遭朝
明くる朝、目覚まし時計ではなく日の光で目が覚めた。そもそもこの部屋に時計などないことに起きてから気付いたのだけれど。スマートフォンも持っていないこの身では、アラームのかけようもなかったのだ。
しかし自然の力で起きるというのは、存外心地いいものだ。こんなこと、久しく経験していなかったので、何とも言い難い清々しさが体を包んでいる。
「んっ」
軽く腹筋に力を入れて上体を起こし、手を組んで伸びをすると徐々にだが意識がはっきりとしてきた。少しはだけた着物を整えながら、日の差し込んでくる障子の方へと向かう。
足の裏に伝わる畳の感触が心地よく、これも久しぶりの感覚だなと思う。
障子に手を掛けゆっくりと横へスライドさせると、雲一つない晴天が目に飛び込んできた。鮮やかな天色を視界に捉えながらも、それに負けじと昇り始めた太陽の光が自らの存在を世界に主張してくる。
まだそこまで日が高くないことを見ると、どうやら昼過ぎまで寝過ごすといったことはせずに済んだようだ。いくら疲れていたとしても、日ごろの習慣はそう簡単に変わらないらしい。
そのまま数秒、もしくは数分だったかもしれないが、暖かな日差しを全身に浴びて普段意識しないような爽やかさを味わう。一昨日あんな出来事があったとは到底思えないような時間の過ごし方だと、そうぼんやり頭に浮かんだ。それに、あの時点ではこんな朝を迎えられると思っていなかったな、とも。
このままここでのんびりとした時間を過ごしていたい気持ちがふつふつと沸きあがってくるが、そういうわけにもいくまい。そろそろ家主にも挨拶をしておきたいし。
とはいえ、全く知らないわけではないけれど、それでも勝手知ったる家とは言えないので、ふらふらと歩きまわるわけにはいかないのだが。
しかしお手洗いには行きたいと思ってしまっても仕方ないだろう。
人間、なのだから。
とりあえず行く先を決めて、板張りの縁側を裸足でひたひたと歩く。
ただ目的地が決まったからといって、そこへの道順までは正確にはわからない。トイレの場所は以前この屋敷に来た時に教えてもらったが、しかし現在地が判然としない中では迷わずに辿り着ける自信もさほどないのが事実だ。
なんとなく見覚えのありそうな方向へと適当に進み、後は己の勘を頼りに指針を決めるしかない。
そんな中でも、長閑な陽光と、足の裏に伝わるひんやりとした感覚が妙にバランスが取れていて、歩を進める度に寝起きの頭が冴えていくのがわかる。
似たような曲がり角を何度か曲がり、ともすれば元の部屋に戻れなくなるのではなかろうかという不安を抱えながらも、何とか目的のトイレへと着くことが出来た。
和の屋敷にも拘らず、綺麗な洋式トイレで用をすまし、扉を開ける。
「あっ――おはようございます、未朽様」
そこでばったりと紅葉さんに出くわした。
一瞬の驚きからすぐに立ち直った彼女に挨拶をされ、私もすぐに返す。
「おはようございます」
今が何時なのかわからないが、彼女はもう自身の仕事に従事しているようだ。昨夜とは違う和装を身に纏い、たすき掛けした状態でいくつかの荷物を抱えている。
後ろで結ばれた髪が挙動に合わせてゆらゆらと揺れているのが何とも愛らしい。
「お早いんですね、もう少しお時間をおいてから起こしに行こうかと思っていたのですが」
「勝手に目が覚めてしまって。今は何時なのかしら」
「えっと、七時三十分過ぎですね。もう少し休まれてもよろしいのですよ」
思っていたよりもやや早い時間だった。
確かに早くに起きて何かをしようと思っていたわけでもないし、肉体的にも横になっていた方がいいのかもしれない。だが、
「いえ、もう目も覚めてしまったから、このまま起きていることにするわ」
「かしこまりました。それでは朝食のご用意を致しましょうか?」
「そうね、申し訳ないけどお願いするね」
向こうからすれば完全にお客様扱いなので色々と配慮をしてくれているが、こちらからすれば掛け値なく命の恩人の家だ。助けてもらった挙句、身の回りの世話までされてしまえば、至れり尽くせりではあるものの心苦しさがどこまでも付きまとってくる。
そんなことを紅葉さんに伝えたところで彼女はきっと、気にしないで下さいと言ってくれるだろう。そしてそういったことを私に思わせてしまい申し訳ないとまで考えるかもしれない。
ならばここで余計なことは言わないのが吉だと、そう結論付けた。
事実、私の身体も本調子とは言えないし、甘えられる部分は甘えておきたい気持ちもある。
そんな私の心情を察したのか、紅葉さんは今なお昇り続ける朝日のように朗らかな笑顔を作って、いつものように柔らかく応えてくれる。
「かしこまりました」
私が寝室として利用していた部屋とは違う部屋に案内されしばし待つと、一人分の朝食が運ばれてきた。
室内のつくりは基本的に同じで、違う部分といえば中央にテーブルと座椅子が置かれているくらいだ。それもこのために用意されたもので、きっと普段は別の用途で使われる部屋でもあるのだろう。
紅葉さんはひとしきり料理を並べ終えると、仕事があると言って席を外してしまった。彼女は彼女で既に食事は済ませているのだろう。
出された料理は、屋敷の雰囲気に沿った和食がメインのものだ。
この家の基本的なメニューなのか、それとも私の身体に気を遣ったものなのか、どちらにしろ今のコンディションには大変ありがたい。
出汁のよくきいたお味噌汁を口に運び、染みわたるような美味しさを全身で感じながらほっと息を吐いた。
一つ一つの料理をゆっくりと味わいながら箸を進める。静かな空間に、僅かに食器から弾ける音だけが響くのを聞きながら、やがて食事を終えた。
ごちそうさまでしたと手を合わせてから、空になった食器たちをどうしようと目を下に落とす。
少し待てば紅葉さんが様子を見にくるだろうと当たりをつけて、とりあえずそのままにしようとしたときに、襖の向こうから控えめな声が聞こえてきた。
はっきりとは聞こえなかったが恐らく紅葉さんだろう、あまりにもタイミングが良すぎるが。
「どうぞ」
名前を呼ばれた気がしたので、そう返事を返す。完全に使用人の彼女だと想定していた私は、次の瞬間に現れた相手に、危うく後ろへとひっくり返りそうになった。
「みくさん、お身体の調子はいかがですか」
「こ、こま」
こともあろうに、命の恩人、その本人がわざわざ足を運んできたのだ。




