一章1-3 名も無き村(2)
なかなか進まないです。
近づいた岩場。そこには変わらず三日月があった。
「お姫様が起きましたよ、ルナ」
フェザーが声をかける。
三日月に見えたものは岩場のあたりで何かに繋がっていた。アンジェリカには始め何に繋がっているのかわからなかった。月が揺れて岩場の陰に落ち、現れた影を見て初めてそれが人間であることを知った。その人の腕は細く長く反り返っている。
「そうか」
声は少年のものだった。彼は岩場を跳ねるように降りるとアンジェリカの前に着地した。同時に三日月の形をした両腕を深々と地面へと突き刺した。
「この手では自分で鞘に納めることもできませんので、これで許してください」
達人であってもこれほど深く剣を地面に突き刺すことはできないだろう。
「あの……」
「右は姫の前を切り開く、左は姫の後ろを守り抜く。ここに再び誓う。我が剣をフェルディナント王家第一王女アンジェリカ・フェルディナント・アーサーに捧げる」
体勢的な無理もあるが、ルナはそのまま額が地面につくまで頭を下げる。本当に敬愛すべき主君を前にしているかのように。
その姿をアンジェリカは見たことがあった。彼女の父王の前に鞘を納めた剣を掲げて彼とは違う文言と共に膝をついた騎士を見たことがある。あの時、父王はなんと答えていただろうか、アンジェリカはそんなことを考えていた。
不動のまま動かないルナは何かを待っているようだ。
「あの……私……」
フェザーに目配せしてみるも、彼女は笑うだけで何も言わない。代わりに背中に生える大きな翼を広げ、アンジェリカを包み込むようにして畳んだ。そうされるだけで安心してしまう。
「顔、あげてください」
はっきりと言う。伝えなければならないことがある。
ルナは顔を上げ紅い眼でアンジェリカを真っ直ぐと見据えた。
「フェルディナント王家は、……亡くなりました。オーベルング王によって」
「存じています」
誰かが何か、もしかすると慰めの言葉をアンジェリカにかける前にルナは跪いたまま言う。
「だから私が出た次第です」
続けて言い、再び頭を下げた。
アンジェリカには既に理解の範疇を超えていた。
「こら、ルナ! そういうことは言わないと約束したでしょう?」
フェザーがルナを叱る。彼は動かない。静かに頭を下げ続けている。
次の言葉が続かない。どうして知っているののか聞きたいことは多い。
それでもまずは言う。
「顔を、あげてください」
地面に額を擦り付けたままのルナをアンジェリカは見たくなかったのかもしれない。彼女は最初しかその姿を正面から見ていない。後はフェザーの羽の中で顔を上に向けていた。
ルナが顔を上げる。両腕は地面に隠れたままである。
「私には難しいことはわかりません。でも私にはもう地位も名誉も家もありません。だから一平民として私はあなたと友達になりたい」
生涯孤独となった少女。今のアンジェリカはそういう子供だったのだ。
住む人が見えないこの村と同じだった。誰もいないように見えたらそれだけで村は廃村へ、村としての存在を否定されてしまう。
彼女もその正体を誰にも知られなければ、フェルディナント王家第一王女アンジェリカ・フェルディナント・アーサーはいなくなり、ただのアンジェリカになるのだ。そしてそれは彼女が愛していた家族を全員存在しないことになるのと同義であった。許せないことであった。
「あなたは私を覚えていてほしい。でも今から私のことは友達のアンジェリカとして接してほしいの」
後半は震えた声になっていて、最後の「お願いします」という言葉は聞き取れないほど小さかったが、最後の願いであった。
「承知した。アンジェリカ」
一声でルナは応じる。小さい「ありがとう」という声が風に乗って運ばれていった。
名も無き村はまだまだ続きます。