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王太子殿下の読書係

作者: 早匂 素花

 室内に差し込む柔らかい午前の光。その光に溶けるように落ち着いた声で、ノエルは分厚い書物をゆっくりと読み上げていた。

「……こうして常に整えられている街道は、人も農作物も家畜の運搬にも役立ち、国を富ませるために必要なものである。君主は立派な街道を維持するために……」

 年若い娘が読むにしては堅く難解な内容だが、ノエルは目の前の人物に聞かせるために、淀みなく読み続けている。

 ソファに座るというよりは半ば寝そべるようにしてノエルの声を聞いているのは、彼女と同年齢くらいの少年だ。陽に透けそうな細い金髪がソファの背で縺れているが、本人は気にしていない。

「……街道の石畳が、流れ込んだ雨水で浮かないようにするためには工夫がいる。表面の石畳の下に、細かい石と大きい石をこの図のように交互に……っ!」

 滑らかだったノエルの声がふいに途切れた。

 投げつけられた栞代わりの鳥の羽を持ち上げて、ノエルは本から少年に視線を上げる。

「エリオット様。羽とはいえ、尖っている部分もあるので、投げないでください」

 しかしエリオットと呼ばれた少年は、ノエルの苦情を聞き流してソファに寝転んだ。

「“この図”と言われても、わからん」

 無愛想に呟かれた声に、ノエルは軽く溜め息をつく。そして書物に描かれた図の内容を口頭で説明し始めた。

「失礼しました。挿入されている図ですが、街道の構造を表しています。まず一番上に石畳があって……」

 満足したエリオットは、身体をノエルの方に向け直した。だが、彼の視線はノエルには向かない。貴石のような緑の瞳は、薄い膜を張られたようにどこかぼんやりとしていて、何も映していなかった。

 やがてひと区切りついたところで、ノエルは本を閉じる。

「この本はもうすぐ終わりです。次に読む本のご希望はありますか?」

「そうだな……土木関係の知識をもう少し増やしたい。次は港湾の構造を説明した本だな。その街道の本と同じ、赤い革表紙の本があったはずだ」

「赤い……エリオット様、その本を目を悪くされる前にも読まれたことあるんですか?」

「え? あ、ああ……中身は読んでないが、手に取ったことはな。本の場所はホーキンスに尋ねればわかる」

「かしこまりました。では、明日はその本も持ってきますね」

「お前のその細っこい腕には、二冊は重いだろう。誰かに運ばせろ」

 エリオットにしては珍しく気遣う台詞を向けられて、ノエルは空色の大きな瞳を、さらに大きくした。

「これくらい大丈夫ですよ。……それより、エリオット様。仮にも王太子殿下なんですから、もう少し行儀よく座ってください」

「口煩いじいやみたいだぞ、ノエル」

「乳姉弟なので、同じようなものです」

「俺の私室の中でくらい、どんな格好でも構わないだろ」

「“俺”ではなく“私”ですよ……口やかましく言われるのが嫌ならば、わたしに王宮からお暇する許可をさっさと出していただければいいのに」

「俺を退屈させるつもりか。お前の役目は俺のために本を読むことだ。それを放り出していくことは許さん」

 きっぱり言い切るエリオットに、ノエルは駄々っ子を見る眼差しを投げて立ち上がった。

「わかりました。それでは、貴方に読むための本を探しに、図書室に行きます」

「ふらふら歩いて、余計な場所に行くなよ」

「図書室への道筋くらい頭に入っています」

「それでもお前は、ぼうっとしてることがあるからな」

 エリオットの憎まれ口はいつものことだ。ノエルは適当に聞き流しながら、彼の部屋を辞したのだった。




 王宮図書室の手前には、小さな噴水が設えられた中庭を囲む回廊がある。噴水の水飛沫が陽射しを弾いて、爽やかな風を運んでいた。

(小さな頃は、エリオット様とよくあの噴水の傍で遊んでいたな。水面に映る歪んだ景色を見るのが楽しくて……)

 ふと浮かんできた光景に、しかしエリオットの現状が重なって、懐かしさに影を落とす。

(今のエリオット様には、もうあの様子を見せてあげることはできないのね)

