人質崩壊
「……っっくち」
自分のくしゃみで起きてしまった。どうやらお腹を出したままで寝ちゃったみたいだ。
もう十月の半ば。だんだんと寒くなっているようだし、気を付けなきゃいけないな。
少し痛む頭を押さえて、スマートフォンで時刻を確認しようとする。と、本体上部についているLEDが赤色にチカチカと点滅していた。この色はなんだっけ。
思い出すのも面倒なので、重い瞼をあけて画面を見る。閉めてあるカーテンが陽光を遮断して薄暗くなっている部屋に、スマホの小さい明かりが灯る。
ラインが三件。
メールが一件。
着信が一件。
どうやら着信が最後にあったらしい、だから赤に光っていたのか。
それよりも、気になることが一つ。一件のメール。このご時世にメールとはまた。
登録しているサイトからの配信メールは全てブロックをしてあるので、これは誰かからの連絡か、はたまた迷惑メールか。
今や無料で遠くの人ともやり取りができるようになったのに。さてさて誰だ? と、迷惑メールの方は考えないようにする。
画面を人差し指で軽く押す。
中身を見た途端に目が覚めた。
「起きろ」
軽い衝撃を受けて、目を開ける。ゆっくりと瞼を持ち上げたはずなのに、視界は薄暗いままだ。おかしいな。
と、そこで、今の自分の状態を思い出した。あたしは誘拐されちゃったんだ。どうやら泣きつかれた後に少し眠ってしまったようである。
この状況でも寝てしまうのは、よっぽど疲れていたのか、神経が図太いのか。
それとも、あまりの恐怖に現実から逃げたくなってしまったのか。この考えが、一番正解に近い気がする。
アイマスクを付けられているので、今の時間は見当もつかないけど、ほんの少しだけ光が差しているようだ。
でもそれが太陽の光なのか、蛍光灯の光なのかはわからない。
あれから一体どれくらいの時間が経ったんだろうか。お母さんは、やよちゃんは、クラスのみんなは、あたしが今こんなことになっているなんて、きっと想像もしていないよね。
助けなんて来るのかな。連れ去られたあたしですら、今どこにいるのかわからないのに、誰がわかっているのだろうか。
せめてあの夜、気を失わなければ……。どうにかなった、とは言えないまでも、情報は多い方が良いに決まっている。
今あたしがわかっていることは、誘拐されたということと、身動きが取れないということ。おそらく犯人も人外であるということ。
そして、あとは何もわからないということ。
すると、視界に変化が起きた。アイマスクを取られたのか、と遅まきながら気づく。
少し目を開け閉めして、慣れさせたあとに部屋の中を見渡す。中は思っていたよりも狭く、小さな小屋みたいだった。
小屋ってだけで、小さいの文字が入っているのに、更に小さいという形容詞をつけて、なんだか変な日本語になってしまった。
結構な年月が経っているのか、木は傷んでいて大型の台風でもきたら倒壊しそうな感じだ。テーブルの一つもない部屋ではあるが、壁には古びた縄や、鎖、シャベルなどが掛けられている。
そんな中にひときわ存在感を放つものがいた。本来なら一番初めにふれるべきだったのだが、視覚が、脳が拒絶してしまったのか、無意識のうちに意識から外していた。
部屋の真ん中に立ってこちらに背を向けている。と、あたしの視線を感じたのか、振り向いてこちらを見た。
目が合う。視線が交錯する。
ゾッとした。
背筋が震え、鳥肌が全身を覆う。
この目は連れ去られるときに、ちらりと見た気がする。赤黒いというか、赤グロいというか。薄暗い部屋のはずなのに、目だけは爛々と、輝いていた。
「やっと目を覚ましたか」
低めの、ともすれば渋いとさえ思えるような声が、耳に届く。
じっとこちらを見てくる。吸い込まれそうなその目に、本能的な恐怖を覚えてつい顔を背けてしまった。
「ふん」
どこか呆れるような、それでいて蔑むような声を出しながら、あたしの目の前までゆっくりと歩いてきた。
もう一度なんとか顔を上げて、せめてもの抵抗にと、思い切り睨もうとする。しかしそこには、先ほどまでのような威圧するような視線はなかった。
ただの物を見るような、少なくとも、一人の少女を見るような目では決してなかった。それどころか、人間を見る目でもなかった。
一切の感情が欠落したような目。
その突然の変化の意図がわからずにいると、相手に動きがあった。
左手をあたしの顔に向かって伸ばしてくる。硬直したままのあたしの頬に指先が触れ、そのまま横に薙いだ。
目の前を高速で手が横切り、風が顔に当たる。思わず目を瞑ってしまった。
すぐに瞼を上げると、口の動きを封じていたガムテープが視界の端に飛んでいくのが見える。それを認識した後に、右の頬が急に熱くなった。
生暖かい液体が、垂れていくのを感じる。
そうしてやっと、切られたのだとわかった。
「つぅっ」
熱さの後に痛みが襲ってきて、思わず声を上げる。だいぶ深いところまで切られているようだ。血が止まることなく流れ出る。
「なに……するのよ」
その言葉は、この傷を作ったことに対してなのか、それとも攫ったことに対してなのか。
その両方なのか。
自分でもわからないうちに発していた。しかし、それがどうしようもなく震えていることだけは、自分にもわかっていた。
それを聞いても、相手は目の色を変えることなくこちらを見てくる。あたしの声が届いたのかどうかすら、わからないくらいの無反応。
なんなのコイツは。
考えていることが全くわからない。あたしを傷つけることが目的なんだろうか。拷問とかされちゃうのかな。
しばしの間があり、ほんの少しだけ落ち着いてきた。冷静に冷静にと自分に言い聞かす。ここでテンパってしまってはこの先どうしようもない。
やり方はどうであれ、コミュニケーションを取るつもりはあるようだし。こちらから話しかけるべきだろうか。何がセオリーなんだろう。
再び沈黙の時間が流れた後に、相手の瞳にちょっとだけ感情が灯った。ような気がした。
「見ての通り。感じた通りだ」
どうするか考えている時、唐突に喋りだした相手に少し身体をこわばらせる。それが伝わったのかどうかは、本人にしかわからない。
しかし、そんなことには構わず続ける。
「俺は貴様のことを人質として誘拐した。……いや、人質なんていいものじゃなかったか。訂正しよう」
そこで一度言葉を区切る。
「俺は貴様のことをエサとして誘拐した。当然、エサなのだから、それが生きていようとなかろうと、俺には関係のない話だ」
絶句した。
少しでも相手から情報を引き出そうと、会話をする準備をしていたのに、その全てが頭から抜け落ちた。
駆け引きのしようがないくらい、取り付く島もないほどに言い切られた。攫われた者に対して、お前はエサだと言い放つなんて思いもしなかった。
「女だから。子供だから。人質だから。そんなことを思って、傷つけられることはないだろうと考えているのなら、今すぐにその考えは改めろ。そんな甘い考えは悔い改めろ」
再び瞳から感情が消えた。
俺は今すぐにでも、貴様を殺せる。
その言葉には、何の裏もなかった。裏も表もなく、思惑もなく、ただそれだけの意味で、それ以外の意味はなかった。嘘でもハッタリでもないのが、ヒシヒシと伝わってきた。
「だが、そうしないのは、ほんの気まぐれだ。今現在、貴様のお仲間が貴様を探している最中だろう。そいつらが来るのを俺は待っている。そしてその目の前で――殺す」
だから今はその頬だけにしておいてやる。
続けてそう言った。




