聖女の偽りの奇跡
聖女は自分の左手にナイフを突き刺した。ゾブリと鋭い刃先が肉を掻き分けて、中に入り込む音がする。いや、実際にそんな音がしたわけではないが、そう錯覚してしまうほどの生々しさがそこにあった。ゆっくりとナイフを抜くと、その傷跡は痛々しく、真っ赤に裂けた皮膚がまるで一輪の薔薇のように見える。ポタポタと涙のように垂れる血を拭き、傷口を慈しむように、白い聖骸布を被せて、聖女は祈りを捧げる。その姿は息を呑むほどに美しく、目が離せないほどに荘厳だ。まるで空間ごと浄化を終えたように、布を外すと、そこにはもう、痛々しい傷跡はどこにもなかった。
*
「すごい……」
思わず呟いた。私はたった今、聖女の奇跡を目の当たりにしたのだ。
私は今、王都にある神殿の大講堂にいる。壇上には聖女、周りには大勢の人。今日は聖女が来訪し、奇跡を披露するとのことで、それを見に来た観客たちでごった返していた。かくいう私もその一人だ。アンナがどうしても見たいというので一緒に来たのだが、こんな素晴らしいものが見られるとは思わなかった。聖女の癒しの奇跡は有名なので、話を聞いたことぐらいはあったのだが、実際に見たのは初めてだった。
アンナは口を半開きにしたまま固まっている。感動して言葉も出ないようだった。
聖女は間違いなく手にナイフを刺した。傷口も見た。血も流れていた。壇上の机には貫通してナイフが刺さった跡もある。その机からはポタリと床に血が垂れている。だけど祈りを捧げ布で手の血を拭った時には先ほどまでの傷が影も形もなくなっていた。
それだけじゃない。続いて行われたのは、大神官だという女性への治癒だった。その女性は右足の先に包帯を巻いていた。明らかにその足は左足に比べ短い。足首から先がないのだ。杖を突き、生まれたばかりの子鹿のようにおぼつかない足取りで、聖女の元まで行き、椅子に座る。聖女が聖骸布を女性の足先に被せ、祈りを捧げると、女性の足が元通り復元され、杖もなくそのまま歩けるようになっていた。まさに奇跡としか言いようがない。欠損ですらも元通りに治すことができるというのか。
周りは大勢の人がいるのに異様に静かだ。熱狂することすらできず、ただただ見入ってしまっている。相当数の人間が心を掴まれたことだろうと思う。
今の聖女が就任したのは六年前。癒しの奇跡を持つ聖女という触れ込みは、多くの国民に衝撃を与えた。それ以降、信者が爆発的に増えたという話だがそれも納得できる。
割と熱心な信徒であるアンナは、朝晩の祈りを欠かさない。神殿にもたびたび足を運んでいるようだ。
私も一応はこのフェリス教の信徒だ。というよりこの国に住む人々は全て名目上、フェリス教の信徒であることになっている。これは国教として国の制度と密接に結びついており、入信することがこの国の民として認められるための条件となっている。それは王族であっても例外ではなく、国王陛下ですら一人の信徒として神々の下にある。
ただ、そうは言っても信仰心には大きく差があるので、皆が皆、神を敬っているかと言われるとそうではないのが現実だ。特に一般信徒は、入らなきゃいけないから入っているだけ、という人がほとんどである。
正直なところ私は今まで全く宗教に興味を持ったことはない。むしろ話が通じないことが多いので、敬遠していると言っていいかもしれない。だがこんな奇跡を見せられたら私もちょっと心が揺らいだ。とにかくすごかったとしか言い表せない。
実演が終わり、観客が退場していったあとも、アンナはまだじっと壇上を見つめて固まっていた。残された机から血がポタリと垂れている。
「アンナ」
私が声をかけると、ハッとしてアンナの硬直が解けた。アンナはキョロキョロと周りを見渡して、もう私とアンナだけしか残っていないことに気づくと、慌てて帰り支度を始めた。
秋も終わりぐらいになって、外はかなり肌寒い。帰りの馬車では、興奮冷めやらぬアンナの神々トークや聖女賛美が、泉のように湧き出していた。適当に相槌を打ちながら聞き流して、私は今日のお茶菓子に思いを馳せる。
馬車を降りて、公爵家別邸に向かうと、門の前に一人の殿方が大きな荷物を背負って立っていた。
「あれ?アンナ、今日って来訪者の予定あったかしら?」
「いえ、なかったと思いますが…」
私は首を傾げながら近くまで行くと、見えてきたその顔に見覚えがあった。
「エルマーじゃない!ここで何してるの?」
「あ、お嬢さん!」
私たちを見るなり駆け出してきた。この殿方とは以前一度会ったことがある。隣国のルクスランドで時計技師をしているエルマーだ。
「お嬢さん、助けてくれ!」
「一体どうしたの?そんな大荷物で」
「仕事がクビになったんだよ!お嬢さんのせいで!」