 この国を流行り病の熱病が席巻したのは二年ほど前。市井の人々を次々と倒した病は、王宮も同じように襲い、帰らぬ身となった者も多い。ノエルの母もこの病で命を落とした。

 そして病は王太子であるエリオットにも及んだ。幸いにも一命は取り留めたものの、引き換えにされたのは彼の視力だった——

 我が儘なところのある王太子だ。周囲には目が見えなくなって荒れるのではないか、と心配された。しかし意外にも彼は事態を冷静に受け止めた。そして病に心身共に疲弊した王宮内外の人々に配慮するよう手配する。エリオットのことを手のかかる弟のようにしか捉えていないノエルも、そのときの姿には感心したものだ。

 噴水を眺めながら思い出していたノエルだが、回廊の向こうから賑やかな集団がやってくるのに気付いて、廊下の端に身を寄せた。

 現れたのは華やかな少女たち。甲高い声で笑いさざめきながら歩いていたが、ノエルを目にすると意味ありげに目配せしあった。

「あーら、今日も誰かさんは重そうに本を抱えて。女のくせに陰気でいやぁね」

「地味で野暮ったいドレス。そんな格好でエリオット殿下のお側にあがるなんて、不釣り合いだわ」

「たかが乳母の娘のくせに、殿下のお部屋に入り浸っているなんて、ずうずうしい」

「まったく、どうしてエリオット殿下もこんなつまらない娘をお召しになるのかしら」

「母親が乳母から国王陛下の寵妃に成り上がった女ですもの。この娘も取り入るのが上手いんでしょうよ」

 わざとらしく交わされる会話には応えず、ノエルは大人しく頭を下げて少女たちの関心が過ぎるのを待っていた。上級貴族である彼女たちに対して、ノエルは寵妃の娘とはいえ、下級貴族の出身。言い返せる身分ではないし、するつもりもない。

 それに彼女たちの苛立ちもわからないでもない。この着飾った少女たちは、王太子の妃候補としてエリオットに見初められようと競いあっている。少女たちにしてみたら、単なる読書係だろうと、乳姉弟ごときがエリオットの傍にいるのは腹立たしいに違いない。

(エリオット様の妃だなんて、わたしにはまったく関係がないのにね——)

 やがて何の反応も示さないノエルに興味が失せたのか、少女たちは来たときと同じように賑やかに去っていった。一人になってから、ノエルはゆっくりと息を吐き出す。

(……ああいうお嬢様方の気に障らないためにも、エリオット様は早くわたしに暇を出してくれればいいのに)

 ノエルは母がエリオットの乳母になったときに一緒に王宮に連れてこられた。幼い頃はエリオットの遊び相手として、成長後は侍女として仕えていたが、母が寵妃になったときに仕事は免じられ、ただ王宮で暮らす身になった。母が死んだときに王宮にいる理由がなくなったので、田舎の実家に帰るつもりだった。けれどエリオットのひと言が彼女を王宮に引き留めた。

『俺の目の代わりに、お前が本を読んで聞かせろ。ノエル』

 まだ体調が戻りきらず、さらに視力を失ったばかりのエリオットの役に立てるなら、とノエルはその役目を引き受けた。物語を読むのは好きだったから、読書は苦にはならない。

 ところが、ほんの一時の慰めだと思っていた読書係は、二年たった今でも解任されることはなかった。エリオットは視力は戻らないものの、体調は回復して王太子の仕事もこなせるようになった。もう読書係は必要ないだろう、と暇を申し出ても、エリオットはなかなか了承しない。それどころか、暇潰しの物語だけでは収まらず、王太子に必要な難しい書物を読ませるようになっている。

『他に仕事があるわけでもないし、構わないだろ。お前は昔から俺の傍にいたじゃないか』

 辞意を示すたびに、そうあしらわれて、結局ずるずると役目を続けていた。

(どうしてエリオット様は、わたしなんかに本を読まさせ続けるのかしら)

 エリオットは明確には答えない。ただ、次に読みたい書物を告げられるだけだ。そして命じられればノエルは従うしかないのだった。




 王宮図書室内は、貴重な蔵書を日光から守るために窓が少ない。入り口近くの窓だけは大きくて、その前に閲覧机が置かれている。そこで持ち出した本をじっくりと読み耽るノエルに、背後から嗄れた声がかかった。

「今日も熱心だね、ノエル」

「ホーキンス様」

 孫娘を見るように柔らかく細めた目で立っていたのは、司書の老人だった。

 エリオットに書物を読み聞かせるようになったばかりの頃は、図書室の膨大な蔵書を一人で管理するこの老人にずいぶんとお世話になった。それまで物語しか読んだことがなかったノエルは、エリオットが要求する政治や歴史の本がどこに収蔵されているかすらわからなかったからだ。

