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天嵐の龍  作者: 誇張蘭
第一章 兎攫いの狗
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事件

 一般家庭のそれよりかなり大きい家に帰宅をした時には、既に母の姿はなく、泊まり込みで出かけてくるとの書置きと、ラップがかけられた夕飯があるだけだった。相変わらず忙しい人だな、と軽く労をねぎらってからリュックを放り投げる。ご飯は帰ってきてからにしようと、冷蔵庫に置いておいてから家を出た。

 自宅を出て四十分くらい経っただろうか、最初から少しとばし過ぎたようで若干息が乱れている。

 それでも走ることを止めたくはない。立ち止まってしまったら、何かに追いつかれてしまいそうで、深い闇に包まれてしまいそうだった。

 たとえそれが自分の勘違いであっても、気のせいであってもそんなふうに思ってしまう。

「でもちょっとのどが渇いたかな」

たしかこの辺りには小さな公園があったはず。そこで水分補給をしておこう。やよちゃんにも言われたし、のどが渇いたと自覚するころにはもう既に、脱水症状になっているらしいし。

 この時間になるともう人気は少なく、周りを見ても誰もいない。そのことを知覚した途端、急に不安な気持ちがせりあがってきたので、急いで水を口に含み飲み下す。ぬるめの水は身体に染み渡るようで、ちょっとだけ体力が戻った気がした。

「まだ、走れるよね」

このまま家に帰っても眠れる気がしない。身体は疲れているはずなのに、布団に入っても寝付けない時があるのだ。

 もっともっと走ってこの嫌な気持ちを払拭しなきゃ。でもこんなに走ったら明日の授業大丈夫かな。と思ったけど、いざとなったらテスト前にやよちゃんに教えてもらおう。

 そんなことを言うと、

「それならさらちゃんは、毎回がそのいざって時なんだね」

とでも返されそうだ。否定はできないけど。

 やよちゃんの柔らかな笑顔を思い浮かべて、嬉し切ない気持ちになりつつも、足を前に出した。

 つもりだった。

 確かに足は前に出ているけど、それが地面に届いていない。

 身体が奇妙な浮遊感に襲われる。

 頭が回らない、あたしはどうなっているの。

 下を見る。浮いている。飛んでいる。

 自慢の足がスカスカと宙を蹴る。

 上を見る。さっきまではただただ黒い空が広がっていたのに今はそれが見えない。

 その代わりに変な影があたしを覆っている。

 確認できたのはそこまでだった。

 突然あたしの肩を掴んでいた影は、上空へと急上昇し、そのまま速度を落とすどころか、さらに加速をして民家の上を通り過ぎて行った。

 急激な気圧の変化と速度の変化に、部活と走り込みとで疲れ切っていたあたしは、なすすべなく気を失った。

 最後に見えたのは、少し長い鼻と、

 濁った血のような赤い目。


 「――ッ」

ここ、どこだろう。と声に出すつもりが、それは音として発せられなかった。どうやらガムテープで口をふさいであるようだ。

 今日一日にあったことを思い返して、少し冷静さを取り戻した如月は現在の状況を分析する。

 ……誘拐じゃん。

 二秒で結論が出た。というか分析の必要がないくらいの立派な犯罪である。

 立派な犯罪って何だ。犯罪に立派も何もあるものか。でもよく聞く言葉だしな。立派ってそもそもどういう意味だっけ。

 それくらいのことを考えられる余裕は出てきた。たとえ今自分が顔にガムテープを張られて、目隠しをつけられ、縄でぐるぐる巻きにされた挙句、手錠で鉄製のポールと一体化させられていても、だ。本人はその姿を見ることができないので、細かい部分まではわかっていないが、おおよそどうなっているかは見当がつく。

