第1章 閉じ込められた碧の記憶(2)
梅雨真っ只中の湿気を含む風を切りながら、小学校への道を奏多は走った。以前に比べると近くなったとはいえ、すぐ隣に住んでいるわけではないから、さすがに走らないと間に合わない。あと十分も早い時間であったら、奏多と同じようにランドセルを背負った小学生が道を埋めていただろうが、さすがに遅刻ギリギリのこの時間は誰もいない。
花屋の店先に「父の日ありがとう」という文字と黄色いバラの写真が印刷されたポスターが貼られていた。角を曲がるときに視界に入ったが、奏多は何の感慨もなく通り過ぎた。奏多には関係のないものだ。
すぐに思考を学校までの最短ルートを考えることに切り替えると、奏多は走る速度を上げた。花屋の隣のクリーニング屋の時計を見たら、始業の鐘が鳴るまであと三分しか残っていなかった。
人一人が通れるだけの細い道を抜けると、ようやく小学校の校門が見えてきた。
学校の門を抜けて誰もいない校庭の真ん中を突っ切って走る。五年生の教室がある校舎は、奏多が普段使う東門とはちょうど反対側に位置する。
昇降口で上靴に履き替え、廊下を走る。静かな廊下に奏多一人の足音が響く。廊下に並ぶ教室から喧騒が聞こえる。まだどの教室も担任の教師が来ていないようだ。走ることに集中していたせいで始業を告げる鐘を聞いた覚えがない。もしかしたら、まだ鳴っていないのかもしれない。
階段を駆け上がると五年二組と表示がされた教室が見えた。教室の中からは、他のクラスと同様に騒ぎ声が聞こえる。まだ担任の教師は来ていないようだ。念のため、教壇とは反対側のドアを開けて奏多は教室へ入った。
ドアを開けると、すぐ傍にいた男子グループの一人が気づいて声をかけてきた。
「おっす白石。なんだよ今日休みかと思ったじゃん」
彼の声に気付き、他のクラスメイトも声をかけてきた。
「白石おはよ。すげえ息切れてんじゃん。大丈夫か?」
「はよ。……はあ……はあ、マジすげぇ走ったし。先生まだ来てねーよな」
「来てない。セーフセーフ」
息も絶え絶えに言う奏多の様子に、同級生らがけらけらと笑いながら間に合ったことを知らせてくれた。奏多は膝に手をついて息を整えた。その耳に「鐘鳴ったけど先生来てないだけだからな」と笑いながら言う声が聞こえる。
やっぱり始業の鐘には間に合わなかったかと落胆するが、担任にばれなければ大丈夫だろう。
「つーか白石、寝坊?」
嘘をついてもしょうがないので、奏多は正直に認めて頷いた。「だっせー」と声が上がりまた笑いが起きる。奏多は言い訳のように、寝坊した理由を白状した。
「昨日やってたゲームで、ダンジョンに嵌っちゃってさあ。抜けないとセーブできねーし、しかもボス強くて大変だったんだよ」
「あ、それ白石に聞こうと思ってたんだ。お前どこまで進んだ?」
問いかけに奏多はにやりと笑った。今、奏多がやっているゲームは人気のロールプレイングゲームの最新作で、先月発売されたばかりのものだ。同級生の多くが奏多と同じように夢中になっているのだが、発売早々に難易度の高さで有名になり、早くも脱落者が出始めているこのゲームを奏多はクラスの誰よりも進めている自信があった。
案の定、奏多が昨夜進めたところを披露すると、輪になった男子達から賞賛の声が上がった。攻略のヒントをねだられ、勿体つけながら話す。皆、奏多の話しに聞き入っているが、奏多は話しながら別のことを考えていた。
今朝見ていた夢。地面に突き刺さった剣を抜き、天に向かって掲げる。詳細は違うけど、今思い返すとゲームのオープニングの映像によく似ている。アーサー王伝説を連想させるようで気に入っていたのだが、まさか夢にまで見てしまうとは思わなかった。
