幸福
俺は坂上が仕事に戻っても、その場を動けずにいた。
犯人が沙希の身内だとは思わなかった。
しかし確かにそれならば辻褄が合う。
犯人を見たのか、たまたまその場にいたかは知らないが、殺されずに済んだというのが気になっていた。
余命僅かだから、ではなく、大切な身内だから。
「いすぎたな」
時計に目を向けると、既に二時間は経っていた。
俺は重い腰を上げると、沙希の病室を見上げた。
「さて、どうしたものか」
辺りは明るくなっていた。
一晩中眠っていないという疲労感は全く感じられなかった。
病室に向かおうか。
そう思って病院に入ろうとした時だった。
先程坂上に聞いた事実は加藤に伝えるべきだろうか。
ふと冷静になった頭に刑事としての疑問が浮かんできた。
警察のことは加藤に任せきりで、しばらく署にも顔を出していない。
これだけ迷惑をかけているのだ。
加藤には真実を言うべきだろう。
だが、加藤は沙希の身内から怪しいものをあぶりだしてしまうかもしれない。
同業者を信じないのは最低だ。
しかし刑事がそういうものだということは俺もわかっている。
「後数週間だよな」
俺は唇を噛みしめて、病院に入った。
まだ診療時間ではない病室はとても静かだった。
ただ朝ごはんを運ぶ台車が通っているだけで、廊下も昼間に比べればとても静かだ。
沙希の病室に着くと、まだ眠っているかもしれないが控えめにノックをしてみた。
案の定中からの返事はなく、俺はゆっくりと扉を開けた。
思わず大声を出しそうになった。
扉の開く気配に気づいたのか、そっと俺を振り返った。
「坂上さん、どうして」
「心配ですから。あなたはいらっしゃらないみたいだったので、丁度良かったです。診察時間まで仮眠を取りたいと思っていましたので」
坂上は静かに言うと、病室を出て行った。
まだ眠っている沙希の顔を見ると、少し安心させられる。
穏やかな眠りだ。
「沙希ちゃん」
眠っている相手に呼びかける。
別に返事は求めていない。
しかしまるで俺の呼びかけに反応するかのように、沙希はゆっくりと目を開けた。
「たきざわ、さん?」
沙希はゆっくりと呟くと、微笑んだ。
「おはよう」
沙希は嬉しそうに言った。
「おはよう」
俺も自然と口元が緩んだ。
「もうすぐ朝ごはんの時間、滝沢さん一緒に食べる?」
沙希はふと時計に目を向けると、思いついたように言った。
「いや、俺はさっき食べたから、沙希ちゃんしっかり食べて」
沙希は笑顔でうなずいた。
まだ寝ぼけているのか、それとも死期が迫っている状態を示しているのか、沙希の動きはとてもゆったりとしていた。
顔も少し夢を見ているように、目が虚ろだが気持ち良さそうにしている。
この間までの沙希ではない。
「沙希ちゃん、お話しようか。何か聞きたいことはない?」
沙希はうーんとね、どうしようかな。と楽しそうに言っている。
「滝沢さんの話が聞きたいの。滝沢さんの好きなものとか、趣味とか、あとねー」
沙希は俺を視界に入れながら言った。
「なんでも話すよ。趣味と言われても何もないんだが、最近のマイブームならあるよ」
沙希はなになに?と興味津々だ。
俺は少し照れくさかったが、意を決して口を開いた。
「それは」
トントン
タイミング悪く扉がノックされた。
恐らく朝食だろう。
入ってきた看護婦さんは、少し罰の悪そうな顔をしながら食事をテーブルの上に置いた。
「それじゃあまた食器取りにくるね」
看護婦は慌てたように俺に一礼すると、そそくさと病室を出て行った。
「食べながら聞いてくれていいよ」
沙希はそういうとスプーンを握った。
その手が少し弱々しく見えた。
だが俺はそれを気にすることなく、口を開けた。
「先に俺の高校時代の夢を話すよ」