エルマーが隣国で何があったかを説明する。
先日、私は仕事でルクスランドに行っていた。その時にエルマーと出会ったのだが、色々とあって、エルマーと侍女長の不倫が明るみになってしまったのだ。その結果、仕事はクビになり、国にもいられなくなったらしい。
「私のせいというのはちょっと心外ね。自業自得じゃない」
「お嬢さん自覚ないのか?ルクスランド出禁になってるぞ」
「で、出禁?」
なにそれ。私は言われた通り仕事をしてきたはずだ。少しばかり羽目を外したかもしれないが、ちゃんと成果は出したし、そんな仕打ちをされる謂れはないはずだ。
私が口を尖らせているとアンナが、
「妥当ですね」
という。納得がいかない。
「とにかく、当てもないし、お嬢さん約束してくれたじゃないか。俺の作った時計を買ってくれるって。このままじゃ路頭に迷ってそれどころじゃなくなる。俺を雇ってくれないか?」
「そんなことを言った気もするけど、それを鵜呑みにしたの?」
「言質を取ったって言い換えてくれ。それに縋るしか俺にはもうなかったんだよ」
うーん、と私は腕組みをする。貴族なのだから社交辞令の一つや二つ言うでしょ、と言いたいけど、言質というのはちょっとずるい。私が約束破るみたいになってしまうではないか。まあ確かに時計は欲しいと思うのだが、そのためにエルマーを雇うというのはいささか飛躍してる気もする。
でもクビになったのが私のせいでは断じてないけど、私が原因というのは不本意ながらあるかもしれない。
「でもいいの?この国に来るならあなた平民ということになるわよ」
「ああ、それは構わない。元々あっちでも領地も爵位もない末端の貴族だったんだ。家も出ていたしな。平民と大して変わんないよ」
「でも不倫してたんでしょう?」
「それは反省してるって!というか侍女長が既婚って知らなかったんだよ!俺も独身だしな」
「夜な夜な隠れて密会しておいてそれはないわね」
「うぐっ、それは…まあ、薄々勘付いてはいたけど…」
頭を抱えるエルマーを見て私はため息をついた。振り返ってアンナの方を見て尋ねる。
「アンナ、どうしよう?」
「そんな不倫男放っておけば良いんじゃないですか?」
即答で返ってくるアンナの言葉を聞いて、エルマーは慌てて身を乗り出した。
「ち、ちょっと待ってくれって!本当にお嬢さんのところしか行く当てがないんだって。このままじゃ野垂れ死んじまうよ」
「エレノア様に仕えるなら、まずその言葉遣いを直すところから始めなさい」
「わかった…じゃなくて承知いたしました!よろしくお願いしますエレノア様!」
はぁぁ、と先ほどより大きく私はため息をついた。なんだか雇うことが決定してしまったみたいだけど、まあアンナがそう言うならいいか。
「しょうがないわね。わかったわ。レヴェラント公爵家が後見するから、とりあえず役場で市民登録して来なさい。そしてその後、神殿に行って入信登録もね」
「入信登録…ですか?」
「フェルアフリーゼでは、国民になるにはフェリス教に入信しなければいけないのよ。とりあえず今日は公爵家に部屋を用意するから、早めに工房を探してそちらで仕事して貰うわ」
「承知致しました!ありがとうございます」
そう言って駆け出して行ったが、エルマーは夜になっても戻って来なかった。
* * *
「エルマー結局帰って来なかったの?」
朝になり、私はアンナに身支度を整えて貰っている。口に手を当てながら小さくあくびをした。夜遅くまで帰りを待っていたのだが、いつまで経っても帰って来ないので先に寝てしまったのだ。
「そうみたいですね。どこか別に仕事先を見つけたのですかね?」
あれだけ行く当てがないって騒いでいたのに仕事が見つかったとは考えにくい。それに、一言ぐらい私たちに断りを入れると思う。まあ子供じゃないんだから気にするほどのことではないのだろうけど。
眠い目をこすりながら朝ごはんを食べようとしている時に、緊急の手紙が届いた。神殿の使者が直々に公爵家まで手紙を届けに来たのである。
なんだか非常に嫌な予感がする。差出人を見るとやはりエルマーからだ。幾度か書き直したのであろうインクの染みに、どことなく字が震えている気がする。
封を開けて、左上から順に文字を追っていく。
最後の文字まで目を通しても、私は言葉を発することができなかった。どうやらずいぶんなトラブルメーカーを引き入れてしまったみたいだった。
「どうしたのですか?」
アンナが声をかけてきたので、私は返事もせず手紙をそのまま渡した。同じように目を通したアンナは目を見開いて言った。
「な、な、なんですかこれ」
「わからないけど、見なかったことにはできないわよね。なんで後見するなんて言っちゃったのかしら」
