彩界
「見たところ、五体満足ではあるようですね」
言葉の開口一番のセリフはこんなものだった。
おそよ病み上がりの敗者を労うようなそれではなかったが、しかしそれも仕方ないのかとも思う。あれだけ怒気を孕んで、一人で出て行った結果がこれだ。多大な心配をかけただろうことは想像に難くない。
そうでなくとも、彼には夫のことを任せてしまっていた。それすらも、背負わせてしまった。
それならば、皮肉の一つも言いたくなるだろう。
蛇を相手に、五体満足などとは。
それを言った言葉は、隣に立っていた菊秋に横腹をつねられていたが。彼女は痛がる言葉をそのままに、つねりながら慮るようなことを言ってくれた。
そのあたりはいつも通りの二人といった様子で、有難くもある。
いつも通り、普段通りでいてくれることが、心を落ち着かせてくれる。
そして何より、それ以上の驚きと安堵も味わうことになる。
紅葉さんの案内では、言葉と菊秋の二人でここへ来たような口ぶりだったが、正確にはそうではなかった。
菊秋がその腕の中に抱えていたのは、私の愛する娘であるところの、無朽だったのだ。抱かれながらすやすやと眠るその姿を見ただけで、ありとあらゆる負の感情が霧散していくのを感じる。
子供を抱きかかえながら言葉の横腹をつねっていたのは、なかなかに器用だなと思いつつ、彼女の手から受け渡された我が子を自身の腕の中に収める。
強すぎず、しかし決して放さぬよう、最大限の愛情を籠めて抱きしめた。とても短いとは言えない時間そうしていたが、その姿を、母としての在りようを、二人は優しく見守ってくれていた。
それが二人を玄関で出迎えたときの一連の出来事だ。
そして場所を移し、再び元の部屋に戻ってきた。今度は人数分の座布団が敷かれ、お茶の用意もされている。長方形のテーブルに対し、長辺側に言葉と菊秋が並んで座り、その対面に無朽を抱いたままの私が、そして短辺側に狛が座った。
紅葉さんは狛の右斜め後ろで控えている。
ここに座る前に、紅葉さんから娘を預かりましょうかと聞かれたが、それは丁重にお断りした。向こうにしてみても、いつまでも抱いておくのは疲れるだろうと、そう気遣ってくれていたのかもしれないし、せめて布団でも敷いて寝かせてはどうかという提案をしてくれたのだが、やはり今はこのままでいたい。
この命の重さを、全身で感じていたい。
危うく私は、この子を残したまま死んでいたかもしれないのだ。夫にしてみても、わけもわからぬまま斬り伏せられ、妻さえも失わせてしまうところだった。そんなことさえも、あの時の私は失念していた。
私の命は、私だけのものではなかった。
一番最初に気づいておかなければならないことだったのに。
「未朽さん、本当にもう大丈夫なんですか?」
全員が座ったところで、改めて菊秋が心配するようにそう言ってくる。
「ええ、何ともないさ」
実際のところ、身体の調子はもうほとんど全快と言ってもいいくらいには戻っていた。それはあの薬の効果によるものが大半を占めるのだろうが。
「ある程度のあらましは、紅葉さんに聞きました。ごめ――」
「謝るのはこっちのほうさね。申し訳なかった、言葉、そして菊秋もありがとう」
流れのまま謝られそうになったのを、途中で制す。この件に関して、彼に落ち度はないのだから。この子のことだから、私が戦っている最中に何もできなかったことを悪く思っているのだろう。
そして、もっと言うのであれば、私がここまでやられるとは想像していなかったのかもしれない。口に出してそうは言わないが、何となく感じ取れる。
私は彼の信頼に応えられなかった。
謝罪の言葉と共に頭を下げたままの姿勢で、不意に眦が熱くなってきた。ともすれば我が子に雫が落ちてしまいそうになるのを、ぐっとこらえる。
私がここで泣き出してしまえば、彼らはさらに複雑な気持ちになるだろう。これ以上、負担をかけるわけにはいかない。
瞼に湿り気を残したまま顔を上げ、早口で言葉を繋ぐ。
「それになにより、夫のこと、改めて感謝するよ」
「いえ、それこそ僕は何も」
歯切れの悪い返答は、彼自身本当に何もできなかったと思っているからなのだろう。
もちろん治療行為に関してはそうだろうが、その場にいてくれたことが、私にとってはとてもありがたいことなのだ。
だから、ちゃんと言う。
「それでもさ。あの場にいてくれて、来てくれて、ありがとう」
今度は否定の言葉は返ってこなかった。
隣の菊秋も、静かに頷いている。
「久散さんは、今もまだ病院にいます。まだ意識が戻ってはいないそうですが、落ち着いたら一度行ってあげてください」
話題の矛先を自分から逸らすように、言葉は夫の現状を教えてくれる。
そういえば紅葉さんは、手術は成功したとは言ったけれど、意識を取り戻したとまでは言っていなかった。
起きたばかりの私に対し、下手に不安がらせることはないという彼女なりの配慮だろう。
「お医者様も命に別状はないと言っていたので、遠からず目を覚ますと思います」
言葉のセリフを補足するように菊秋が重ねる。何というか、どの方面からも気を遣われているようで身体がむず痒くなってしまう。そりゃもちろん怪我が治ったとはいえ、辛辣に対応されてはこちらも凹んでしまうが、それでも普段とは違う接し方をされてしまうと対応に困ってしまうのだ。
しかしこれも幸せなことなのかもしれない。
少なくとも、そうしてくれる人が私の周りにはいるということなのだから。
そのことを再確認できただけでも良かったと心に留め、私は口元をほころばせた。




