第1章 閉じ込められた碧の記憶(8)
シルキと別れた奏多は、自転車でスーパーへ向かった。昨日のように同級生の母親につかまらない内に買い物を済ませて家へと帰る。
自室に鞄を置き、中から若菜から借りた本を取り出してリビングに向かった。奏多は食卓の上に本を置くと、カウンターキッチンの中に入り、夕食の準備を始めた。
野菜を切り、鍋に放り、カレーのルーと一緒に煮込む。カレーを煮込んでいる間に本を少し読んでいたら、思ったよりものめり込んでしまい焦がしそうになってしまった。カレーが出来上がっても、まだ理彩が帰って来ないのでリビングのソファに座って本を開いた。
時間を忘れて読み進めていき、しばらく経ってからふと視線を上げた。固定電話のランプが点滅していることに気がつく。奏多は本を閉じて立ち上がると、固定電話に近づいた。
留守番電話に伝言メッセージが録音されている。再生ボタンを押すと、再生された声は理彩のものだった。残業で帰りが遅くなるから先に夕飯を食べているようにというメッセージを聞き、奏多は肩を落とした。メッセージが録音された時間から二時間以上経っている。
もっと早くに気づけばよかったと思いながら、鍋の中のカレーを温め直した。一人で夕食を摂り、食器を片づけ、再びソファに座って本の続きを読んでいると、やがて玄関から鍵を開ける音が聞こえてきた。足音とともに理彩がリビングに顔を出した。
「ただいま。ごめんね、遅くなっちゃった。ご飯食べた?」
奏多は本から顔を上げて答えた。
「おかえり。さっき食べた。鍋にカレーあるから温めて。あと冷蔵庫にサラダ入ってるから」
「ありがとね。あ、おいしそう……あれ?」
キッチンを覗き、リビングを横切ろうとした理彩は足を止めて、ソファの後ろから奏多の手元を覗き込んだ。
「珍しー。今日はゲームじゃないんだ。何読んでるの?」
「妖精が宝探しに行く話。クラスのやつに借りた」
「面白い?」
「すげえ面白い!」
本から顔を上げて瞳を輝かせて答える奏多の様子に、理彩は相好を綻ばせた。
冗談めかして言ったが、奏多がゲームだけではなく本を読むことが好きなのは理彩も知っている。普段は学校の図書室や市立の図書館で借りてくることが多いが、友達から借りてくるのは珍しい。理彩が知る限りでは、むしろ初めてではないかと思う。新しい友達が出来たのだとしたら、母親としては嬉しい。
胸元に下げたペンダントにしている指輪をいじりながら、理彩はソファに座って読書に耽る奏多を見た。
奏多の黒というより茶に近い髪色は理彩譲りだが、少し癖のある髪質は理彩とはちがう。顔立ちも二人で並ぶとよく似ていると言われるが、所々理彩とは違うパーツがある。そういう所は父親からの遺伝なのだろうと思う。
奏多に父親がいないのは、既に亡くなっているからとか、理彩が離婚したからというわけではないと理彩は思っている。だが奏多の父親が誰なのかも父親がいない理由も、理彩自身ですら何も知らない。
理彩には奏多が生まれた頃の約一年間の記憶がない。
妹の理佳や両親の話しによると、理彩が記憶を失っている一年の間、彼女は行方不明になっていたらしい。もちろん警察に捜索願が出され、事件に巻き込まれた可能性も視野に入れて捜索された。だが何の手がかりも得られないまま一年余りが過ぎたころ、突然どこからか帰ってきたのである。帰ってきた理彩の腕には、生まれて間もない赤子が抱かれていた。それが奏多だ。
帰ってきたばかりの頃、沢山の質問を浴びせられた。今までどこにいたのか。何をしていたのか。誰といたのか。連れ帰ってきた赤子は誰の子なのか。どの質問にも皆が満足できるような回答を理彩は持っていなかった。
だが記憶がないながらも、理彩の中で確信していることがあった。連れ帰った赤子が自分の子供であることと、名前がカナタであることだ。
理彩の両親は奏多のことを快く思わなかった。それは今も続いている。彼らは理彩が何者かに誘拐され、乱暴されて奏多を産み、そのショックで記憶を失っているのだと考えている。当時まだ高校生だった娘が突然失踪し、自分の子だと言い張る赤子を連れて帰ってきたのだから、そう考えるのも当然であろう。
だが理彩は両親が考えているようなことは、ありえないと信じていた。記憶はないけれども、不思議と奏多のことはすんなりと受け入れられたし、愛しく思う気持ちだけは理彩の中に確かにあったからだ。
だからこそ理彩は言葉を尽くして両親の説得を試みたが、結局記憶がないことを理由に何を言っても信じてもらえなかった。それどころか、両親は奏多を施設に預けて理彩から遠ざけようとした。激怒した理彩は両親と仲違いし、今や勘当された身の上である。
小さな頃から理彩をよく理解してくれている祖母の元に奏多を連れて転がり込み、高校だけは何とか卒業した。卒業後すぐに働き始め、祖母の家を出てからは奏多との二人暮らしを続けている。未だに両親とは決別した状態が続いているままだ。
十代で子を産み、一人で育てるには世間は優しいとはいえなかったが、親子二人の生活に不満はなかった。だけどふとした時に思う。奏多の父親はどんな人なのだろうかと。
「奏多」
「なに?」
振り返って理彩を見る奏多の顔に、彼の父親の面影を探してみる。だが思い出すことは何もない。今まで何度も繰り返したことだ。今さら落胆したりはしない。わかってはいるのだが、唯一彼が父親から受け継いだと断言できる部位をじっと見つめた。
宝石のサファイヤのような碧い瞳。
一見して日本人だとわかる顔立ちはきっと理彩に似たのだが、奏多の碧い双眸は間違いなく父親譲りだ。この瞳の色のせいで、理彩の両親には忌み嫌われ、いじめっ子たちにはからかわれてきたため、奏多自身は自分の碧い瞳を嫌っている。
だけど理彩はこの碧い色が好きだ。単純に綺麗な色だし一人息子のものだからというのもあるが、この色を見ているとどこか懐かしい気持ちが湧いてくる気がするのだ。
怪訝な顔をする奏多に、何でもないというように笑って理彩は言った。
「夜更かしして明日寝坊しないようにね」
「う……わかってるよ」
これは明日の朝起こしても起きないパターンだなと理彩は苦笑した。
結局、翌朝奏多は通学路を全力で走る羽目になった。本当は早めに学校について、昨日の挽回も兼ねて若菜に借りた本の話しをしようと思っていたのに。
奏多は本を読むのは好きだが、決して読む速度は早くはない。だから昨日の内に全部読み終わったわけではないが、それでも読んだところまでの感想を若菜に伝えたかった。そのくらい面白かったし、そんな本を貸してくれた若菜と仲良くなりたいという気持ちが再び湧き上がってきたのだ。
しかし今の調子だと、朝話すことは難しそうだと奏多は走りながら内心溜め息を吐いた。今日も晴れているから休み時間は外で遊ぶだろう。男子連中の誘いを断ってまで若菜と話していたら、またからかわれてしまうことは明らかだ。そんなことになれば、また若菜に避けられてしまうだろう。
思考を巡らせながら走る奏多はまだ知らない。
これからもっと彼を思い悩ます事態が起きることを、彼の運命を大きく動かす出来事が待ち構えていることを。
奏多はまだ知らない。