兎
暗い。
ただ、暗い。
怖いよ、言葉さん。
十家が一つ。一兎家の長女、一兎如月は誘拐されていた。中学二年生にして既に龍の力の一部を持つ彼女だが、それは決して望んだものではない、しかしこの家系に生まれたからには致し方ないことであった。
普段は明るく活発な女の子ではあるのだが、それでもこの状況で楽観的でいられるほど成長はしていないし、そもそも大の大人でさえ怖がっていてもおかしくはない。
事件は十月十四日に起きていた。
一兎如月。彼女は市内の中学校に通っており、その日も当然登校していた。成績はバカではないと言えるくらいだが、その人柄からか友人も多く教師からの信頼も厚い。それに何より陸上部に所属する彼女は部内のエースとして期待されていた。放課後の練習はもちろん、毎朝毎晩のジョギングは欠かしたことがない。ただ、若干では済まされない程度の方向音痴であるため、あまり遠くまで走ると帰るのに一苦労してしまうのが玉に瑕ではあるけれど。
まだ幼さの残る顔はどことなく小動物のようでもあり、短く切りそろえた髪の毛は細く綺麗で、もちろん女の子としては髪を伸ばしていろいろな髪形を試してみたり、もう少し大人になれば染めたりもしてみたいと思っていた。
少し特別な運命を背負わされたことを除けば、そんなごくごく普通の少女である。
その日もいつも通り、朝の日課を終えてからシャワーを浴び学校へと向かった。今日は少し寝過ごしてしまったので、ジョギングは近場で済ませてしまったけれど。
過去には早起きをしてしまったばかりに調子に乗って遠出をした結果、朝のHRに遅刻しかけるという恥を晒したので、早起きよりはマシだろうと考えながら登校する。すれ違うクラスメイトと挨拶を交わしながら歩き、朝の新鮮な空気を肺いっぱいに取り込む。
「今日もいい天気だなっ」
空を見上げて笑顔になると、少し速度を上げて歩道を歩いていく。
市立きのえ中学校は一クラス三十五人程度で、一学年に三もしくは四クラスあり、全校生徒で約三百五十人いる。如月はそんな学校の二年三組に在籍していた。
「おっはよーさらちゃん」
トン、と自分の席に座っていた彼女の肩に手を置きながら朝の挨拶をしてきたのは、同じクラスの女の子。
「やほ! やよちゃん」
少女の名前は相生弥生といってあたしの親友だ。出会いは小学校なのだが、あたしの名前が如月で、彼女が弥生。旧月でいうところの二月と三月なのですぐに仲良くなった。(まあ小学生の頃は旧月なんて知らなかったケド)しかも今の出席番号は三番と二番でそこは逆になっているところがまた面白い。
弥生ちゃん。通称やよちゃんはあたしと違って女の子女の子している子だ。ちょっと垂れた目は愛くるしくて、セミロングの髪の毛はふわふわしている。何度もお出かけをしているが、私服も実に可愛らしくてあたしには似合いそうもない服をたくさん持っている。
それが羨ましくないと言えばもちろん嘘になるけど、それでもやっぱり一緒にいて楽しいし、大切な親友だって胸を張って言える。
いつかのテレビでやってた気がするんだけど、恋人は互いに自分の持っていないものを補い合える人を選ぶんだとか。そういった意味では、あたしたちの関係は親友よりも恋人寄りなのかもしれない。
そういえば友達以上恋人未満なんて言葉をよく聞くけど、この場合は親友以上恋人未満になるのかな?いやいや、やよちゃんと恋人関係になるつもりはないです。
というよりこの言葉について言うなら、恋人を友達よりも良いものとして扱っているのにはなんとなく疑問を感じるなぁ。恋人と友達とでは、その立ち位置というか……ステージみたいなのが違う気がするから、同じ物差しで測っちゃダメだと思う。
「さらちゃん? もうすぐ先生来るよ?」
おっと、考え事をしてたらもうそんな時間か。
「ん、そうだね。あーあ、今日も学校が始まるなぁ」
子どもらしいぼやきをしてから机に突っ伏す。仕方ないよと、隣の席のやよちゃんが笑いながら髪の毛を櫛で整えている。その姿も可愛くて、今日も一日頑張ろうと思えた。
思えただけだった。
一時間目:国語
「古文って何のために勉強するのよぉ」
「昔のことを知れば、今の生活に活かせることもあったりするのよ、さらちゃん」
「そうは言ってもさ、今あたしたちはこうやって普通に会話をしてるわけだし、今さら昔の言葉を知ったところでどうしろって言うのよ。みたいに考えちゃうのよね」
「うーーん。でも、時代によって意味が変化してきた言葉とか、新しく生まれたもの。そういうのを知れるって楽しくない?」
「同意しかねます」
二時間目:社会
「歴史って何のために勉強するのよぉ」
「昔のことを知れば、今の生活に活かせることもあったりするのよ、さらちゃん」
「…………」
「…………」