沙希は顔を上げると、目を輝かせていた。
夢という言葉は沙希にとっては新鮮なものだから。
「俺は高校の時な、画家になりたかったんだ。意外だろう?」
俺は沙希を楽しませようとおどけた風に言った。
沙希は楽しそうに笑ってくれた。
「今思うとすごい下手だったんだが、その時は自分の絵に惚れ込んでたんだろうな。
自分はプロになれるって信じてた。まあ、バカだったけどさ、いい思い出だし、その時すごく楽しかったんだ」
沙希は俺の話を聞きながら、ゆっくりとスプーンを動かしていた。
「滝沢さんの絵、見たいな」
沙希は顔いっぱいに笑顔を張り付けていた。
ついこの前まで見ていた笑顔と同じだ。
「えっ、本当に下手だぞ」
「いいの」
沙希があまりにも嬉しそうに言うものだから、俺は適当な紙にペンを取り出していた。
「何がいい?」
「うーん、お花畑」
「そうか」
俺は一瞬妙なことを考えたが、女の子は花が好きなものだ。
余計なことは考えないことにした。
しかし絵は久しぶりだ。まして花畑など綺麗に描けるだろうか。
しかもあるのはボールペンだ。
だが、きらきらした目で待っている沙希を見ると、描きださずにはいられなかった。
案外描けばなんとかなるもので、予想以上にいい仕上がりになった。
「これでどうだ?」
絵を沙希の方に向けると、沙希はぱーっと花が咲いたように笑顔を浮かべた。
「すごーい、素敵」
沙希は飛びつくように絵を受け取った。
「すごい、もっと描いて」
沙希は輝くような目を向けた。
俺はそれから何枚も絵を描いた。
そのうちに沙希は朝食を食べ終えていた。
「ありがとう」
六枚ほど描いて沙希はそれをぎゅっと握りしめて微笑んだ。
「言いかけてたこと」
沙希は紙を握りしめながらそっと呟いた。
「ああ、俺のマイブームか」
沙希は笑顔でうなずいた。
「俺のマイブームは沙希ちゃんの病室に来て、こうして話すことだよ。俺はこの時間が一番楽しい」
沙希は照れ臭そうに俯いた。
「あたしも」
微かに声が聞こえてきた。
俺は沙希の方に顔を寄せた。
「あたしも、この時間が好き」
突然がばっと顔を上げた沙希と、もう少しでぶつかりそうになった。
十センチもあいていない距離に沙希の顔がある。
俺は照れ臭くなって、顔を逸らそうとした時だった。
「えっ」
沙希は俺の唇にそっと口づけた。
「してみたかったの」
沙希は真っ赤な顔で言った。
「そうか、ありがとう」
沙希は真っ赤な顔のまま笑顔で
うんと言った。
「食器返してこよう」
なんとなく気まずくなったので、俺はきっと気を利かせた看護婦に変わって食器を返しに向かった。
「ああ、今から診察に向かうところです」
廊下で出会った坂上はあまり眠れていないせいか、疲れた顔をしていた。
俺は坂上がいるならと、安心して食器を返した後庭に向かった。
煙草を吸いながら現場が見える場所に座った。
はじめて坂上と会ったのもこういう状況だった。
警察と医者。
医者は市民の味方だが、警察はきっと味方には思われていない。
ならば警察はなんだろうか。
聞き込みをしては他人を傷つけ、犯人を捕まえられなければ責任が問われる。
人を疑えど、需要となる情報以外は信じない。
それに引き換え
医者は命を守る存在だ。
煙草を三本ほど吸い終わったところで、俺は病室に戻った。
煙草の臭いは沙希には悪いだろうかと考えながら、俺は病室に続く廊下を歩いていた。
沙希の病室の扉から慌てたように看護婦が出てきた。
見れば朝食を届けた女性だった。
看護婦は俺に気づくことなく走り去って行った。
少し開いていた病室の扉を開けると、中には坂上がいた。
「持ってきたか」
坂上は看護婦が戻ってきたと思ったのか、強い調子で語り掛けてきた。
「刑事さん、実は沙希ちゃんが」