気付くと、話題はいつの間にか今日の行間休みと昼休みに何をするかということに変わっていた。サッカーとドッヂボールのどちらがよいか聞かれて、何となくサッカーと答えて、そのまま話しの流れでサッカーをやることに決まった。
一時間目の休み時間にチーム分けをすることに決まったが、奏多はふと思い出すことがあって隣に立つ男子生徒に訊ねた。
「なあ、今日何日だっけ?」
「え……っと四日の水曜日って書いてある」
黒板に書かれた日付を読み上げて教えてくれた。奏多は記憶している日付と一致することを確認した。
「わり、俺一時間目の休み時間用事あるから適当に分けといて」
「しょうがねえなぁ。てかさ、お前いつまでランドセル背負ってんの?」
指摘されて、奏多は自分だけが未だにランドセルを背負っていることに気付いた。教室に着いてそのまま話し始めてしまったからだ。
周囲の笑い声を聞きながら、自分でもダサいなと思いながらランドセルを下ろす。慌てて下ろしたせいで動作が乱暴になり、振り回してしまった。何かにぶつかる感触があった。
嫌な予感がして振り返ると、奏多の立つすぐ後ろの席に座る女子生徒が、顔の真ん中を押さえている。机の上には、彼女が読んでいただろう本が倒れている。
「げ……っ!ぶつけた?悪いっ!ごめん!」
「…………」
「え?何?」
女子生徒が何か言ったが聞き取れなかった。聞き返すと、彼女は今度は黙って俯いてしまった。怒らせてしまったかと、奏多が慌てて更に声をかけようとすると後ろから服の裾を引っ張られた。
振り向くと、先刻まで輪になって一緒に騒いでいた連中が皆自分の席に座って奏多を見ている。彼らだけではなく、クラス中の視線が自分に集まっていることに気付く。奏多以外は、全員既に自分の席についている。奏多の服を引っ張った男子が、早く自分の席に座った方がいいと忠告してきた。
前方の教壇を見ると、担任の浅川先生が腕組みをして奏多を見ている。
前に出るように言われ、足取り重く教壇の前に立つと、一人だけまだ席に着いていない上にランドセルすらまだ手に持ったままであることを注意された。教室中にくすくす笑いがさざめく中、顔が熱くなるのを感じながら窓際の自分の席に向かう。
浅川先生が出欠を確認する声が響く中、奏多はこっそり斜め後ろを振り返った。ランドセルをぶつけてしまった女子生徒を見る。心なしか、まだ痛そうにしているように見える。
悪かったなと思いつつ、奏多は彼女の名前を思い出そうとしていた。しばらく考えて、ようやく思い出した。薄雪若菜だ。新学年になって最初の自己紹介で聞いて、綺麗な名前だと思ったことも思い出した。五年生になって初めて同じクラスになったのだが、二か月以上経った今も一度も話したことがない。
後でちゃんと謝ろうと思い、最初の会話が謝罪であることに気付いて奏多は自分の失態に溜め息を吐いた。間が悪いことに、ちょうどその瞬間が浅川先生の目に留まってしまったらしい。再び注意されて、再度クラス中に笑われる。
今日は朝からついていないと思いながら、奏多はランドセルの中から教科書とノートを取り出した。
一時間目の授業が始まり、ノートに今日の日付を書き込む。改めて今日が何の日か思い出して、奏多は口元が笑むのを感じた。早く授業が終わらないかと、そわそわしそうになるが、またも見つかって注意されないように大人しくしていた。
一時間目の終了を告げる鐘の音が聞こえ、浅川先生が授業の終わりを告げると日直当番の号令ももどかしく、奏多は教室を飛び出した。廊下を駆け、階段を駆け降りる。
「第一図書室」と表示された広めの教室に着く。休み時間になった今、ドアは開け放されており、奏多は図書室内に駆け込んだ。そのまま目的の書棚を目指す。
目的の棚の前に着き、端から端まで視線を走らせ、もう一度同じことを繰り返すと奏多は頭を抱えてしゃがみこんだ。