 ホーキンスに教えられて本を探すうちに、本の配置を覚え、調べ事の方法を学び、今では彼の手を煩わすことは減った。だがノエルにとって、ホーキンスは師のような存在だ。

「殿下に読んで差し上げる前に、そうやって自分で読んでおくのかい?」

「読めない単語がないか調べているのと、あと、図画の内容を言葉で説明するには、事前にちゃんと確認しておかないと難しくて」

「感心だね」

「だって、読んでる途中で詰まると、エリオット様が怒るので、面倒なんです」

 正直に答えたノエルに、ホーキンスは可笑しそうに笑った。

「それはご苦労だ。殿下は次は何の本をご所望なのかな?」

 笑い事じゃありません、と口を尖らせながら、ノエルは広げていた本の背を見せる。

「土木の本はひと通り読んだので、今度は農業の本がいいそうです」

「なるほど……幅広い知識を付けさせるつもりのようだな、殿下は」

「付けさせる? 付けるではなくてですか?」

「ん? ああ、まあ、そうだな……」

「難しいことを知りたいのなら、わたしなんかに読まさせるのではなくて、専門の方に教えていただいた方がいいと思うんですけど」

「きっと殿下にも、何かお考えがあるんだろう……何かわからないことがあれば、いつでも声をかけなさい」

「ありがとうございます」

 丁寧に頭を下げるノエルにまた目を細めて、ホーキンスは図書室の奥に歩いていった。




 その日もまたいつものように、室内にはノエルの本を読む声が流れていた。エリオットがソファにだらしなく寝そべりながら聞いているのも、いつもの通りだ。

「……豊かな水と肥えた土を備えた畑を維持することが、毎年安定した小麦の収穫には欠かせない。特に種を撒く時期には……」

 小麦は王都近郊でも栽培されているので、この書物の内容はノエルにも馴染みがあって読みやすい。滑らかに読めていると思っていたが、エリオットが何か言いたげに身動いだ。

「どこかおかしかったですか?」

「いや、問題ない。ただ……」

 遠慮など知らないとばかりに率直なエリオットが言い淀む姿に、ノエルは首を傾げる。

「ただ……お前の髪は陽にあたると小麦畑みたいだったな、と思ったんだ」

 エリオットの緑の瞳が、見えないはずなのにこちらに向けられている。ノエルはなんとなく落ち着かなくて、自分の髪に手をやった。

 飾り気なく背に流されたノエルの髪は、茶が強い金髪だ。実った小麦畑に陽が差したら、確かに同じような色になるかもしれない。エリオットはもう見ることのできない、小麦畑のその様を想像しているのだろうか。