 少女誘拐事件

 文字だけで見れば、またもやネットの影響だとか、アニメが悪いとか世間は言うのだろう。しかしコトはそれだけではない。

 あのときは突然のことでパニックになってしまったけど、よく考えてみればありえないことではないのだ。世間一般の常識では考えられないことだが、あたしたちの世界では何が起こっても不思議ではない。

 それが、人間が空を飛ぶという現象であっても。

 いや、それはもはや人間ではないのか。

 あたしたちと同じように。

 そう考えると、これはただの身代金目的による誘拐や、性的な考えでの犯罪ではないように感じられた。

「――ッ」

また声に出そうとして失敗しちゃった。同じミスを繰り返すのは、愚か者だと誰かが言ってたな。

 お金や性欲が目的でなく、人外の者があたしを攫うとなると。

 もう龍がらみのことしか考えられない。でも、そうなると本家のあの子を狙わなかったのは、やはりガードがきついからかな。あの子はあたしたちとはまた違う舞台にいるんだし。

 …………。

 それより今は、これからどうするかを考えなくちゃ。お母さんは家にいないから、あたしが帰らなくても不審に思うことはない。となると明日の学校で気づかれるのかな。いやでもそのまま欠席扱いにされちゃうとか。

 んん……。

 当然そういった連絡は学校側にはいかないはずだし、変に思った担任の先生がお家に電話してくるかな。あ、でもリュックはリビングに置きっぱなしだからお母さんが帰ってきたら、何か気づいてくれるかもしれない。

 帰ってきたら……?

 お母さんて、いつ帰ってくるか言ってたっけ。いや、書いてあったっけ。

 焦る気持ちを抑えて、記憶をたどる。

 書いてなかった。

 そうであっても、あの仕事人が午前中や、お昼過ぎに帰ってくるとは思えない。

 ちょっと、これって。

 あたしのお父さんはもういないから、今はお母さんとの二人暮らしだ。担任の先生が家に電話をしたとしても出られる人はいない。

 こういう場合はどう処理されちゃうのかな。一日くらいならやっぱり風邪で欠席になるよね。もしかしたらやよちゃんがお見舞いに来てくれるかもしれない。でも家からの応答がないからって、すぐ誘拐だってわかるわけもない。

 考えれば考えるほど希望が無くなっていくようだった。母が帰ってくるのは早くても夕方の六時ごろだろうと推測している。今が何時なのかは見当もつかないけど、少なくともあれから数時間は経っているはず。

 それでも最低十二時間は誰にも気づかれない。もし警察に通報したとしても、そこから捜査を始めて、果たしてどれくらいで見つけてくれるのか。しかも相手は普通の(誘拐をする時点でもはや普通ではないが)人間ではなく、人外の生物かもしれないのだ。

 空を飛んで移動できるならば、どこへなりとも身を隠せるだろう。逃走ルートとか、移動時間の考え方も、一般的なそれとは変えなければならない。

 どうしよう。どうしよう。

 さっきまでの冷静さが嘘のように、あっという間に焦燥感が襲ってきた。

 一度現れた負の感情は、すぐに肥大化し、様々な形として如月の心を蝕んでいく。

 監禁という形で済んでいるからには、すぐに命の危険があるというわけではないと思いたい。しかし、視覚を遮断され、口までふさがれているならば、犯人は交渉しようという気がないのかもしれない。ということは、あたしはただ助けを待つだけの憐れな兎も同然だ。

 ようやく自分が置かれている状況を理解し始め、目に雫が溜まってきたとき、背後で物音がした。気がした。

 衣擦れのような、小さい音。

 もしかして犯人はすぐ近くにいるの?

 人の気配はしないけど、でもその考えに至ってしまうとますます落ち着かない。無理にでも縄をほどこうとしたら、何かされるかもしれない。

 そうでなくとも次の瞬間には刺されているかもしれない。

 かもしれない、が次から次へと頭の中をよぎり蓄積されていく。不安が不安を呼び、焦りが恐れを増幅させ、今にも心臓が破裂しそうだった。

 頬が涙で濡れる。


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