第2章 崩壊する日常(1)
教科書の朗読をする同級生の声を聞きながら、奏多はそっと斜め後ろを振り返った。他の同級生らと同じように薄雪若菜は、教科書に視線を落としていた。
朝、遅刻寸前で教室に着いた奏多は、結局若菜に話しかけることができなかった。話しかけられなかったのは、遅刻したせいだけではない。昨日のことを思い出し、避けられない方法を悩んでいる内に四時間目の今になってしまったのだ。
おかげで休み時間にやったドッヂボールの対戦では、普段避けられるようなボールを避けられず、体育の時間にやったバスケットボールではあっさりとボールを取られてしまって午前中は散々だった。
放課後だったら目立たないだろうし話せるかなとか、ぼんやり考えながら前に向き直った。教室内にはまだ教科書を読む声が響いている。
ふと、教室のドアがノックされる音を聞いた。
奏多だけでなく、教室中の誰もが閉じられているドアに注目した。浅川先生が教科書の朗読を止めさせ、怪訝な顔をしてドアに近づく。浅川先生がそのまま廊下に出てしまったことで、教室の中は一気にざわめいた。
後ろの席の男子が「何かあったのか?」とつついてきたが、奏多に答えられるはずもない。教室内のそこかしこで、生徒らが憶測をささやきあっていると浅川先生が教室に戻ってきた。
教室を出る前とは打って変わった真剣な表情に、教室内に緊張と不安が走る。
「白石くん、廊下に出なさい」
クラス中の視線を浴びて、奏多はたじろいだ。事態についていけず、ぽかんとしていると後ろの席の男子が再びつついてきて「お前何かやったの?」と聞いてくるが、何も心当たりはない。
もう一度促されてようやく立ち上がると、奏多はクラスメイトらの視線を受けながら、机の間を抜けて廊下に出た。廊下に出ると、教頭先生が待っていた。
浅川先生は奏多に教頭について行くように指示すると教室に戻った。教室のドアが閉められ、ざわめきが遮断される。教頭に促され、奏多は彼女の後をついて廊下を歩いた。
廊下はしんとしていて教頭と奏多の足音だけが響いた。
何故授業中に奏多だけ呼び出されたのか。どこに連れて行かれようとしているのか。聞きたいことは沢山あった。しかし中年の女性教頭の背中からは妙な緊張感が伝わってきて、声をかけるのは躊躇われた。仕方なく奏多は、教頭の後ろを黙ってついていくことにした。
階段を一階まで下り、職員室や校長室の並ぶ辺りまでたどり着く。この辺りは生徒がほとんど来ないこともあって廊下の電気が消されており、昼間にもかかわらず薄暗い。
薄闇の中、事務室の前に一人の女性が立っているのが見えた。近づいて、その女性の顔を認めると奏多は驚きの声を上げた。
「理佳姉!?何でここにいるの?」
奏多の様子を見ると、教頭は念押しするように確認してきた。
「白石くん、お母さんの妹さんに間違いない?」
「あ、はい。間違いない……です。でも何で」
奏多は状況が全く理解できなかった。
目の前に立つ白石理佳は、理彩の三歳年下の妹で奏多にとっては叔母になる。理彩の両親とは絶縁状態だが、彼女とは普段からよく会っている。
しかし今年で二十五歳になる理佳は、理彩と同様に会社勤めをしている。平日の昼間に小学校なんかに来るはずがない。
一体何があったというのだ。何故理彩ではなく、理佳が来ているのだ。保護者として来るならば、それは理彩の役目ではないのか。いくら普段から交流があるとはいえ、運動会のような行事があるわけでもない日に、理佳が一人で小学校に来る理由が何も思いつかない。だけど、何もないのに理佳が来ることの方があり得ない。
奏多は不安を覚えて、理佳に問うた。
「理佳姉、何かあったの?」
理佳は真剣な表情で奏多を見つめ、一瞬の躊躇の後に言った。
「奏ちゃん、落ち着いて聞いてね。……お姉ちゃんが倒れたの」
理彩が倒れた。
一体理佳は何を言っているのだ。言葉は耳に入ってきたが、その意味を受け入れられない。思考が言葉の意味を受け入れることを拒絶している。
呆然として、奏多は理佳を見上げた。