 目を悪くしたことについて悲観的な発言はしないエリオットが、珍しく見せた懐かしそうな様子に、ノエルの胸が小さく軋んだ。

 エリオットの肩越し、明るい陽射しの入る窓が目に入ってノエルはあることを思い付く。

「エリオット様、わたしが小麦畑をもう一度見せてさしあげます!」

「は?」

「小麦畑が見たいんですよね? ちょうど今は実りの時季だし、きっと綺麗ですよ」

「いや、俺が見たいのは、小麦じゃなくて……」

「遠慮なさらないで。それと、“俺”じゃなくて“私”です」

 ノエルはエリオットの腕を掴んでソファから立ち上がらせる。そして渋るのも気にせず、部屋の外に引っ張っていった。




「お前に案内されて歩くなんて、心許ない」

「ちゃんと段差や壁は教えますよ。道にも迷いません」

 ノエルに手を引かれながらエリオットは不服そうに呟いた。彼女が行き先を告げないのがいっそう気に入らないのかもしれない。

「迷わなくても、余計なところに行くだろう。この前だって煩い女たちと顔を合わせるようなところを通りやがって」

「……なぜ知ってるんですか?」

「女たちが口喧しく言ってくるんだよ。お前があんなやつらにどうこう言われる必要はないんだから、鉢合わないようにすればいい。ふらふらするなと言っておいたじゃないか」

 勝手な言い様だが、いちおうノエルを気遣ってくれていたらしい。

 予想外なことで、ノエルは返す言葉が出てこない。無言のまま足を動かす。だが、それまで何とも思っていなかったエリオットの手に、急に意識が集まりだした。

 エリオットの手は、引っ張るノエルの手よりも大きくて堅い。一緒に遊んでいた頃は、ノエルと同じくらいの大きさでこんなに骨張ってもいなかったはずなのに。

 変わっていたのは手だけではない。

 読書中は座っていて気付かなかったが、こうやって並んで歩いているとエリオットの顔がずいぶん上にある。肩幅も広くなっている。

 いつの間に、こんなに大きくなっていたのだろう。手のかかる少年だとばかり思っていたのに——

 いったん意識してしまうと、頭の中はエリオットの変化ばかりが気になって、握る手が汗ばんできた気がする。心なしか頬も熱い。

 それをエリオットに気付かれるよりも先に目的地に辿り着いて、ノエルはほっと息をついた。

「着きました、エリオット様。物見部屋です」

 ノエルがエリオットを連れてきたのは、王宮の西にある一番階数が上の部屋だった。バルコニーからの眺めが良いので、物見部屋と呼ばれている。

「ここで俺にどうしろと言うんだ?」

「こちらに来てください」

 不審がるエリオットをバルコニーに連れ出す。外に出ると、風がエリオットの薄い金髪を揺らした。暖かさで陽射しを感じたのか、エリオットが片手を顔の上に翳す。

「エリオット様。こちらを向いてください。こちらは城門の方角です」

 バルコニーの手摺にエリオットの手を預けて、ノエルは隣に立つ。そしてゆっくりと息を吸い込んだ。

「このバルコニーの下には王宮の庭、王宮の塀があって、その外側には王都の街並みがあります。赤茶の瓦屋根が王宮から広がるように続いて、その先には王都を守る高い城壁。そして城門の向こうには農地が広がっています。小麦畑です!」

 隣からエリオットを窺うと、彼の顔はノエルが示す方に向いている。大丈夫そうだ、と先を続けることにする。

「初夏の陽に照らされて、畑一面に褐色の小麦が揺れています。風が吹くと表面が波立って、風に沿って光を弾く白い帯が流れて、金色に輝く川のようです。大きく息を吸ったら、小麦畑の香りがここまで届いていませんか?」

 エリオットに本物の小麦畑を見せることはできない。だが、書物の図画を説明するのと同じように景色を言葉で表現すれば、何か感じてもらえるのではないかと思ったのだ。

 実際には、バルコニーから見える景色は、紙の上の図などとは比べられないくらい説明すべきことが多くて、どこまでちゃんと伝えられたかはわからない。ノエルは不安になって、そっとエリオットの顔を見上げ——そこにあったのは、彼にしては珍しいほどに穏やかな微笑みで。

「ああ。確かに、小麦畑が見えてるみたいだ」

 嬉しそうな声でそう言われて、ノエルの胸の裡もじんわりと温かくなってきた。

「まったく、何をするのかと思えば……」

「お嫌でした?」

「いいや、悪くはない。お前と外に出るのは久々だな。おかげで、お前の髪色を楽しむことができた」

 エリオットの顔がノエルに向けられる。緑の瞳が、見えていないはずなのに、じっとノエルに注がれて、胸元がそわそわしてきた。

「喜んでいただけたのなら、良かったです」

「ああ。こんなお前の瞳みたいな青空も、久し振りだ」

「え?」

 王都や小麦畑の上に広がる空は、初夏に相応しく爽やかに晴れ渡っている。だが、自分はその様子を描写しただろうか……

「っ、いや、その……天気が良さそうだし、きっとそんな空だろう、と思っただけだ」

「エリオット様?」

 焦って顔を背けるエリオットに、ノエルは眉をしかめた。何だろう、この違和感は。

 何を問うべきかわからないながらも何か尋ねようと、エリオットの方に身を乗り出し、靴が石床の凹凸に引っ掛かった。

 ぐらり、と身体が揺れる。

「あっ!」

「危ないっ!」

 床に倒れるかと思った身体は、長い腕にしっかりと支えられていた。そのまま広い胸の中に抱き込まれて、頭の上に溜め息を感じる。

「ったく。驚かすな。足元くらい確認しろ」

「……」

 ノエルを片腕で抱き留められる力強さも、彼女の身体をすっぽり収めてしまえるくらいに大きな胸も、ノエルがまったく知らなかったものだ。いつものノエルだったら、驚いて赤面していただろう。

 だが、それ以上に衝撃があった。

「……なぜ、危ないってわかったんですか?」

「!!」

 自分を抱く腕から肩にかけてが強張ったのを感じて、ノエルは恐る恐る顔を上げた。

 探るようなノエルの視線に、エリオットは顔を逸らし目を合わせようとしない。その態度に、ノエルは自分の考えの正しさを察した。

「今、わたしが転ぶ前に助けてくれました。さっきの空の色も、思い返してみれば他のことも……その目は、見えているんですね? エリオット様」

 じっと横顔を見つめられて観念したのか、やがてエリオットはそっとノエルの方に向き直った。切れ長の緑の瞳は、今は間違いなくノエルを見据えている。そこに浮かぶのが苦しそうな色なのには、気付かないことにする。

