第一章 工場と図書室
No.1
意識に形はあるだろうか。
運命に形はあるだろうか。
生命に形はあるだろうか。
工場で働く時は作業着を着るべきだ。社員の全員が着ている作業着と自分の作業着は違う。彼は派遣会社からのアルバイトで工場に働きに来ていた。一日十二時間(一時間休憩)働き、アパートに帰る。
工場は巨大な機械であり、この形は世界であり、創造する力其の物だ。彼は偶に仕事を休み、一日アパートで寝ている。
工場で働く時は、あまり飯を食わない方が良い。狂ってしまう。先は無い。彼は毎日酒を飲み、タバコを吸う。
工場は冷たい。でも清潔だ。室内は暑い。それに汚い。エンジンが特に熱い。彼は金をあまり持っていない。
工場に勤める様になってコーヒーが飲める様になった。彼は時々トイレに入ってメモを取る。
工場は四角だ。出てくる紙も四角である。四角は調和であり、世界だ。彼の部屋は汚く、布団がいつも敷いてある。
工場は巨大なゴミ捨て場だ。不要なものを作り続け、また回収している。フォークリフトは良い。彼の趣味は私も知らない。よく本屋で立ち読みをする。偶に漫画を買う。
工場の殆んどが暗闇だ。工場の食堂で今度飯を食ってみよう。彼について書くことはもう無い。
すべての調和は何処にあるのだろう。その様な存在はあるか? 倉庫の暗闇の中で資材を運ぶ時、世界は完全ではないのか? そして私も完全であるだろう。
希に機械が故障する。何かが欠けているのだ。私には機械のことは解からない。機械が動かないのは悲しい。
美は強さであると読んだ。工場は美であり強さだ。ここはタバコが沢山吸えて良い。自分が細くなる。私から何かが無くなっていく。私はもう取り返しがつかない。私が私を取り戻す所は何処だ。
彼の仕事は作業補助である。社員の殆んどが同年代であり、年下も多い。彼はよく動き回り、一心不乱に作業している様に見える。時々ボンヤリしている。
この工場は印刷工場である。彼は偶に印刷された物を持ち帰っている。持ち帰ってもあまり読んでいない様だ。
私はこの様な人間を書くにあたり、どの様な考えを持っているのだろうか? 彼は私であると言うつもりはない。私は私の書くこの小説の様なもので、彼を救いたい。だが私には判っている。私の行く末は彼と同じ、また彼も、この先何も無い。人間は奪われ続けるのみだ。
この小説は恐らく失敗であろう。しかし失敗する小説にも何がしかの意味がある。よって私はこのまま書き進めたい。
彼は現状に満足している振りをする。時々、その振りを止める。彼はこの先も職を変え続けるだろうし、落ち着くことは無いのではないか。私は特に其の事に就いて何も思わない。彼自身何も思わないし、考えてないであろう。
彼は時たま人と会う。人と会わないと確実に終わりが来るからだ。
ここに彼のメモがある。トイレで書いていた物であり、昔の彼が書いていた物だ。私はそれを読ませてもらうが、特に何も感じない。
彼の書く物は少しも面白いところが無い。冗談も理解しないであろう。
これを読む人間はどんな人間か? 私より賢いのであろうか? 私より自信は有りそうだ。
私はこの文章をどうして良いのか分からない。ただ終わりが見たい。
私は私から逃げ出したい。彼は逃げないであろう。何故なら私が彼の最後を書くからだ。
私は彼の最後を知っている。この様な人間の行く末を知っている。彼は彼自身から逃げられない。そもそも彼は自分が在ることを知っているのか? おそらく知りはしまい。
彼は声をかけられる。職場の上司だ。
彼はこう命じられる。
「今日から君は図書室勤務だ」
そして彼はこう答える。
「それは何処に行けばいいのですか?」
「さあ? 言われただけだからなあ、他の人に聞いてくれ」
彼は左右に揺れながら歩き、工場を出る。工場は幾つもあり、彼はどの工場に行ったらよいのか分からない。
しばらく歩く。彼には行くところがない。
そして、前を歩いている同じ工員に声をかける。
「図書室は何処にありますか?」
「図書室なんてあるわけない。ここは工場だ。物を作る所だ。本を読む場所ではない」
「私は図書室があると聞きました。何処にあるのですか?」
「図書室なんて無い。何処にも無い」
「図書室は何処にありますか?」
「分からん。地下にあると聞いたことがある。行かない方がいいと思うけどな」
「場所は何処にありますか?」
「場所なんてない。そこらじゅうにあるだろ。取りあえず地下だ。下に行けばいいだろう」
「ありがとうございます」
彼は少し期待の感情を持ち、小走りになった。彼は労働が好きではなかったのだ。しばらく探しながら走っている。彼は疲れて、帰ろうかと思う。しかし彼は図書室に期待していた。また期待するのは体に良いことだ。
また歩く。だんだん疲れてくる。どうしてこう同じ様な建物ばかりなのであろう。何処にあるのか?