「それでも縄文時代とか弥生時代とかいらなくない?」
「さらちゃん、それは暗にわたしのことをいじめているの?」
「笑顔が怖いですごめんなさい」
三時間目:数学
「数学って何のために勉強するのよぉ」
「昔のことを知れば、今の生活に活かせることもあったりするのよ、さらちゃん」
「……やよちゃん。さっきのことまだ怒ってるの?」
「そんなわけないじゃない。わたしはさらちゃんの親友だよ? いらないって言われたくらいじゃ怒ったりしないよぉ」
「あの、それならこっちを向いて話してほしいな――なんて」
四時間目:体育
「きゃっほー‼ ついにあたしの出番がやってきたか‼ このときを待っていたよ」
「さらちゃん、お願いだから静かに……」
「ふっふっふ。足から生まれてきたと言われているこのあたしに、何を申しているのかね」
「誰に言われているのかわからないし、それただの逆子だよ?」
「そう、逆立ちしてでも走る女」
「足関係ないじゃない」
昼食
「おなか……減った」
「さっきの体育であんなにはしゃぐからだよ」
「やよちゃん、あたしの分の給食も持ってきて」
「はいはい、毎週のことだからそんなことだろうと思ってたよ」
「ハイは一回!」
「持ってきてあげないよ‼」
「あ! そういえば今日ってカレーだよね! やっぱあたし自分で行く! 大盛りにしてって言わなくちゃ‼」
五・六時間目:家庭科
「ふわぁー、やよちゃんさすがだね」
「お家でもやってることだし、これくらいなんてことないよ。要は慣れなの。どんなこともやればやるだけ上達するのよ。」
「ふむふむ。ところでさ、ばんそうこうって、まだあったりするかな?」
「さらちゃん、雑巾を一枚縫うだけで何枚使うつもりなの」
「今日も部活?」
授業を全て乗り越えて、帰りのHRが終わった後、やよちゃんが聞いてきた。
「もち、たっぷり走るよん」
練習を欠かしてはならない。走ることは決して自分のためだけではないんだから。
「毎日頑張るねぇ、しっかり水分取るんだよ。夏が終わっても脱水の危険はあるんだからね」
「夏……」
「ん? どうしたの」
「んん! ありがと! 自分のことはよくわかってるつもりだから、無理はしないよ」
何か余計な心配をかけたかもしれないけど、すぐ彼女から逃げるように教室を後にする。
やよちゃんは本当にいい子だ。それこそ恋人のセリフじゃないけど、あたしには勿体ないくらいのいい子。だからって誰にも譲る気はない。大切にしなきゃ。
学校は午後四時頃に全てが終わり、そこからは部活動の時間である。市立きのえ中学校、略称きの中は、一年生の時のみ強制的に部活動に入れさせられる。そして二年生になると帰宅部への移動が認められて、毎年約三分の一が放課後を遊びの時間に昇華する。
あたしは当然陸上部を辞めるつもりはないし、高校へと進学しても続けるつもりだ。やよちゃんはというと、元々手芸部に入部していたのだが、習い事の関係で二年生になってすぐ退部してしまった。その時の部員からはだいぶ引き留められたらしいが。
今でもたまに、他のクラスから彼女に教えを乞う子が来ている。その子たちと親しそうに手芸の話をしている姿を見ると、なんだかこう……。
いや別に、嫉妬とかそういう感情ではないんだけど、自分の知らない分野のことで他の子と盛り上がっていると少し寂しい気分になってしまう。いやはや、いつから自分はこんなにも独占欲の強い人間になってしまったのか。
やっぱりそうなのかな。
兎は寂しいと死んでしまうのかな。
「孤独死だけはイヤだなぁ」
部活を終えたあたしはとぼとぼと帰り道を歩く。十月にもなれば暗くなり始める時間も早くて、空は既に真っ黒だった。
走っている間はバカなことを考えずに済むのだが、暗い道を一人で歩いているとごちゃごちゃと頭の中をかき回されてしまう。この孤独感や不安感も一兎家の特性なのだろうか。だとしたら、余計なものまで受け継いでしまったみたいだ。
この不安定な心を何とか保とうとして、いつもは元気な女の子のように生活しているのかと、自分の性格すら疑問に思えてくる。
そんなわけはないと過去に何回言い聞かせたことか。
「こんな時は走るにかぎるよねっ」
負の感情に押しつぶされないよう、笑顔を作って小走りで家へと急ぐ。
今日は少しだけ遠くに行ってみようかな。いつもより長く走っていたいし。お母さんには先に寝ててもらおう。でもどうせ仕事で疲れてるだろうから、言わなくても寝ちゃうか。
今日ばかりは自分の方向音痴に頼りたい気分だった。迷えば迷うほど長く走ることができて、長く走れば走るほどその分この感情も消えてくれるのではないかと、そう願った。
いつものように。
「よーーっし! 今日も走るか‼」
その言葉を残して、一兎家の長女、一兎如月は十月十四日、午後七時五十三分に誘拐された。




