空怒
蛇沢未朽は戸惑っていた。
自宅で夫が斬り伏せられていた時と、同等以上の戸惑いだ。
あの時は、怒りの感情も多分に含まれていたけれど、驚き、戸惑いで言ったら、こちらも引けを取らない。
むしろ今回の方が大きいかもしれない。
身体のあちこちで疼いていた痛みも忘れ、上空の圧倒的存在に意識を奪われていた。目の前の青年も、どうするべきか決めあぐねているようで、視線を彷徨わせている。
そんな地面に並ぶ二人を見下ろしながら、ゆっくりとそれは降りてきた。
人の形という認識が徐々に詳細を帯びていき、自身が何者なのかを周囲に知らしめる。やがて、地面から三メートルの高さで停止、ゆっくりと視線を巡らせる。
それは少女だった。
十歳前後の見た目。
肩より少し下で切り揃えられた黒髪は、この雨の中でも何故か濡れてはいなかった。しかしそれでも、漆塗りのような艶やかさを備えていて、手入れが行き届いていることを思わせる。
小さく形の整った口や、ぱっちりとした丸い瞳、年相応のあどけなさを残す顔には、しかし冷酷な表情が刻まれていた。
そんな少女を認め、自分の認識が間違っていなかったことを確信した蛇沢未朽は、空中の彼女と目が合った瞬間に、その名を口に出していた。
「こ……ま……」
呼ばれた少女は声の方へと顔を向け、一瞬だけ表情を緩めて笑みを浮かべる。そしてそれが見間違いだったと、そう思わされるほどの冷たさを乗せた視線が、青年を容赦なく突き刺す。
「誰だてめぇ」
敵意や害意どころではない明確な殺意。
地面に伏した蛇の女よりも、更に純度の高い殺意に肌を焼かれる。そんな錯覚に陥りながらも、それでも何とか言葉を投げる。
現状を鑑みれば、蛇の女と空中の少女が味方だということは一目瞭然だ。
ということは、蛇の女が属する龍の末裔のうちの誰かだということは推測できる。
しかし、その先には至れない。
蛇という存在にしか興味のない青年にとって、それを取り巻く環境など、ただの付属品に過ぎないのだから。
「わたしがだれであろうとあなたには関係ない。あなたがだれであろうと、わたしには関係ないように」
空中の少女はそう返す。
その冷たさに呼応するように、降り注ぐ雨は勢いを増したようだった。ともすれば、雨音で少女の声も聞き取れなくなってしまうほどに。ただこれも不思議なもので、蛇の女には一滴の雨粒も当たっていなかった。
雨自体が自ら避けていくように移動している。
数秒なのか、数分なのか、時間の感覚が鈍ってしまった中で、再び少女が言葉を紡ぐ。
「わたしはただ、あなたを許さない」
言いながら、右手をゆっくりと上げる少女。
何かが来ると直観的に察した青年は、下げたままだった刀を構え、受けの姿勢をとる。どこから何が来ても、対処するという意思が見て取れたが、少女は意に介する素振りも見せない。
「斬雨」
その声はやはり小さく、集中して耳を傾けないと気づくことすらできないほどだ。ただ、言葉が聞こえたとしても、聞こえなかったとしても、起こる事象にさしたる変化などない。
呟きと共に振り下ろされる右手。
その動作に連動しているのか、青年を中心とした半径一メートルほどの円内の雨が強くなる。
強く、そして鋭く。
突然の超局所的豪雨に思わず目を瞑ってしまった青年だったが、その次の瞬間に腕に痛みが走った。
更にその痛みは腕だけに留まらず、顔や体、上半身にも下半身にも襲い掛かってくる。
あまりにも唐突な衝撃に耐えかね、閉じられた眼を見開く。するとどうだ、体中が大小さまざまな裂傷で彩られていた。鏡を見るまでもなく、自分が真っ赤に染まっていることがわかる。
溢れ出た血は、すぐさま雨で洗い流されが、しかしその雨を浴びる度に、どんどん傷は増えていった。
刀一本でどうにかできるものではない。
物量が違いすぎる。
これ以上はまずいと思ったのか、青年はその場で反転して勢いよく前方へ飛んだ。そして半ば地面に向かってダイブするように、豪雨の円を脱した。
無数の傷跡が刻まれた体がアスファルトに打ち付けられた途端、鈍い痛みと鋭い痛みが同時に襲い掛かり、思わず口からうめき声が零れる。
「はぁっ、はぁっ」
豪雨の中に晒されたのは、ものの数秒のはずだ。しかし彼の肉体には見るに堪えないほどの傷がついている。
空中で止まったままの少女は、そんな息も絶え絶えな青年を、変わらず冷たい視線で見下ろしていた。
それでも、こんなものでは終わらせないと言わんばかりに、再び右手を上げる。
今度は胸の前に構えられ、一瞬の制止。
そして、
「断雨」
少しばかり怒気の増した声音とともに、右手は水平に薙がれる。先ほどと同様、天から降り続く雨が少女の動きに呼応し、意志をもって動き出す。
あろうことか、雨は横に流れた。
しかも今回は雨粒のままではなく、一つの大きな塊となって。
全長およそ四、五メートル、幅六十センチほどの巨大な剣となった雨の集合体は、少女が薙いだ軌跡を辿るようにうなりをあげて空を裂く。
その先には、刀を支えにして立っている青年の姿。
意識があるのか、それとも無意識でのことなのかはわからないが、半透明の剣が己を断ち切る寸前で、彼は支えにしていた刀を持ち上げた。
甲高い衝撃音と共に、宙を舞う青年の姿を、地面に座り込んだまま蛇沢は見る。
何の前触れもなく表れた救世主に、しかし彼女は諸手を挙げて喜ぶことはできなかった。




