【歴史】義経の奇策(源平合戦)
源義経とは、当時、鎌倉幕府の政権を握っていた源頼朝の実弟である。
その戦の才は並はずれて高く、
兄の意志を共に貫くため、
常に敵と戦前にて対峙し、活路を切り開いていったとされています。
そこには、既存の枠に捉われない奇抜な策がいくつも用いられていました。
その中でも、最も有名なのが、『一ノ谷の戦い』で断行された、
「鵯越の逆落とし」と称される戦法です。
義経は、人馬が駆け降りることは不可能だと思われる岩壁の頂上に軍を配し、
「自分を手本にせよ」と言い放つなり、先頭をきって崖を駆け下りていったのです。
崖の角度は30度から60度。
まさか人馬が下ってこようとは夢にも思わなかった平氏軍は、完全に虚を突かれ、
混乱の中、海へと逃走することを余儀なくされます。
この常軌を逸した非凡な戦の才は、かの有名な『壇ノ浦の戦い』でも如何なく発揮されました。
当初、海上戦を得意とする平氏に対して、
源氏側は劣勢を余儀なくされていたのです。
海流を知り、船を自在に操る平氏軍を前に、源氏軍は完全に劣勢を強いられていました。
ところが、そんな中、形勢を一気に覆したのが、
義経の放った、たった一つの命令です。
「水夫を狙え。」
その指示を受けた、味方の兵は一様にざわめき立ちました。
なぜなら、当時、非戦闘員であった舵取りの水夫は、
いわば陸上戦における馬のような存在で、
それを狙う事は卑怯だと認識されていたからです。
しかし、義経は戦場にあって、それに与する以上、討つべき敵だと捉えたのでした。
この、今までの常識を打ち破る慧眼と策略により、
義経は見事、この戦いを源氏側の勝利に導くに到ります。
しかし、この時、既に、その戦法の斬新さゆえに、
源氏軍と義経の間に、見えない亀裂が生じ始めていました。
戦を終えた伝令兵が送った頼朝への報告書にはこう記されています。
「義経が、戦場で自由勝手に振舞い、関東の武士たちから恨みを買っている」
この一文を見た頼朝は、統率者という立場から、
遠征軍に、「もう義経に従わなくてよい」と言い渡すと同時に、
義経に対し、鎌倉への立ち入りを禁じました。
文治1年(1185年)5月24日、頼朝が義経追討を命じる半年前の出来事です。