彼は面倒くさくなり近くの建物に入る。
工場は広い。彼は我が物顔で、建物の中を歩く。早く見つけたい。
しばらく歩いていると、やはりそんなものは無いのではと思う。少し馬鹿馬鹿しくなる。急ぐこともない。
図書室に行って何をするのだろう。本でも読むのであろうか? 本は工場の中でなくても読める。本なんて好きではない。読むのは漫画ばかりだ。
彼はまた目の前に歩いている工員に話しかける。
「図書室というのは何処にありますか?」
「何だそれ? ここは工場だぞ」
「工場の地下にあると聞きました。この工場に地下はありますか?」
「確かに地下はある。地下の階段はこの工場の端にあるから遠いぞ。この廊下をずっと真っ直ぐに行くと地下に下りる階段がある」
「ありがとうございます」
「ただ図書室があるとは聞いたことないな。おそらく間違いだろう」
「取りあえず行ってみます」
彼は廊下を真っ直ぐに歩く。もう何も考えてはいないだろう。彼は何も考えたくないのだ。彼には本を理解できない。だが彼は図書室に行こうとしている。
廊下は延々と続く。工場の音はうるさい。彼は段々苛立ってきて、ついに歩くのを止めた。タバコを取り出し火を点ける。おそらく休憩所でもあるのだろう。それと自販機で飲み物を買う。
彼は彼の前に座っている工員に話しかける。
「図書室は何処にありますか?」
「図書室はこの先つき当たりの階段を降りた所にある」
「図書室勤務はどんな仕事ですか?」
「さあ聞いたことないな。資料の整理でもするのだろうか? ただ、図書室に本は無いと聞いたが」
「本が無いのになぜ図書室なのですか?」
「まあただの部屋の名前だろう。以前は本があったそうだ」
「ありがとうございます」
本が無い図書室。それは図書室ではない。行ってつまらない仕事なら断り、この会社を辞めるまでだ。アルバイトならいくらでもある。
彼はつき当たりまで歩き、その階段を降りていった。階段を降りた先には、正面と左右にドアがあった。
正面のドアには『図書室』というプレートが貼ってあった。
彼はドアをノックし失礼しますと中に入った。中には事務員らしき女が居り、彼の顔を見て、話しかけた。
「あなたは図書室勤務です。この部屋には紙と鉛筆があります。他は何もありません。あなたは朝の六時に起き、夜の九時に寝てもらいます。こちらのドア(彼の入ってきたドアを指して)を出て左の部屋にベットがあります。右の部屋は風呂とトイレです。毎日六時、十二時、十八時に食事を持っていきます。会社の命令があるまであなたは此処から出られません。ドアは外から鍵を掛けます。それからこの部屋の奥にあるドア(事務員の後ろにあるドアを指して)は開きません。三時間おきに様子を見に来ますので、申し出ることがあればその時に言ってください。トイレを使用する場合もその時にお願いします」
「この仕事は何時までですか?」
「会社の命令があるまでです」
「わかりました」
事務員は出て行った。外から鍵を掛けられる音がした。
彼は周りを見回して、少し思案した表情になった。
この部屋はコンクリート剥き出しの部屋で、十二畳程の大きさである。数冊のノートと何本かの鉛筆の他何も無い部屋である。
彼は横になり、目を瞑ってしばらくそのままでいた。
時間が過ぎ、一週間ほど経った。
彼は自分に話しかける声を聞いた。彼は声の聞こえてくる方向に向かい話しかけた。
「何だ。何処に居る? 其処か!」
彼は部屋の中を探し回る。部屋の何処かに声が出ている所があるのだ。
「もっと上か。後ろか? 違うな。騙されないぞ。……ここだ」
壁に大きな亀裂が走っていた。彼はそこを覗き込み、指でなぞり、ペンを刺したりした。会話は続く。彼にはこう聞こえている。
「人間はその時、その場所、その状況でしなくてはならない事がある」
「だからといって俺が書かなければならない理由は無い」
「理由はある。君は自分を殺さなければならない。それともそのまま生きていたいか?」
「この声は、この壁の奥にスピーカーでもあるのか?」
「さあ? どうだろうな。私は何時でもお前を見てきた。何時も一緒にいた。機は熟した」
「俺はあんたなんか知らない。誰なんだ? 何処にいる?」
「どこだろうな。お前はただの罅割れだ。弱いだけだ。探せない」
「そんな事を言われる筋合いは無い」
彼は苛々し部屋を歩き回った。彼はしばらく押し問答した後、部屋の隅にあるダンボール箱に近づき、それを開けた。
中にはノートと鉛筆がある。ノートを取り出す。ノートの間から乾燥した虫の足が落ちた。ダンボールの底には、潰れた虫の死骸が在った。
彼はまた声を聞いた。彼の目付きはおかしくなる。
「お前は三年後に死ぬ。お前はバラバラに切り刻まれて死ぬ。お前は自分を殺す。自らの力で、自らの体を切り刻む。それは英雄的な死とは程遠いものだ。バラバラだ。お前は虫の様だな。だから、虫の様に死ぬ」
「そんなものは嘘だ。俺は何も知らないし、知りたくない」
亀裂からも声がする。
「信仰の告白をしろよ。お前の信じているものを私に見せろ」
「見せろよ」
「全ての人に見せろ」
「見せろよ」
「お前は自分の頭の中身を残して置かなければならない」
「永久に笑われる為に」
嘲笑される声。四方八方から声が幾重にも聞こえる。大勢の人間が彼の表情、声、仕種、思想、服装、過去、を見て笑っていた。
「分かった。落ち着いて、考えがまとまったら書く」
全ての声は笑いながら、
「落ち着くって何時落ち着くんだよ。今だって凄い震えて、泣いているじゃないか?」
「俺は此処にいたくない」
「そんな事知るか。死ぬために書け、それが仕事というものだ。仕事って分るか?」
嘲笑。
その後、一ヶ月ほどして彼はノートに向かって何かを書き始めた。
彼は虫の死骸や壁に話しかける以外は正常に見えた。そしてこの仕事は三年続いた。
三年後彼は会社の命令でノートを会社に提出した。
彼は会社から一つの鍵を貰い、奥のドアを開けた。
私はここで彼の書いたノートを抜粋してみたい。一見小説のようであるが、彼のノートは乱雑であり(字の間違いもあり)、少し私が手を加えている点は理解していただきたい。