「……黙っていてすまなかった」

「いつから見えていたんですか……?」

「熱病が治って半年くらいしてからだ。少しずつ視界が明るくなっていって、この数ヵ月は、ほぼ問題なく見えていた」

「どうして見えない振りを続けていたんです」

「それは……」

 エリオットの唇が噛みしめられる。何か言えない理由があるのか、それとも嘘がうっかり発覚して戸惑っているのか。

 ノエルの方も、突然の事実に混乱している。

 エリオットの視力が回復しているのなら、それは喜ばしいことだ。だが、なぜ目が見えない振りを続けていたのか、他の人々は知っているのか——疑問は尽きない。

 ただ、ひとつだけ明らかなことがある。

「事情がおありなら深くは尋ねません。ともあれ目が見えるようになっているのは良かったです。……見えているのなら、もうわたしの役目は終わりですね」

「ノエル! それは……っ!!」

「慣れないわたしが本をお読みするよりも、エリオット様がお読みになった方が早いはずです。お役御免になったことですし、わたしはこれでようやく王宮からお暇させていただけますね」

「待て、ノエルっ!」

 ノエルを留めようとエリオットの腕に力が入るが、それより早くノエルは身を翻していた。今度は足を引っ掛けないように注意して、エリオットの前で深々と礼をする。

「今まで、拙い読書係にお付き合いいただきありがとうございました」

 それだけ告げると、ノエルはその場をそそくさと逃げ出した。

 背後でエリオットが何か言っていたが、とても落ち着いて聞けるとは思えなかったのだ。




 薄暗い図書室の奥から、いつものように白髪の老人が優しい笑顔で現れて、ノエルはどことなくほっとする。

「やあ、ノエル。今度はどんな本かな?」

「こんにちは、ホーキンスさん。今日は本を返しにきただけなんです」

 ノエルの応えに、ホーキンスの白い眉毛が、おや、と持ち上がった。

「他に読みかけの本があったかな?」

「いいえ。ただ、わたしがエリオット様に本を読むことはもうなくなったんです」

 さらに、王宮からも辞すから、もうこの図書室にも来なくなる、と続けようとした。

 だが、ホーキンスから言われた内容が想定外で、言葉が詰まってしまった。

「では、ここの司書になってくれるんだね」

「……え?」

「君が殿下の読書係を辞めたら、この図書室の司書にするよう言われていたからね」

「……誰がそんなことを。だいたい、わたしなんかに司書のお仕事は務まりません」

「そんなことはない。君はこの二年、たくさんの本を読んできたし、図書室の使い方にも詳しくなった。私の後継にするなら、ノエルが王宮内で一番相応しいよ」

「いったい誰がわたしを……?」

 半ば答えを予想しながらも、ノエルは問う。ホーキンスはにっこりと目を細めた。

「わかっているだろう? エリオット殿下だ」

「なぜ、エリオット様が……」

 頭の中に浮かんできたのは、エリオットの緑色の瞳。ノエルに読書係を命じたときの、見えないはずなのにまっすぐだった視線。読書中に、ノエルが読む内容を厳しく聞いていた瞳。小麦畑を見せにいったときの、穏やかな瞳。そして隠し事が明らかになったあとの、苦しそうな瞳。あれらの瞳の意味は——

「君が身分と母上のことで、王宮にいることに引け目を感じていたからだろう。『充分な知識を着けてやれば、司書にでもなって、王宮に残ってくれるんじゃないか』と殿下はおっしゃっていたよ」

「じゃあ、わたしに難しい本ばかり読ませていたのは……」

「もちろん殿下自身の勉強もあるだろうけれど、ノエルのためでもあったんだろう。そして君は、殿下の期待に応えて、とても熱心に本を読み、知識を深めていった。よくやった」

