『「婚約破棄だ」と笑う浮気王子へ、天妃ヘラを召喚しました 〜不実の愛人は牝牛に変え、あなたは野良犬として吠えていなさい〜』
大理石の床に靴音を響かせ、王太子カイルは勝ち誇った笑みを浮かべた。
背後には、か弱げに眉を寄せる男爵令嬢マリアの姿がある。
「クラウディア・フォン・ローゼンバーグ! 貴様との婚約をこれにて破棄する! 我が真の愛は、この純真無垢なマリアにこそある。嫉妬に狂い、彼女を階段から突き落とそうとした貴様の邪悪な性根、万死に値する!」
夜会の広間を取り囲む貴族たちから、冷笑とざわめきが漏れる。
すべてはカイルとマリアが仕組んだ狂言だった。公爵家の令嬢として、王妃教育を完璧にこなし、財政や外交の綻びを実務で支え続けてきた私を「都合の良い働き手」として利用し尽くした末の、身勝手な放逐。
「何か弁明はあるか? なければ直ちに衛兵の手で地下牢へ――」
「弁明など、最初から無用ですわ」
私は扇を閉じ、静かに微笑んだ。
取り乱すことも、涙を流すこともない私の態度に、カイルは苛立ちを露わにして眉を吊り上げる。
「強がりは見苦しいぞ。もはや貴様の味方など、この国には一人もおらん!」
「味方? ええ、人間の味方なら、最初から頼りにしておりませんわ。私がこの日のために捧げ物を積み、神託の火を絶やさずにいたのは……ただ一柱の存在を、この場にお招きするためですもの」
私はドレスの袖から、黄金の柘榴が彫り込まれた古い青銅の鏡を取り出した。
指先を走らせ、あらかじめ刻んでおいた血のルーンをなぞる。
「出でませ。天蓋の女王、結婚の誓約を見守り、不貞なる者を決して許さぬ厳格なる母神――」
空気が凍りついた。
シャンデリアの蝋燭の炎が一斉に青ざめ、大気を押し潰すほどの神威が広間を満たす。
大理石の床が軋み、天上から雷鳴のような羽ばたきが響き渡った。
無数の孔雀の羽が黄金の粉を散らしながら舞い落ちる中、豪奢な冠を戴いた巨躯の美女が、光の中から現れた。
透き通るような白い肌、夜空のように深い双眸。その瞳がただそこに「在る」だけで、周囲の貴族たちは喉を詰まらせ、次々と床に跪いた。
ギリシャ神話における最高神の正妻。
**結婚と誓約を司る絶対の女王、ヘラ。**
『……我が眠りを揺り動かすのは誰だ』
地響きのような声音が、王城の梁を震わせる。
私は恭しく頭を垂れ、青銅の鏡を捧げ持った。
「偉大なる天の妃、ヘラ様。神聖なる婚姻の盟約を結びながら、愛人を侍らせて正妻の座を辱め、あまつさえ冤罪をもって契約を破棄せんとする不実の徒がここにございます」
ヘラの冷徹な視線が、青ざめて棒立ちになっているカイルと、怯えて彼の陰に隠れようとするマリアへと向けられた。
『ほう。婚姻の誓いを、この我が前で紙屑のように弄んだか』
「な、なんだ貴様は! 余は一国の王太子だぞ! 警護兵、出会え! この怪異を排除せよ!」
恐怖で錯乱したカイルが叫ぶ。だが、衛兵たちは神威の前に金縛りに遭ったように指一本動かせない。
ヘラの唇が、酷薄な弧を描いた。
『人間ごときの小僧が、誰に向かって口を利いている? 王権の盟約とは即ち、神々の秩序の模倣に他ならぬ。それを己の欲情の免罪符にするとは……つくづく、あの浮気者の我が夫と同じ臭いがして吐き気がするわ』
ヘラがすっと指先を掲げる。
その瞬間、マリアの足元から異様な黄土色の霧が噴き上がった。
「ひっ……! あ、足が、私の足が!?」