手紙に書かれていた内容は、要約すると神殿で殺人の疑いをかけられて拘束されているから助けてくれ、とのことだ。なんで疑われているのかとか、エルマーが何をしたのかとか、詳しい内容は何も書かれていない。たった一晩で一体どうしたらこんなことになるのか。昨日からため息ばかりついている気がする。眠気はとうに吹き飛んでいた。
*
神殿に着いた。二日連続の神殿だ。中は特に昨日と変わった様子はない。殺人容疑とか書いてあったので、もっと大騒ぎになっているかと思ったが、どうやらそうではないようだ。今日は聖女の奇跡の実演もないから、特に人が多いわけでもない。礼拝堂で祈りを捧げている人をまばらに見かける程度だ。
私はあまり神殿に行かないのでわからないが、アンナに言わせればいつもの風景ということらしい。
神官に声をかけて、呼び出されて来た旨を話すと、応接室に案内してくれた。部屋に入るとそこにはエルマーがいた。
「お嬢さ…じゃなくてエレノア様!」
「エルマー、あなた一体……」
と、そこまで言ったところで、向かいに座っている女性に気づいた。
「聖女、様」
昨日遠目から見ていた時とは違い、間近で見ると、より若く美しく、真っ白な肌はまるで透き通っているかのようだった。
ただ事ではないことが伝わってくる。
本来聖女と会話するなんてことは、神官でも難しい。ましてや公爵令嬢とはいえ、一般信徒に過ぎない私が話をできるような相手ではない。そんな人がここにいるなんて、どれだけ重大なことなのかがわかる。
「私はフェリス教の聖女、アンジェリカです」
厳かで、凛とした強い声。この一言だけでも威厳を感じる。私も自己紹介を返すと聖女の向かいに座った。
「あまり時間もありませんので、本題に入ります。レヴェラント公爵家が後見しているという、この方が我が教団の大神官を殺害しました」
「俺はそんなことしてない!」
エルマーが即座に否定する。手紙にも書いてあった。冤罪をかけられてると。
「詳しく教えていただけますか?」
「あなたに説明をする必要はありません。この方が犯人です。こちらで裁判を行い、判決を下します」
神殿内は王国の司法が及ばないところだ。聖域として神殿に逃げ込んだ人を保護したり、逆に神殿で独自に裁いたりできる権利を有しているためだ。
「本人は否定していますので、調査を行うべきでは?」
「必要ありません」
「なぜでしょう?」
「フェリス教の信徒が罪を犯すことはありません。教義で人の命を奪うことは禁止されているからです。ですが、この方は信徒ではありません」
「それでエルマーが犯人という理由にはならないでしょう」
「いいえ、教義に背くということは、死後神の下へ行き、魂の救済を得られなくなるということです。神の審判で罪を認められた場合、永遠に冥府を彷徨うことになります。信徒がそのような罪を犯すことはあり得ません」
「……私も信徒ですが、私が罪を犯すことは絶対にないということですか?」
「一般信徒の方は、残念ながら信仰心が低い方もおられるでしょう。ですが、神に仕える覚悟がない方は、神殿内の見習いや神官になることができません」
私は目を閉じた。話が通じない。事実より思い込みを重視するのが宗教だ。だから、私は宗教が苦手だ。
「ではせめて、私にその死体を見せていただけませんか」
「それはできません。すでに埋葬済みです」
「それなら、その死体があったという現場でも構いません」
「できません。神官以外は立ち入れない区域です」
私は聖女を睨む。聖女は一切の感情を表に出すことなく淡々と言う。
「あなたをお呼びしたのは、事件に関わらせるためではありません。レヴェラント公爵家が後見をしているということは、公爵家にも責があるということです。このままではあなた方は破門になり、この国の民でいられなくなります。そのため、後見の取りやめを勧告しているのです」
「……ずいぶん親切なのですね」
「レヴェラント公爵家は国を支える大貴族です。無くなれば大きな混乱を呼び、民に被害が出る。それは私たちの望むところではありません」
あなた達のためではありません、と言ってはいないが聞こえて来そうだった。私は何も返せず沈黙する。神殿側はもうエルマーを殺人犯とするという前提で全てを考えている。事実かどうかではなく、状況的に信仰を、神殿の体裁を維持するためにそうでなければならないのだ。つまり、私がどれだけ言葉を尽くしても無駄ということになる。
「わかりました。その前に一度エルマーと話をさせていただけませんでしょうか」
「良いでしょう。それでは私たちからの話はこれで終わりです。審問会は明日ですので、神官の立ち会いの元でしたら、それまで自由に話をしていて構いません」
