第1章 閉じ込められた碧の記憶(7)
「迷惑じゃない」
奏多の言葉に、若菜が顔を上げる。目が合って、また逸らされそうになった。奏多は若菜を見据えて、もう一度言った。
「迷惑じゃない。俺は薄雪が声かけてくれたこと迷惑だなんて思ってない」
「でも、皆に変な誤解されて……」
「あー……とりあえず、それはいいよ。どうせあいつらも本気じゃないだろうし。むしろ俺がむきになったのがいけなかったから、嫌な思いさせちゃって本当にごめん」
奏多が頭を下げると、若菜が慌てたように止めた。
「あの、白石君は悪くないよ。やっぱり、私が話しかけちゃったから……」
これでは話しが堂々巡りだ。奏多は頭を抱えたくなった。
「だからさ!俺は薄雪のこと迷惑とか全然思ってないから。本貸してくれたのすげえ嬉しかったし、薄雪ともっと話してみたいと思ったんだ。それに薄雪、人と話すの苦手だろ?それなのに昨日初めて話したばっかの俺に声かけてくれたの嬉しかったんだよ」
思っていたことを言い切って若菜を見ると、若菜は信じられないといった面持ちで奏多を見ていた。
クラスメイトの変な誤解は、奏多にとってはどうでもよかった。だけど若菜の誤解は解きたかった。せっかく気が合いそうな友達を見つけられたのに、始まったばかりの関係をこんなに早く最低な形で終わらせたくなかった。
「俺さ、今まで周りに本読む奴いなかったんだ。薄雪が初めてで。読んだ本の話しとかできたら楽しそうだなって思ったんだけど」
言葉を切って、もう一度若菜を見た。若菜は何も言わない。自分だけ言いたいことを言って、気持ちを押しつけてないだろうかと不安になる。
「俺ばっか言いたいこと言ってごめん。薄雪はさ、俺が話しかけたりしたら迷惑?」
「そんなことないよ」
否定してもらえたことは嬉しかったが、即答されたことに奏多は驚いた。呆気にとられぽかんとしていると、若菜は、はっとしたように顔を赤くして俯いた。
もしかして、若菜も自分と同じように思ってくれていたのかなと思う。そうだとしたら、それはすごく嬉しい。
若菜ともっと話してみたい。だけど、そろそろ教室に戻らないと本当に妙な誤解を生みかねない。ちょうど始業の鐘の音が響いた。浅川先生が来る前に戻らないと、せっかく今日は遅刻しないで登校したのに遅刻扱いになってしまう。
若菜に声をかけ、教室に戻ろうと促すと首を振って拒否された。奏多が戸惑っていると、若菜は俯いたまま、しかしはっきりと言った。
「白石くん、先に戻ってて。私は後で戻るから」
「でもそしたら薄雪遅刻になっちゃうじゃん。いいから戻ろうぜ」
奏多は焦れて若菜の手を掴むと、そのまま廊下を出て教室へ向かって歩き出した。
さすがに始業の鐘が鳴った後だけあって、廊下に生徒の姿はなかった。だが、どの教室からも騒ぎ声が聞こえてくるから、まだ朝の教職員の打ち合わせが終わっていないのだろう。今の内に戻れば遅刻にならずに済みそうだ。
「あの、白石くん」
階段の途中で呼ばれて振り返る。今さら先に戻れと言いだすのではないかと疑って見ると、若菜は困ったような顔をして奏多から目を逸らしていた。心なしか、顔が赤い気がする。
「あの……その……て、手を……」
言われて、奏多は若菜の手を放した。若菜は俯いて何も言わない。沈黙が気まずい。
「早く戻ろうぜ」
若菜に声をかけ、奏多は階段を上り始めた。途中で足音が一人分しかないことに気が付き振り返った。若菜は先刻と同じ場所に立ったまま、ついて来ていなかった。
奏多は若菜の立つ場所まで階段を下りた。正面に立つ。小柄な奏多は平均並みの身長の若菜より少し背が低いが、階段の段差の分だけ今は奏多が若菜を見下ろしている。俯く若菜の表情は全く見えない。
奏多は若菜のボブカットの艶のある真っ黒な髪を見下ろして言った。
「薄雪、先に教室戻んなよ。俺別に遅刻でもいいし」
困惑と苛立ちを無理やり抑えつけながら言ったせいで、口調が乱暴になってしまった。
若菜が顔を上げて、奏多を見上げる。その顔はどこか泣きそうにも見えた。どうしてそんな顔をするのだろう。そんな顔をするくらいなら、どうして奏多から距離をとろうとするのか。若菜の考えていることがわからない。
いま自分はどんな顔で若菜を見下ろしているのだろう。耐えきれずに、奏多は若菜から視線を逸らした。わざと突き放すように言う。