「そんな……どうしてエリオット様は、そこまでして、わたしを王宮に留めたいの?」

 たかが乳姉弟なのだ。乳母がいなくなれば、後のことなど考える必要はないのに。

「それは、殿下に直接聞いてごらん。君を司書にしようというのも、あくまでも保険であって、本当の目的は別にあるのだから」

 さらに気になることを言われて、ノエルは疑問だらけの顔をホーキンスに向ける。だが、老人は微笑むだけで答えてくれそうにない。

「わかりました。エリオット様に尋ねることにします」

 律儀に礼をして、ノエルは図書室を足早に出る。残った老司書は、愛しい孫たちの幸せを想うような目でノエルを見送っていた。




 エリオットはいつものように、王太子らしくなくソファに寝そべっていた。訪ねてきたノエルを見て、顔をいっときだけ明るくしたものの、すぐに不機嫌そうな表情に変えてノエルと目線を合わせようとはしない。

「読書係を辞退したくせに、何しに来たんだ」

「わたしを図書室の司書に推薦していただいていたと聞きました」

「……お前は、本が好きだからちょうどいいだろう。さっさと図書室に行ったらどうだ」

 関心のなさそうなぶっきらぼうな口調は、ノエルを拒絶しているかのようだ。だが、幼い頃からエリオットを見てきたノエルにはわかる。これは拗ねているのだ。

(拗ねているのはわかる。でも何に対して?)

「その図書室で、ホーキンス様から言われました。わたしにいろいろな本を読ませたのには、司書にすること以外にも目的があった、と。エリオット様はわたしに何をさせたかったんですか? わたしがそれをできなかったから、気分を害されているし、目のことも教えてくれなかったんですか?」

「それは違う! お前は充分にやっていた! ……ああ、もう! わかった。話すから、そんな目で見るな!」

 がしっと髪をかき回して、エリオットは起き上がる。ノエルに読書中に使っていたいつもの椅子に座るように促し、座るノエルをじっと見ている。

(ちゃんと視線が定まっているエリオット様の瞳の方が、やっぱり綺麗だわ)

 こんなときだというのに、そんな感想が湧いてきた。そしてその緑の瞳の奥から溢れてくる何かが、ノエルの胸をざわめかせる。

 やがてエリオットが躊躇いながら口を開く。

「…………妃にしたかったんだ」

「……は?」

「だから! お前を俺の妃にしたかったんだよ! 身分だのなんだの気にするやつがいても、お前が妃に相応しい充分な知識を持ってれば黙らせられるだろう。そのために本を読ませてた。そしてもし万が一、妃にできなかったとしても、司書になれば王宮にいることに気兼ねしなくていいだろう。それなのにお前は、いつも王宮を離れることばかり……だから、目が治ってない振りをしてたんだ。読書係をしてる間はお前は王宮にいるだろ」

 ひと息に言い切って、エリオットはまた顔を背けた。しかし、横から見ていても、彼の耳元が赤くなっているのはわかる。

(もしかして、エリオット様、照れている?)

「なぜ、わたしなんかをお妃にしたいんですか? 何の後ろ盾もないのに」

「お前な……そんなの、お前が好きだからに決まってるだろ!」

 その言葉と同時に、ノエルの身体がぐっと抱き締められた。え? と目を見開いている間に、エリオットの手がノエルの頬にかかり、緑の瞳が近付いてくる。そして、唇に柔らかい何かが触れた。

「!! っ……エ、エリオット様っ!?」

 口付けられていたのは、ほんの一瞬。

 それでも、何をされたのか理解するには充分な時間で。しかも、唇は離れても、ノエルを抱くエリオットの腕は緩まない。熱い緑の瞳に見つめられて、逃れることもごまかすこともできない。

「ここまですればわかるだろう。ノエル。小さい頃から俺はお前が好きだ」

 耳元で熱い声が囁く。

 その声は、ノエルの中のエリオットを、手のかかる弟のような姿から凛々しく成長した姿に作り替え——

 かぁっ、とノエルの顔に血が上ってきた。鼓動も急に激しく鳴りだす。それは彼女を抱き締めていたエリオットにも気付かれた。

「俺のために本を読もうが読むまいが、お前は、ずっと俺の傍にいろ、ノエル」

 額を合わせた間近でそんなことを告げられて、ノエルは真っ赤な顔のまま、そっと頷いたのだった。




【了】

 

 


最後までお読みいただき、ありがとうございました!

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― 新着の感想 ―
[一言] 読ませていただきましたので、感想を残していきます。先日は感想をいただきありがとうございました。 文章が安定していてよみやすかったです。作中でノエルが情景を説明するシーンは、描写力がないとな…
[一言] 楽しませていただきました。 読後に思わず拍手をしてしまうようなラブストーリーです。 実は目が見えていたというどんでん返しの後に、エリオットがノエルに本を読ませる理由についての種明かしがある。…
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