まるで感情を読み取らせることのない声で、そう告げた。話し方も表情も、立ち振る舞いの全てが機械のようだった。
聖女が立ち去った後も、私はしばらく黙っていた。
「お嬢さん…」
エルマーが震える声で話しかけてきた。
「あなた、本当に何もしてないのよね?」
「ええ、誓って何もしてません。なんでこんなことに」
「はっきり言って現状どうしようもないわ。とりあえず何があったか話してくれるかしら?」
「は、はい。役場で市民登録をした後、言われた通り神殿に入信をしに来ました。別室で書類を書いていたのですが、少し神殿の中を見てみたくなって、外に出たのです。その時に、少女を見かけて、後をついて行きました」
私は呆れて眉をひそめた。
「あなた、ご令嬢に声をかけようとして後をつけ回したの?」
「い、いや違いますって、いや違わないけどこんな小さな少女だったんですよ。なんでこんなところにと思って」
エルマーは自分の腰ぐらいのところに手をかざした。
「そんな小さな子まで?節操がなさ過ぎないかしら?」
「だから違いますって!俺はどちらかと言うと歳上が良い…とかそんなことどうでも良いんですって。気になってついて行ったんですけど、途中で見失って道に迷っちゃったんですよ。それでなんとなくひんやりしているところがあったので、扉を開けたんです。人がいるかもと思って」
「ひんやり?」
「ええ、氷室のようなところで、人が倒れていました。明らかに死んでいて、思わず叫び声を上げました」
「死体はどんな様子だったの?」
「どんなと言われても…若い女性が倒れていたとしか」
「死因とか、外傷とかは?」
「そんな冷静に見てませんよ! 死体なんて突然見つけたら普通そうなるでしょう!」
「……それもそうね。でも明らかに死んでいたと思った理由はあるでしょう?」
「なんでだっけな……あ、そうだ。喉が大きく切り裂かれていたからです。でも別に血だまりみたいにはなってなかったと思います」
「別の場所で殺されて、そこに運ばれたってことかしらね。そのあとは?」
「そのまま拘束されて、エレノア様を呼び出す手紙を書かされて今に至ります」
「……これは困ったわね。それだけじゃ何もわからないわ」
私は思わず目を伏せる。圧倒的に情報が足りない。だが、情報を集めるための調査を徹底的に阻まれてしまっている。明日が審問会と言っていた。どんな判決になるか、考えるまでもない。調査をしないで犯人と断定しているのだから、処刑するところまで決定事項だろう。そもそも真犯人を見つけたとして、おそらく神殿側はそれを聞き入れる気はない。
「エレノア様…」
アンナの呟きに首を横に振る。私にできることは何もない。聖女の言う通り、せいぜい巻き添えを喰らわないようにエルマーの後見を取りやめることだけだ。
「助けてあげようか?」
突然の声に驚いて辺りを見渡す。けど誰もいない。ガチャリと扉を開けて入って来たのは、洗礼式を終えたばかりぐらいの小さな少女だった。
「あ!あの時の!」
エルマーが少女を指差して声を上げる。追いかけ回していたと言っていた少女がこの子だったのか。
「あなたは誰?」
少女はその問いに答えず、私の向かいの席に座る。先ほどまで聖女が座っていた席だ。あまりに小さいので机の端から首がようやく見える程度だ。
「どうするの?」
私とアンナとエルマーは三人で顔を見合わせた。どうと言われても、意味がわからない。
「聞いてるんだけど」
ぶっきらぼうに少女は言った。
「え、ええと、あなたは誰?あなたのお父様やお母様は?」
「どこかにいる」
それはそうだろうけど。私が聞きたいのはそういうことではない。どうにも話が通じない相手は苦手だ。
「で、どうなの?」
「どうと言われても… どうやって助けてくれるというつもり?」
「なんとかする。けど、それは私のお願いを聞いてくれたら」
「お願い?」
「聖女の癒しの秘密を暴いて」
私は驚いて言葉に詰まった。一体急に何を言い出すのか。焦って監視の神官を見るが、私たちとは目を合わせようとしない。とりあえず目こぼしして貰えるみたいだ。
「お願いね」
一方的にそう言って椅子から立ち上がる少女。
「ち、ちょっと待って」
「なに?」
「あなたはなんなの?」
「セラ。そんなことより、わかったらまたここに来て、私ここに住んでるから」
「あ、ちょっと!」
セラと名乗った少女は行ってしまった。残された私たちは言葉を失って、扉の方を見つめていた。
「なんだったのかしら」
私がつぶやくと、それに合わせたようにみんなで首を傾げる。
「どうするのですか?」
「他に方法もないし、ひとまずセラを信じて、聖女のことを調べてみるしかないんじゃないかしらね」
* * *