「いいから早く行けよ」
若菜は少しだけ躊躇したが、すぐに何も言わず小走りに階段を駆け上がった。足音が遠ざかるのを聞きながら、奏多は頭を抱えてしゃがみこんだ。
失敗した。奏多自身、何が起こったのか分かっていない。何が正解だったかもわからない。ただ失敗したことだけはわかった。 階段を駆け上がる若菜の顔は見えなかった。否、泣かせてしまっていたらと思うと怖くて見られなかった。泣かせたくなくて追いかけてきたのに、結局、奏多が若菜を追い詰めてしまった気がする。
ただ、友達になりたかっただけなのに。
奏多が女子だったら、若菜が男子だったら、二人が同性だったら二人の仲がこじれることはなかったのか。周りから、からかわれることもなかったのだろうか。それすらもわからない。
しばらくうなだれて落ち込んでいると、階下から教室に向かう教師たちの声が聞こえてきた。奏多は慌てて立ち上がると、階段を駆け上がり教室へ向かった。教室へ入るとクラス中の視線を一斉に向けられたが、構わず窓際の自分の席へ向かった。
奏多が着席すると間もなく、浅川先生が教室へ入ってきた。
机の上に萌黄色の本が置いてあることに気付く。若菜が持ってきてくれた本だ。逡巡の後、奏多は本をランドセルの中にしまった。
ちらりと廊下側後方の若菜の席を振り返る。若菜は着席してはいるものの、俯いていて表情は見えない。ちくりと胸が痛むのを感じた。
奏多は悪いことをしたつもりはなかった。だが結果として若菜を俯かせてしまっているのは奏多だ。若菜と話しているところをからかってきた同級生らと変わらない。
奏多は前に向き直ると小さく溜め息を吐いた。
「へぇー!そんなことがあったんだ」
放課後、奏多は丘の上の公園にいた。芝生の上に足を投げ出して座り、シルキに今朝学校であったことを話していた。
「本当あいつら、しょうがないよな。女子と話してたくらいで騒ぐなっつーの」
「その女の子って昨日話してた子だよね。で、実際のとこどうなの?好きなの?」
「何だよ、シルキまで」
奏多はシルキを睨んだが、シルキはどこ吹く風でにこにこと奏多の返答を待っている。
奏多は空を振り仰いで、溜め息を吐いた。
「好きとかよくわかんねえよ。でも仲良くなりたいって思ったんだ。それだけだったのにさ……何でこうなっちゃたんだろう」
俯いて座る若菜の姿を思い出し、自己嫌悪を覚えて奏多は呻いて芝生の上に仰向けになった。
からかってきた男子達とは和解して、休み時間も普段通りに遊んだ。だが若菜とは朝の一件以来、結局何も話せずに一日が終わってしまった。奏多からは何度か話しかけようと試みたのだが、どうやら避けられているようで何も話すことができなかった。
若菜が何を考えているかがわからない。せっかく友達になれると思って、若菜も迷惑じゃないと言ってくれたのに、近づいたはずの距離が遠のいていくのを感じる。若菜が奏多を避けたという事実が胸に突き刺さる。
「あー……もう絶対口きいてくんねえよ」
「もー!くよくよしないの!本借りたんでしょ!」
シルキの叱咤の声に奏多は身を起こした。すぐ脇に放り出していた鞄を引っ張り、中から萌黄色の本を取り出した。今朝、若菜が持ってきてくれた本だ。若菜が一日中奏多を避け続けたせいで返すことも、そのまま借りることの承諾を得ることもできなくて、結局持って帰ってきてしまったのだ。
本の表紙を眺め、ページをぱらぱらと捲る。奏多がまだ読んだことのない本だ。頭上に重量を感じる。奏多の頭の上に乗ったシルキが覗き込んでいるようだ。
「なあ、シルキ」
「んー?」
「これ読んだら、薄雪とまた話せるかな」
シルキに問いかけながらも、奏多の中で答えは既に決まっていた。この本を読んだら、もう一度若菜に話しかけてみよう。そして友達になることができたなら、シルキのいる丘の上の公園に彼女を連れてきたいと思った。
若菜が貸してくれた萌黄色のその本は、妖精の世界を舞台にした冒険物語であったのだ。
シルキにそのことを話すと、彼女はぱっと顔を輝かせて「あたしも会ってみたいな」と言ってくれた。汚れがつかないように、萌黄色の本を大事に鞄にしまい直す。そしていつも通りに、シルキと他愛無い話しに興じた。