駒心情
私がこの幼子のことを、下の名前で、しかも呼び捨てにしていることに違和感を感じる方もおられると思うが、しかしこれは私が進んでそう呼び始めたわけではない。
狛自身がそうしてくれと頼んできたのだ。
最初はそれこそ『様』をつけて呼んでいたものだった。しかしそう呼んだ次のタイミングに、その呼び方はやめてくれと言われてしまった。
あとあと話を聞いてみれば、衣隠はもちろん、言葉や菊秋に対しても同じようなことを言っていたようだ。確かに年齢だけをみればその方が適切なのかもしれないが、しかし立場を考えると素直に従えない部分もある。
否、立場を考えるのであれば、素直に従うしかないのかもしれないが。
私もようやくこの呼び方に慣れてきたが、他の人たちはどうなのだろう。今度それとなく聞いてみようかな――などと、益体もないことが頭の中で回り始める。
突然目の前に現れた断乃家の当主は、その場に立ち上がろうとした私を手で制し、
「そのままで」
と、静かに声を発した。
向けられた掌から目が離せないでいると、不意にあの夜のことを思い出して少しだけ背筋が冷える。和室に響いた声音はあの時よりもわずかにだが柔らかく、私の身体を慮る気持ちが見て取れた。しかし英雄の青年を軽々と吹き飛ばしたあの力、そしてそれを生み出したこの幼子の身体に、本能的な恐れを抱いてしまっているのかもしれない。
幾度か話をしたことはあったものの、彼女が戦っている姿など初めて見たのだ。もしかしたら現在の当主陣でさえ、実際に目の当たりにした人などいないのではないだろうか。しいて言うなら、御土のおじいさんか、あとは連絡係の藁くらいか。今までにそんな話はこれっぽっちも聞いたことはないが。
やがて、狛の白く細い腕は下げられ、テーブルを挟んだ対面に腰を下ろした。この家の主を座椅子も座布団もない畳に直に座らせるのは忍びなかったが、私がそれを告げる前に先手を取られた。
先手というなら、彼女がこの部屋を訪れた時点で既に取られているのだけれど。
「改めて、お身体の調子はいかがですか?」
問われて、そういえば最初に同じことを聞かれたなと思いだした。突然の登場に驚いて、そちらの方に意識が引っ張られたばかりにきちんと応えていなかったのだ。
二度も質問をさせてしまったことを申し訳なく思いつつ、ようやく少し落ち着きを取り戻した私は口を開く。
「おかげさまで、もうだいぶ良くなったよ。すまないね面倒を掛けて。助けてくれてありがとう」
言いながら、テーブルに額が付きそうになるまで頭を下げる。
「それはなによりです。ああ、あたまも上げてください」
そんなに気を遣わなくてもいいと、狛の纏う雰囲気が語りかけてくるが、それでも私はそのままの姿勢を数秒保った後にゆっくりと身体を戻した。
正直に言ってこんなものでは足りないのだ。
言葉や態度で返せる恩ではないと、その程度の自覚はある。しかし今の私に何ができるわけでもないし、狛自身もこれ以上のことを望んでいるとも思えない。
都合のいい考えかもしれないが。
「もみじさんに、みくさんが起きられたと聞いたので、つい来てしまいました。ちょうど食事をおえたところのようでよかったです」
口元に僅かな笑みを浮かべる様子は、本心から私のことを心配していたように感じた。疑っていたわけではないが、わざわざこちらに足を運んできた理由は何だったのだろうと、少しばかり疑問には思っていたのだ。
もちろん、本気で心配をしてくれていたとしても、それとは別の内情があるのかもしれない。そしてそれを容易に表に出すほど、この子の精神は見た目ほど幼くないだろう。
とはいえ、ここでこんな気を張ることにどれだけの意味があるのか。
別段、私は彼女と対立しているわけでもないし、そもそも身内だ。病み上がりの今この状態で、更に神経を使うような考え事は避けておきたいし。
だいたい、彼女が言えと言ったら、私はそれを断れる立場にいない。
あの戦いぶりを見た以上、力尽くでも吐かされるだろうと思う。
狛がそんなことをするかどうかは別としてだし、私が話さない理由もない。
狛は私がぐちぐち考えている間にも、他愛のない話を弾ませていた。今このタイミングで私の家族の話は触りづらい部分があるので、そこはあえて避けているようにも感じたが。
普段の生活や、他の末裔との関係性なんかも聞かれた。
それが十数分続いたところで、再び襖の奥から声がかかる。
今度こそ紅葉さんのようだ。
一瞬だけ狛の方を見やり、彼女が頷くのを確かめてから返事をする。
「失礼します。ああ、ご当主様、もうこちらに来られていたのですね」
「ん、すまない、がまんできなくて」
この辺りは子供っぽさがあるんだな、などと思わず苦笑してしまった。
紅葉さんを交えての歓談は思いのほか和気藹々と進んでいった。
彼女は自身の主相手にも他家の当主相手にも、当然最低限の気遣いはあるものの、変に物怖じせずに会話ができているようで、いい関係性が築けているのだなと感じる。
それはまぁ、私と狛にも似たよなことは言えるのだけれど。
「みくさん、ほんとうにお身体はだいじょうぶそうですね。あんしんしました」
ややあって、狛が僅かに声のトーンを落としながら私に問いかけてきた。
「それでですね、みくさん。今回のじけん、あらためてさいしょから聞かせていただいてもいいでしょうか」
最初から、というのは、私が言葉から英雄の一族について教えてもらった時からだろうか。確かに彼女にはその権利はある。
というか、御土のじいさんはこちら側には伝えていなかったのだろうか。それとも当事者から聞きたいのか。
この屋敷に運ばれるまでの経緯を脳内で逆再生し、淀みなく話せるよう整理する。
その中には我が家での惨劇も当然含まれているので、それを思い出すのは胸が苦しいが、しかし話さないわけにはいかないだろう。
何よりそれが私を動かした引き金になったのだから。
二人の顔が真剣なそれになったのを見ながら、私は語りだした。自分がいかに驕っていたのかを再確認するかのように。