自宅へ帰った。アンナには情報収集をお願いしている。聖女が過去に奇跡を披露した時のことだ。神殿の図書室に記録が残っているらしい。私は今日見た奇跡のことを思い返して考えることにした。
秘密を暴け、というからにはやっぱりあの奇跡には何か隠されていたり、知られては困ることがある、ということか。
フェリス教のトップである聖女は、他の神官たちとは全く別に選出される。その基準は奇跡を教団に認められたかどうかだ。
つまり聖女は奇跡を持つから聖女なのだ。
教団の運営自体は枢機卿の位にある者たちで行うことも多いが、今代の聖女は名目だけではなく、相応に権限を振るっている感じがする。白百合のように清廉で目を引く容姿、まるで機械のように冷たく無機質な言動。フェリス教の導き手という名に恥じない、手強い相手だ。
それにあのセラという少女もなんなのだろう。神殿に住んでると言っていた。住み込みで修行している神官たちは大勢いるので、その中の誰かの子供だろうとは思う。教義では別に神官であっても、婚姻や子供を持つことは禁止されていない。そのため生まれた直後から、神官見習いとして扱われることもある。どうやって助けてくれるつもりなのかは皆目見当もつかないが、それしか頼るところがないという現状だ。
夜になり、アンナが大量の資料を抱えて帰って来た。今私は自室でアンナが調べてくれた資料を広げている。神殿の図書室だけあって、聖女に関する資料は割と豊富にあったようだ。アンナがだいぶ頑張ってくれたおかげで、資料が要点ごとに整理されていて見やすい。これだけの記録を調べて書き写すのは、かなり大変だっただろうと思う。
それなのにアンナは疲れている様子も見せず、前のめりに聞いてくる。
「何かわかりましたか?」
「そうね…聖女が就任してからの六年間、各地を回って治癒の実演をしているわね。自傷の治癒と、他者への治癒は大神官以上の人にしか行っていない。今日見たパターンと一緒ね」
「一般信徒に治癒を施した記録はありませんでしたね」
「そうね。それに何故かしら、冬に行っているのがほとんどだわ。春か秋にはたまにあるけど、夏は一度もないわね。それに一日に行う治癒も一から二回、多くても三回よ。これはまあ疲れるからとかあるのかもしれないけど。それなら自傷に使う治癒はもったいないって思っちゃうわね」
「回数制限があるなら、その分誰かの怪我を治したほうがいいですものね」
ふむふむとアンナは頷いている。
「この聖女になってから寄進の額は跳ね上がっているし、神官を志す人も多くなってる。一般信徒の信仰心も全体的に向上しているとは思うわ。だけど、めぼしい情報はこれだけね」
「そう、ですか…」
アンナは肩を落として呟いた。その様子を見て、私はアンナが熱心なフェリス教信者だったことを思い出した。私は気になって尋ねた。
「アンナとしては今の状況はどう思ってるの?奇跡の秘密を突き止めるって、言ってしまえば聖女と敵対してるのだけど」
アンナは少し悲しそうな顔をした。
「複雑な心境ではありますね。フェリス教を信仰する気持ちは今も変わっていないですけど、今回のエルマーへの対応は、私も明らかに変だと思っています」
「もし辛ければあとは休んでても大丈夫よ」
「いえ、私は大丈夫です。ですが…」
アンナは辛そうに顔を歪めて言った。
「もし、聖女の秘密がわからなかったとしても、なんとか、エルマーを助けることってできませんか?私にできることならなんでもしますので」
私は驚いて、ぱちぱちと目を瞬いた。
「どうしたの?あなたがそんなこと言うなんて珍しいわね。そんなにエルマーのこと気に入ったの?」
「いえ、不倫男のためというより、ちょっと思い出しちゃいまして」
「思い出した?」
「ええ、私も処刑されそうになったことあるじゃないですか」
一年近く前、アンナも冤罪で処刑されそうになったことがある。なんとか真犯人を見つけることができたので、アンナは無事解放されたのだが、アンナはその時のことを思い出しているのか。
「私は、エレノア様が助けてくれると言ってくださいましたし、フェリス教を信じています。現世で教義を守り、信仰を全うした者は、死後神の下へ召され救済されるのです。だから処刑されるとなっても怖くはなかったんですよ。だけど、エルマーはエレノア様のことをよく知らないし、まだ入信してすらいません。相当辛いんじゃないかなって」
アンナは顔を伏せながら言う。とても苦しそうな声だった。
「だから、お願いです。侍女という立場で主人であるエレノア様に頼むなんて、おこがましいのは重々承知なのですが、どうかエルマーのことを助けてあげてください」
アンナは頭を、膝にぶつかりそうなほど下げた。アンナのそんな姿を、私は初めて見たかもしれない。
私は嬉しくなって、つい笑い声が漏れる。
