分かり合えると思う」

「別に分かり合いたいなんて思っちゃいないよ」

 道場に入ってきたOL風の女性が、怪訝な顔をして私たちを見た。私はどうしても潮見の退部に納得できなかった。あんなに楽しそうに弓を引いていたのは嘘だったのだろうか。

「正射って一人じゃないと目指せないものなの? 卒業まで一緒に頑張ろうよ」

 私の言葉に潮見が一瞬怯んだような表情になり、「うるさいな。梅原だって的中数ばかり気にしてるじゃないか。お前達と俺とは考え方が違うんだよ。帰ってくれよ」と悲鳴のような声で言って、すぐに顔をそむけた。私は黙った。何より、『的中数ばかり気にしてる』と言われたのが一番痛かった。とは言え、いつもの落ち着いた潮見らしくなく、何も聞かないようにむきになっているようにも見えた。言葉を継ごうとした時、永野がさえぎった。

「梅原さん、帰ろう」

「でも」

 何がなんでも潮見を連れて帰らなければと私は必死になっていた。まだ言いたいことの半分も言っていない。

「いいから」

 思わずはっとした。こんなに険しい表情をしている永野を見たのは初めてだった。潮見が嫌がったらすぐに帰るというのが最初の約束で、私はそれ以上何も言えなかった。確かにこれ以上言っても潮見を困らせるだけだ。永野が私の背中をそっと押し、道場から出るように促した。

 私たちは駐車場まで来た。無機質な光を放つ薄暗い街灯に、大きな蛾が何匹も群がっていた。立ち止まってうつむいた私の前で、永野が助手席のドアを開けた。

「さっきはごめん。あれ以上言ってもあいつを追い詰めるだけだと思ったんだ」

「ううん。私の方こそごめんなさい」

「でも確かに、梅原さんの言う事にも一理ある。弓は一人では引けないと僕も思う」

 なぜと尋ねようとした時、隣に車が停まり、ドアが開いた。「梅原さん、永野くん」と声をかけられて振り向くと、眼鏡をかけた白髪の好々爺が、にこにこと笑っていた。


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