「……理佳姉、何言って……」
「お姉ちゃんの職場の人から連絡があったの。お姉ちゃんが仕事中に倒れて、病院に運ばれたって」
「何で!?朝、母さんいつも通りだったよ!?昨日だってその前だって何もなかったのに何でだよ!?」
混乱のままに奏多は理佳を問い質した。理佳は痛ましげな表情を浮かべながらも、奏多から目を逸らさずに答えた。
「まだ何もわからないの。私もこれから病院に行くところだから」
理佳は腰をかがめ、奏多に視線を合わせると真っすぐに奏多の碧い瞳を覗き込んで言った。
「奏ちゃんも一緒に行こう。そのために迎えに来たの」
後ろから肩に手をおかれて奏多は振り返った。教頭先生が心配げな顔で奏多を見下ろしている。
「白石くん、今日は早退してお母さんの所に行きなさい」
頭は混乱しているし、今さら授業に戻っても落ち着けるはずがない。それよりも何が起きているのかを、自分自身で確かめたいという気持ちがあった。
理佳について行こうとして、教室にランドセルを置いたままであることに気付いた。奏多は急いで教室へ戻った。
教室のドアを開けると再びクラス中の視線を浴びた。だが今はそんなものに構っている余裕などなかった。
浅川先生は、教頭先生が来た時にある程度事情を聞いていたのだろう。早退することを告げると、理由は問わずに承諾してくれた。
ランドセルに教科書やノートをつめ込む間、周りの席の級友らに質問攻めにあったが、答えるのももどかしくて曖昧に返した。奏多だって答えられるほど事態を把握し切れていないのだ。不審な目を向けられたが、構わずにランドセルを背負うと、奏多は一人教室を後にした。
昇降口で靴を履き替え、来客用の出入り口を兼ねた職員玄関の外で待つ理佳と落ち合った。理佳について校舎の裏に向かうと、教職員の車に混ざって見覚えのあるオリーブ色のコンパクトカーが停められていた。奏多も何度か乗ったことのある理佳の車だ。
後部座席にランドセルを置き、助手席に乗り込む。奏多がシートベルトを締めたことを確認して、理佳はアクセルを踏んだ。
学校の門を出て、市道を走る。視線は前に据えたまま、理佳は奏多に訊ねた。
「奏ちゃん、今朝も昨日もお姉ちゃんはいつも通りだったのよね?」
理佳の問いに奏多は今朝までの理彩の様子を思い返した。特段いつもと変わったことは何もなかった。
「うん。具合悪かったりしてないし、いつも通りだったよ」
「そう。職場でもね、倒れる直前まで普通に仕事をしていたらしいの」
理佳の横顔には困惑の表情が浮かんでいる。きっと奏多も同じだ。
車内に沈黙が下りる。沈黙が不安を呼び、嫌な考えが頭をよぎる。
「理佳姉……もしかして母さんは……」
その先は怖くて口には出せなかった。言葉に出したら、現実になってしまいそうで怖かった。だけど一度思いついてしまった最悪の可能性を打ち消すには、わからないことが多すぎる。
「大丈夫よ」
信号が赤信号に変わる。奏多を真っすぐに見て、理佳は言った。
「お姉ちゃんが奏ちゃんを一人にするはずがない。そんなこと、お姉ちゃん自身が許さない」
理佳が嘘を言わないことを奏多は知っている。奏多が子供だからといって、ごまかしたり真実を曲げたりしない。いつも真摯に向き合ってくれる理佳が、奏多は好きだし信頼している。
だけど今は、理佳だって状況が何もわかっていないはずだ。いつもは何の問題もなく信じられる理佳の言葉が、今は心に届かない。
信号が青色に変わる。理佳は黙って俯いた奏多をちらりと見遣ると、すぐに視線を前に戻してアクセルを踏んだ。
「奏ちゃん、私のスマホそこにあるんだけど着信ないよね?」
言われて奏多は、運転と助手席の間に置かれた理佳のスマートフォンを手に取った。
「うん。何も来てないよ」
「何かあったらそこに連絡が入ることになってるから、運転している間、代わりに持っててね」
小さな薄い機械が鳴った時、それは良くも悪くも理彩の容体に変化があった時だ。奏多はスマートフォンの画面を食い入るように見つめ、両手で握りしめた。