「うふふ、アンナが私を頼ってくれるなんて、滅多にないことだもの。任せてちょうだい」
アンナはまた頭を深々と下げた。私、いつもアンナに迷惑かけてばっかりだもの。たまには恩返ししなくちゃ。よし、やる気が出て来た。
「さぁ、本気出すわよ。アンナ、何か甘いもの用意してくれるかしら」
いざとなったらレヴェラント公爵家の力を使うことも考えなきゃいけないけど、公爵家と神殿の力の差を考えたらかなり分が悪い。お父様も、入ったばかりの使用人のために神殿と事を構えるのは、首を縦に振らないだろう。正直そちらは望み薄だ。
だから、私は聖女の秘密を解き明かすことに集中する。可能なら殺人事件の方も全容を把握したい。
私の好物である、ハチミツとフルーツをたっぷり使ったタルトを頬張りながら、紅茶を啜る。アンナは滅多にこれを出してくれないのだが、今日は特別らしい。
私は食べながらも、もう一度資料に目を通す。確かに引っかかる部分はいくつかある。
今日見た治癒の奇跡を頭の中で何度も再生する。こちらも何かが引っかかっている。
例えば驚異的な自己治癒能力を持っていたとして、それだけでは他人を治癒することは当然できない。ましてや欠損を完治させることなどあり得ない。
では傷をつけたように見せただけ、というのはどうだろう。例えば刃先が引っ込むナイフのようなもので刺したフリをする。でもすぐそれではダメだと気付いた。それに今日見たあの生々しい傷は作り物だとはどうしても思えない。
じゃあ、実際に刺していて、傷口を何かで隠しただけ?そんなバカな。治癒しないのであれば、そんなことをしていたらいつか手は使い物にならなくなってしまう。それにやっぱり他人を治せる話にもならない。
他人の治癒がどうしてもネックだ。そもそもどんな手段を使えば、欠損した足が生えてくると言うのか。超常的な力で、実際に治す奇跡を実行しているとしか思えない。
ダメだ。どうしてもわからない。
「あっ!」
紅茶を飲もうとして、カップを手から滑り落としてしまった。カップは皿の上にカシャンと音を立てて落ちる。割れはしなかったが、紅茶は派手に机にこぼれてしまった。
「エレノア様!大丈夫ですか?」
アンナが慌てて拭きに来てくれる。うう、アンナのために良いところ見せたかったのだけど、とんだ失態だ。内心で自分が情けなくなりながら、ポタポタと机からこぼれる紅茶を見つめる。
赤い液体が、机から垂れている。
「……血」
私は思わず呟いた。
「どうされました?」
「ねぇ、聖女が自分の手を刺してから退出するまでどれくらいの時間が経ったかしら?」
「え? そうですね……その後に大神官に治癒の奇跡を披露されていましたから、二十分くらいでしょうか」
二十分。それだけ経ったのに聖女が使用していた机の血は固まっていなかった。実際にはそれ以上経っていたと思う。私たちは最後まで残っていたし、その時でもまだ血は固まっていなかった。自傷の時に出た血なら、固まり切らないまでも、流動性はほぼ失われているんじゃないか。
ではなぜ?ヒルの唾液のような血を固まりにくくする薬を使ったのかもしれないけど、それは何のために?血が固まるという作用は、傷口を塞ぐためにとても重要だ。その作用を抑える薬など、今必要なはずもない。
だからそれには当然別の理由がある。例えば、血糊だ。ナイフを刺すタイミングで小袋を破って血糊を撒くことで、刺したように見せかけることは可能ではないだろうか。だが、私はもう一つの理由に思い至っていた。刺したように見せかけるためではない。多分、その本当の理由は…
「刺しても血が出ない、から」
そこまで考えて、背筋に怖気が走った。ハチミツのような甘美さなんてどこにもない。ただ、脊髄に直接氷を当てられたような冷感と、産毛が全て逆巻くような鳥肌が全身を包んだ。
「わかった、かも。全部」
直感的に、また、連鎖的に閃いたこの仮説なら全てに説明が付く。付いてしまう。この聖女の治癒の奇跡の秘密。それはあまりにも…
私は両腕で自分の肩を抱きしめながら、深呼吸をした。少し気を落ち着けたあと、アンナに言った。
「明日、朝一番に神殿の少女に会いに行きましょう」
* * *
「本来このような場を設けることはありません。異例の措置であることをご理解ください」
聖女は昨日と寸分違わない装いで、私たちの向かいに座っている。違うことといえば、私の隣に小さな少女セラが座っていることだ。聖女は、その小さな少女を軽く睨む。だが、結局聖女は何も言うことなく口を閉じた。
神殿に着くなり、セラはすぐに見つかった。いや、というよりセラが私たちを見つけた。私たちが来ることを予想していたようで、待っていたらしい。顔を見るなり不敵に微笑んで、瞬く間にこの場をセッティングした。聖女が剣呑な雰囲気なのはそのせいだ。