マリアの悲鳴が甲高くなっていく。滑らかな白い肌は瞬く間にごわごわとした灰褐色の牛の毛皮に覆われ、指先は黒く硬い蹄へと形を変えていく。華やかなドレスは裂け散り、頭部からは二本の湾曲した角が生え出した。
「モォォォォォ――ッ!?」
男爵令嬢だったものは、数秒と経たずに一頭の巨大な牝牛へと変貌した。
広間の貴族たちから、絶叫が上がる。
『王太子よ。お前が愛したその女を、ゼウスの戯れの相手と同様にしてやった。だが、これだけではあるまい?』
ヘラは空中でパチンと指を鳴らした。
虚空から羽音が響く。それは、一匹の異様に巨大な虻だった。毒針をギラつかせたその虫は、狂ったように牝牛の鼻先へと突撃する。
「モオオオオオッ! モオオオッ!」
激痛と恐怖に狂った牝牛は、夜会の豪奢な食事卓をなぎ倒し、ガラス窓を粉々に突き破って、暗い夜の王都へと逃げ去っていった。虻はどこまでもその後を追い、死ぬまで休まることのない彷徨の旅へと追い立てていく。
「マ、マリア……!? ひ、化け物……!」
腰を抜かし、失禁しながら後ずさるカイル。
ヘラは冷たい足音を響かせ、王太子の目の前へと歩み寄った。
『さて、不実の元凶。男よ』
「た、助けてくれ! 余が悪かった! クラウディア、頼む、婚約は破棄しない! お前を正妃にする! だからこの化け物を追い払ってくれ!」
見苦しく私のドレスの裾に縋り付こうとするカイルに、ヘラの冷笑が降り注ぐ。
『我が庇護下にある娘を、都合よく捨て、都合よく拾えると思うたか? 己が約束の重さも背負えぬ者に、国を統べる王冠を載せる頭など無用』
ヘラが杖を一突きすると、鋭い神光がカイルの胸を貫いた。
肉体は傷つかない。だが、カイルの内から何かが剥ぎ取られていく。
『貴様から「誓約の資格」を剥奪する。今後、貴様が発するいかなる言葉も、他者の心に届くことはない。真実を語ろうと、愛を誓おうと、命令を下そうと、周囲の者にはただの「犬の遠吠え」としか聞こえぬ呪いを与えよう』
「な……が、あ……!? ウ、ウォォォン! バゥッ、キャンッ!」
カイルが弁明しようと口を開くたび、喉から響くのは情けない野良犬の鳴き声だけだった。
床を掻きむしり、涙を流して助けを求める彼を、先ほどまで彼を支持していた側近たちも、汚物を見るような目で見下ろして後退りする。
信義を失い、言葉を奪われた王太子に、王位継承権など残るはずもなかった。
静寂が戻った広間で、ヘラは満足げに息をつき、私へと向き直った。
『よくやった、クラウディア。婚姻の誓いを穢す輩に、慈悲など一滴たりとも必要ない。見事な断罪であったぞ』
「心より感謝申し上げます、女王陛下」
私は深く頭を垂れた。
ヘラはふっと表情を和らげ、私の肩にそっと手を置いた。
『さて。このような腐った男と縁が切れたのだ。お前には、誠実さと誇りを知る、真に良き伴侶と実りある国が相応しい。……我が息子のヘパイストスなどは少々武骨すぎるが、人間界にも、骨のある真面目な男の一人や二人は転がっていよう。探してやるから、ついてまいれ』
「ふふ……ありがたき幸せにございます」
光の粒子となって昇天していくヘラを見送りながら、私は床に転がる青銅の鏡を拾い上げた。
足元には、犬の鳴き声を上げながら床に額を擦り付ける元婚約者。
私は一度も彼を振り返ることなく、背筋を伸ばし、夜会の扉を開けて歩き出した。
砕け散った硝子の向こうから吹き込む夜風は、どこまでも澄み渡り、冷たく、心地よかった。




