【歴史】池田屋事件(新撰組)
京都の治安維持のため、才気溢れる剣客を幕府が募り、結集したのが「新撰組」である。
彼らは、元農民の出が主だったメンバーであったため、武士への憧れが強く、
忠臣蔵の義士を真似た、だんだら模様の入った衣装、
「誠」の文字があしらわれた旗などの装いからもわかるように、
時代に流され零落武士の多い中、
本職を超えて、どこまでも理想の武士道を貫き通そうという志が強かった。
そんな新撰組の名を一躍有名にしたのが、かの有名な『池田屋事件』である。
まず京都御所に火をかけ、焼き打ちをする。
その混乱に乗じて、天皇を長州藩に奪い去る。
過激派の長州藩士による、この恐ろしい計画をいち早く掴んだ新撰組は、
小田原会議を続ける京都守護職を
「幕臣つまり幕府の役人の中に男児なし」と切り捨て、
単独で行動に出たのである
とはいえ、過激派藩士が潜んでいる場所の特定は容易ではなく、
結局、二つに隊を割いての捜索となった。
潜んでいる可能性の高い茶屋を中心に当たる『土方隊』、24名。
旅館を中心に当たる『近藤隊』、10名。
当たりを引き当てたのは『近藤隊』だった。
「長州藩士は池田屋にいる模様」との知らせがもたらされたのだ。
見張りに数名の隊士を配したため、
実際に斬り込むのは、わずか4名。
近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助である。
いずれも隊長格を務める強者だった。
元治元年(1864)6月5日、午後10時、ついに『池田屋事件』、勃発。
突如乱入した新撰組隊士に驚いた池田屋の主人は、
2階にいる過激派藩士たちに急を知らせに走ろうとする。
しかし、近藤がすぐさま後を追い、2階へと駆け上がった。
階上の一室にいたのは、抜刀した過激派藩士、その数20名以上。
近藤はひるむことなく一喝する。
「御用改めでござる。手向かいいたすにおいては、容赦なく斬り捨てる」
その気勢に呑まれ、思わず後ずさりする藩士達。
その中にあって、果敢にも近藤へときりかかった藩士がいた。
だが、次の瞬間、その藩士を沖田が一刀のもとに斬り伏せる。
浮足立った藩士たちは、混乱の中、窓から中庭へと遁走をはかろうとした。
ところが、それを予見して待ち構えていたのが、藤堂と永倉である。
壮絶な死闘は階上と庭で繰り広げられた。
2階では近藤と沖田が、階下では藤堂と永倉が切り結ぶ。
だが、沖田が途中、結核の発作を起こして戦線離脱。
藤堂も眉間に敵の一撃を受け、戦闘不能となる。
こうなると多勢に無勢。
近藤は戦況不利を悟るやいなや、階下に飛び降り、永倉と共闘をはかるも、
戦況は藩士達の数で勝る圧倒的優位さを前に、覆しようもない。
絶対絶命の窮地に陥ったそこへ、さっそうと現れた、一人の隊士がいた。
別働隊を率いていた土方歳三である。
池田屋の乱闘を聴きつけ駆けつけた『土方隊』の到着により、
形成は完全に新撰組へと傾き、
2時間後、京都炎上を企てていた長州藩の過激派は残らず、捕縛・戦死するに到る。
すべてが新撰組勝利に終わった、まさにその時、
時刻はちょうと午前0時を指し示していた。