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天嵐の龍  作者: 誇張蘭
第一章 兎攫いの狗
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連絡

十月十五日、木曜日。午前九時半。

 鳴鹿菊秋はいつも通り、大講義室に最初に入る人物となっていた。今はまだ物理学の講義が始まる一時間ほど前。一時間目の時間帯はこの部屋を使う講義がなく、中には誰もいない。

 お決まりの席、黒板の真ん前に座る。

 ほとんどの学生が後ろの方に座るけれど、彼女にはそれが不思議とは言わないまでも、疑問には感じていた。

 前の方が当然文字もよく見えるし、教授の声もよく聞こえるのに。後ろに座っている人たちは、何か別のことをやっていてもバレないだろうと思っているかもしれないが、教壇に立ってみれば一目瞭然である。

 確かにこの部屋は、少しわかりにくいかもしれない、それでも説明している人の身になって考えてみれば、こちらに興味を持っている人とそうでない人の区別は簡単につく。

ただ、教授の中には教えようという気がなく、自分のやっていることを見せびらかしたいと思っている人もいるので、そういった場合はものすごく腹が立つのだが。

もちろん大学というのは、高校までとは違って自分の好きな学問を重点的に学ぶことができる。なにより、自分から学ぼうという姿勢が大切なのだ。

 それでも、最低限のお金は払っているし、それに見合うだけのお仕事はしてもらいたい。

 それは教授だけでなく、学生にも言えることだ。この大学で必要になるお金を、全て自ら支払っている人がいったい何人いるのだろうか。かくいう私の生活だって、親からの仕送りで成り立っている。

 一回の講義がいくらなんて話をするつもりはないけれど、それでも自分の親が一生懸命働いてくれているおかげで、今こうやって生活できているのだということを、ちゃんと理解してほしいと思う。

 でも。

「言っても無駄なんだろうな」

こういうことは、たとえ話したとしても共感はしてもらえないだろうし、もし私の言葉で心を入れ替えてくれるような人がいるのなら、そんな人は最初からそのことに気が付いているだろう。

 せっかくのいい天気なのに、朝から気が滅入ってきた。少し気分転換をしなければ。

 手提げのカバンから小さい袋に入ったチョコを取り出す。まあるいそれを一つつまんで口に放り込むと、再びカバンの中を探って厚めの小説を取り出した。

 私はいつも何かしらの小説を持ち歩いていて、気持ちが落ち着かなくなると読むようにしている。特にフィクションの物語が多く、自分がその世界に入り込んでいるような感覚になるのだ。

 そうすると、だんだんと心のごちゃごちゃが消えていって平静になれる。

 漫画も少し読んだことはあったけれど、やはり文字だけの方が、頭の中に風景を描くことができるのでより物語の中に浸れて、自分としては小説の方が好みである。

 講義までは、まだあと四十五分くらい残っている。始まる前に少し教科書を読んでおきたいから、全てを小説に費やすことはできないけれど、このくらいの時間があれば読み終えることも可能だろう。

 残り三分の一のあたりにとじてあった栞を取って、左手の中指と薬指で挟む。それは四葉のクローバーが押してあるものだった。

 市販のそれではなく自作である。ただしクローバーは、中学生の時に彼がくれたものだが。それを未だに使っている。

まぁ、とうの本人は忘れているだろう。

「はぁ……」

短めの溜息をついてから、今度こそ文字を追う。少し読み進めていったところで、主人公の女の子が、かつて助けてくれた男の子と再会し、長年の想いを告げるという場面になった。

 そこで急に胸が締め付けられるような気がした。

恋なんて、今の私には眩しすぎて見ていられない。小さいころは私も純粋に好きと言えるような子だった。それが、恋とは呼べないような幼心のものであっても。

 それが今となってはこの有様だ。

 なんとも恥ずかしい。まともに人を好きになることも出来ないだなんて。

 心を落ち着かせるために小説を読み始めたつもりが、ますます乱されるという結果におわるとは。

 いったん本を閉じ、両の掌を組んで、腕を上にあげて伸びをする。もう一つチョコを口に含んでゆっくりと溶かしていく。

「さて、どうしよっかな」

予想外のトラップがあったので、予定外に時間ができてしまった。正直この小説を読むのには、もう少し時間をいただきたい。

 自分がこんなふうになってしまった原因についてちょっと考えてみようか。それは今までに何回も繰り返していることではあるのだが。

 とは言ったものの、原因なんて考えるまでもない。確実に鳴鹿家に代々受け継がれる力のせいである。あんなに使い勝手の悪く、しかも普通の生活にまで影響が出てくるようなもの、もしも自分の運命を選択できたのだとしたら、絶対にこの道を選びはしなかっただろう。

 そういえばあの九鬼くんも、似たような境遇の身であった気がする。力の系統も同じようなものだからだろうか。

 彼とは小さい頃からの知り合いである。あの人は何かと手を抜きたがるというか、どこか隙を見つけては自分の好きなことをしていた。それがどうしてか私の心をざわつかせて、ついつい説教じみたことをしてしまうのだ。

 私と同じような道を歩んでいるくせに、どこか自由な振る舞いをしているのが羨ましいのだろうか。

 それはただの嫉妬であり、理不尽な八つ当たりであるともいえる。理不尽でない八つ当たりなんてないかもしれないけれど。

 こういうことも何度か考えたことがあるが、その度に気分が落ち込んでしまう。いやしかし、講義中に勉強以外のことをするのはやはり間違っていて、それは八つ当たりではない。はず。

 それに、確かに私は話が長くなることも多い、それでも昨日みたいに突然いなくなることはないではないか。そのあたりは今日言っておかないとだめね。

 なんとか自分を正当化させたところで、だんだんと学生たちが入ってきた。

 もうそんな時間になっていたのか。

 後ろの扉が開く音が聞こえたので振り向くと、さっきまで思考していた九鬼の姿がある。今すぐにでも昨日のことを言おうかと考えたけれど、朝からこんなことを言って、また煩い奴などと思われたら嫌だな。とその場にとどまった。

 そのうちに教授も入ってきて、講義が始まった。鳴鹿も意識を切り替えて、勉強モードへと移行する。

 はずだったのに。

 突然ズボンのポケットに入れておいたスマートフォンが振動する。こんな時に何だろうと、少し苛立ちながら画面を見る。そこには一兎躍如いっとやくじょの文字。どうやらメールのようである。

 躍如さん?

 これはたしか、如月さんのお母さんだったか。宛先は一斉送信になっていて、八人ほどに送っているようだ。

 講義中に、しかも教授の目の前でスマホをいじるというのは大変申し訳ないのだけれど、何か嫌な予感がする。あの人がメールをくれるだなんて、しかも宛先が宛先である。

 教授が黒板に向かった瞬間を狙い、メールを開く。

 汗がふき出した。

 今の時間と、メールを送られた人たちとを確認して、すぐに席を立つ。

 さっきまで散々大学について考えていたにも関わらず、こんなことをしてしまうのは心苦しいけれど、今は緊急事態だ。

 エマージェンシーである。

 すぐさま荷物を片付けて、いつもの席に座っている九鬼めがけて階段を上る。

「如月さん……」

メールの内容は端的で、予断を許さない状況であることが如実に伝わってきた。


娘が攫われました

家に天狗と書かるた紙が落ちていました


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