「特別扱いしていただけて光栄ですわ」
私は挑発するように言った。
「それで、何のお話でしょうか」
「そんなに焦らなくても良いではありませんか。私、感動したのですよ」
芝居がかった口調で言う。
「昨日初めて聖女の奇跡を拝見させていただきました。確実にナイフが刺さった傷が、跡形もなく消える。素晴らしいです。私、見入ってしまいましたの」
「そうですか」
全くもって表情にも声色にも変化はない。どうでも良いことのように相槌を打っただけだ。
「私、気になっていたのですけど、自分で手にナイフを刺して痛くないのですか?」
「神への祈りが昇華していれば痛みなど感じません」
「そうなのですね。表情もですが、刺された手も微動だにしないなんて、神様のお力というのはすごいものなのですね」
あちらも、私がそれを本心で言っているとは思っていないようだ。だから適当に聞き流しているだけだ。
「私、どうしてももう一度見たいのです。今この場で実演していただけませんか?」
「興味があると言うだけで奇跡を望むなど、神への冒涜です」
おそらく想定していたのだろう、定型文のような返しをする。だけど、私は引くつもりはない。
「興味だけなんてそんなことはありません。もし見せていただけたら生涯フェリス教に尽くすと誓いましょう。それとも見せられない理由があると言うのですか?」
聖女は何も言わずに私を睨む。ようやく反応を引き出せた。私は微笑みながら椅子から立ち上がる。
「血が、固まっていなかったんです」
机の前を練り歩くようにしながら、話を続ける。
「最初は塗料かな?と考えたんですけど、微かに鉄の匂いもしていましたし、固まらないだけで、本物にしか見えませんでした。血液を凝固させない薬品はいくつかあると思います。その中の何かを使ったのだろうと思いますが、問題は、なぜそんな薬品を使ったか、です。なんでそんなことをしたか教えていただけませんか?」
「心当たりがありません」
「まあ、そうおっしゃらずに」
私は貴族的な微笑みを浮かべながら、聖女に視線を向けた。
「もちろん、奇跡の実演のために血を流す必要があるからですよね。でも手にナイフを刺すなら、別に血糊を用意する必要なんてありません。だから私は考えました。もしかしたら手にナイフが刺さっていないんじゃないかって」
「刺さっていないように見えたのですか?」
「いいえ、どこからどう見ても刺さっていました」
「回りくどい言い方は不快です」
「では、はっきり言います」
私は息を大きく吸った。
「あなたが刺した手は、自分の手ではありませんね?」
聖女は何も答えずに睨む。私もそれに応えて視線を外さない。しばらく物音ひとつせずに睨み合っていたが、少女セラが問いかけてきた。
「それどういうこと?」
「簡単なことですよ。私たちが見ていた手は聖女の手ではなかったということです。具体的には…死体から切り取った左手、です」
セラの小さな目が丸くなった。セラも具体的な内容は知らなかったようだった。
「切り取った手にナイフを刺しても血はほとんど出ません。なのでナイフを刺すのと同時に隠し持った小袋を破って、血が流れたように見せたのです。そして、聖骸布で腕を隠して、血を拭き取ったように見せて、自分の本当の腕とすり替えれば、傷が無くなったかのように見えます。違いますか?」
聖女は答えない。
「この仕掛けには決定的に必要なものがひとつあります。言わずもがな、死体です。あなたはこの奇跡の実演をするたび、信者を一人殺していたのではないですか?」
「私は他人の生命を奪ったことなどありません。聖女の名の下に断言します」
「あなたが直接手を下した、とは言っていません。大神官ともなれば相当に信仰心も強いのでしょう。例えばあなたに、自分の命を差し出せば死後神の下で安らかに過ごせる、とでも言われたらどうするでしょうか」
「私がそれを言ったとでも?」
「言っていないのですか?」
私が問い返すと、聖女は何も返してこない。ただ黙って射抜かんばかりの視線をこちらに送る。
「おそらく喜んで従うのではないでしょうか。つまりは、自死です。私からするとそれは人を殺していることに変わりありません」
「あなたの言い分を聞くつもりはありません」
聖女の言葉に、セラが勢いよく立ち上がったが、私はそれを手で制した。 なんで止めるの、と言われたがここでセラに台無しにされるわけにはいかない。
「血糊も、刺した手も、復元した足も、全てエルマーが見つけた氷室の遺体のものですね。奇跡の実演が冬に多かった理由もこれで説明ができます。死体の保存性の問題です。自分の腕と見紛うぐらい綺麗でなくてはなりませんからね。ちなみに大神官の治癒も一緒です。あらかじめ死体から切り取って欠損させた足を自分の足のように見せかけていただけです。要は共犯なのですが、奇跡の仕組みを教えられるぐらい信用に足る、大神官以上の方にしかできないのも道理です」
