痛心感情
「また顔を伏せてるの?」
廊下の奥から、そんな言葉を投げながら鳴鹿が歩いてきた。
文面にしてみれば、少しばかり棘の際立つ言葉になるかもしれない。しかしその声音と、彼女の表情には、僕を慮るような感情が含まれることがありありと感じられた。そんな気持ちを隠すでもなく、むしろ前面に押し出そうと思われるくらいには、今の僕は落ち込んでいるように見えたのだろうか。
見えたのだろうな。
顔を下に向けていたのは、腕の中で眠る無朽ちゃんを見ていたからではない、ということもバレていそうだから。
「いくらここで九鬼くんが落ち込んだところで、決していい方へは動かないわよ」
「だろうな、わかっちゃいるけど」
わかってはいるのだ、本当に。
しかし理解しているからといって、それが行動に表れるかどうかはまた別の問題である。
「今現在、私たちに出来ることはもうなくなったんだから、あとは信じて待つだけでしょ」
「あー、そう割り切るのも、なかなかできることじゃないんだけどな」
信じて待つことが、どれだけ難しいか、鳴鹿だってわからないわけではないはずなのに、平然と言ってのけるその姿には少し驚かされる。
「それはそうでしょうよ。目の前でこんな姿を見せられて、私まで落ち込んでいられないもの」
どうやら僕のせいらしい。
所為というか、おかげというか。
自分より慌てている人を見ると、むしろ冷静になれるという心理が働いているのだろうか。
いや、それに近くはあれど、まったく同じものではないか。
自分だって通常通りのメンタルではないはずなのに、努めて冷静であろうとしてくれている。僕のために。
まったく、伏せた頭が上がらない。
「心配かけて悪かったな」
彼女の胸中が少し読めてしまっただけに、謝罪の言葉はすんなりと出た。それを聞いた鳴鹿は少し驚いたふうな顔をしたあと、呆れ半分、あとは慈悲半分? に言葉を返す。
「九鬼くんが素直にそんなこと言うなんて、よっぽど弱ってるみたいね」
彼女が口元を緩ませて笑みをこぼす様子を見て、ほんの僅かだが、僕の心も落ち着いたようだった。
「それで、連絡はついたのか?」
僅かな雑談の後、僕は鳴鹿に質問をする。彼女が少し席を外していた、主たる理由がそれだからだ。
先ほどの話を抜きにしたって、僕たち子供にはどうしたってやれることとやれないことがある。大人に頼らざるを得ない部分なんて、いくらでもあるのだ。
そういうわけで、鳴鹿には大人に連絡を取ってもらった。
「ええ。……藁さん、相変わらずだったわ」
三十センチほどの距離を開けて隣に腰かけた鳴鹿は、少し顔を歪めながらため息交じりにそう呟いた。嫌悪感とは言わないまでも、苦手な様子を隠す素振りもない。
今更隠したところで、鳴鹿が彼を敬遠していることは既に知っているのだけれど。
「そうだろうな。それがあの人の良いところでもある」
もちろん、悪いところでもある。
「それにしたって、こんな状況でもあんなに淡々としていられるなんて、わかってても気持ちのいいものじゃないわ」
「それについては同意するけどさ」
つまり、僕も得意ではないということだ。
だからといって電話口のやり取りを鳴鹿に押し付けたというわけでは、決してない。そこだけは勘違いしないでいただきたい。
有難いことに、彼女の方から申し出てくれたのだ。
意気消沈というか、気落ちしていた僕を見かねてのことだったのだろうと思う。
「……別にそれだけが理由じゃないけれどね。現場の状況とか、未朽さんの様子とか、実際にその目で見た当事者である九鬼くんの方が、より詳細に話すことができるとは思う。だけど――」
横にいながらも、目を合わせないままに鳴鹿はそう言ってくる。心配していたということが、今更ながらに恥ずかしくなったのか、ある種の照れ隠しのようだ。そんな可愛さがこいつにあるのだろうかとは思ったものの、口には出さない。
その程度のデリカシーは一応備わっているのだ。
まぁ、そんなことを思ってしまう時点で些かデリカシーに欠けている気もするけれど。
「――知っているからこそ、逆に感情的になりすぎてしまうかもしれないでしょ。そうなると、藁さんだって正しく受け取られないじゃない」
当事者だからこそ、冷静ではいられないということだろうか。
実際、その可能性はある。
鳴鹿がこの病院に駆けつけてくれた時も、過不足なく正確に状況説明できていたかというと、そんなことはなかったと思う。
そのことがあったからか、なおさら僕には任せられないと判断したのだろうか。
「とりあえず、後は藁さんに任せましょ。他には――――衣隠さんからは、まだ連絡こないの?」
「ああ、電話にも出ないし、簡単に何が起きたかだけはまとめてメールしておいたけど」
未だに折り返しも、返信もない。
確かにあの人は自由人だし、いつだって即座にレスポンスをくれるようなマメな人ではない。むしろ遅い方かもしれない。
それでも、こういった緊急の事態であれば、どういう形であれ絡んでくるものと思っていた。それも僕の思い込みだと言われてしまえばそれまでだし、確たる証拠があるわけでもないんだ。
あの人に頼り切りになるのも、危うい。
かと言って、存在を無視できるほど、小さい人でもない。
いない人に対してあれこれ想いを巡らすのもどうかとは思うけれど、しかし理性で抑えられるものでもないようだ。
それほどまでに、僕にとって鷹宮衣隠という存在は巨大なものとなっている。
「いつまでも甘えてられないけどな」
小さく細く、俯いたままで呟いたその声は、たった三十センチの距離の鳴鹿にすら聞こえていないだろう。
聞き返されることも、言葉を投げかけられることもなかったから。
それでも聞こえていたかもしれないということは、意識的に考えないようにしていた。
僕から受け取った無朽ちゃんを抱きかかえ、ありったけの優しさで包み込もうとするその姿を見れば、余計な事など何一つ言えなくなってしまうのだった。