「あなたの言う通りのことをしていたとしたらそうでしょうね。そう上手くいくとは思えませんが」
「六年間もやり続けているのですもの。最初は不手際もあったかもしれませんが、今はお手のものでしょう。違うと言うのなら今ここで実演していただければすぐにでも疑いは晴れますよ」
私はにこりと微笑んだ。だが、聖女に動く気はないようだった。
「実演をしなくとも、すべてあなたの想像でしかありません」
「そうですね。その通りです。でもそれで良いのですよ。あなたがエルマーを裁くのに証拠を必要としなかったように、私にとっても必要としません」
私は聖女を正面から見据えた。
「私は改めてエルマーの解放を要求します。もし応えていただけない場合、今の話を、あなたの治癒の実演に合わせて、信徒に拡散します」
聖女も私を正面から見据えた。視線が真っ向から交錯する。
「この私を、フェリス教の聖女を脅迫しようと言うのですか?」
「そう捉えて頂いても結構です。使用済みの遺体を見つけたエルマーを口封じする意味は、もうないはずです。私は答えに辿り着きましたので」
聖女はしばらく黙って私を睨みつけていた。私もそのまま動かない。重苦しい沈黙が流れている。どのくらい経ったかわからないが、聖女が視線を外して目を閉じた。
「わかりました。エルマーという方は解放致しましょう。ですが、この話を口外するつもりなら相応の覚悟はしてください」
聖女は席を立った。そのまま私たちを振り返ることもなく、淀みない動作で部屋を出て行った。その直後、私とアンナは示し合わせたように大きくため息を吐いた。
「何とかなったわね」
「息が止まりそうでした」
アンナに安堵の表情がありありと浮かんでいるが、いったんそれは置いておく。私にはまだ話をしなければならない相手がいるからだ。
「これでご満足ですか?聖女様」
私はセラの方を見ながら言った。
「なんだ、バレてたの」
少女は慌てる様子もなくあっけらかんとしている。慌てているのはアンナの方だ。
「え、エレノア様、それはどういうことですか?」
「聖女になる条件って奇跡を認められることでしょう?私が言ったように、あれは偽りの奇跡よ。ということは本物の聖女は他にいるということになるでしょう」
アンナはちらと少女を見た。
「そ、それでこの子…ではなくこの方が本物の聖女様ということなんですか?」
「少なくとも、この少女に文句を言える人は誰もいなさそうよ。大神官や偽聖女アンジェリカ様でさえも、いきなり呼び出されたって何も言えないんだから」
「本当にすごい観察力ね」
呆れたように少女は言う。そして先ほどまでアンジェリカ様が座っていた席に移動した。
「改めて自己紹介ね。今代の聖女、セラフィーナよ。セラって呼んで。あ、言っとくけど私は平民で貴族の作法みたいなのわかんないから。それにこう見えてあなたより年上よ」
「年上…ですか?」
「私はね、不老の奇跡なんだって。今は二十二歳よ。不老なんて言うけど、ただの疾患よ。笑っちゃうでしょ、何が奇跡よね。私、生まれつき体の成長が遅いの。七歳ぐらいで体の成長が止まって、それからずっとこのまま。奇跡と呼べるとしたら、頭の成長は年齢通り進んだことね」
私は目を見開いて絶句した。どう見ても七、八歳ぐらいの見た目の少女が、私より年上の二十二歳だなんて言われても、にわかに信じられるものじゃない。
「この病気は過去にも記録があってね。その全員が三十歳を迎えられずに死んでる。だから、多分私の寿命ももうすぐ」
軽い口調で言われてもどう反応していいかわからない。どういう人生を過ごして来たなんて、私には想像もつかない。
「先代の聖女が亡くなったのは六年前。その時、まだ次代の聖女は決まっていなかった。奇跡を持つ人なんて簡単に見つかるもんじゃないからね。だから空位にするしかなかったんだけど、それだと信者を導く象徴がいない事になる。表向きにでも聖女を立てる必要があった。その時に考案されたのが、アンジェ、偽の聖女ね。私が聖女に抜擢されたのは三年前。それまでの間、聖女位は空位のままで、表向きの聖女活動をアンジェはしていたってわけ。本当は私が聖女になったんだから、アンジェは引退なんだけど、知っての通り癒しの奇跡は人気があるし、信者の獲得にもものすごく貢献してる。だから、もうしばらく仮聖女を続投させようって事になってる」
「あなたはそれが気に入らなくて、聖女の癒しの秘密を暴いて欲しいと言ったのですか?」
セラは机をバンと両手で叩いた。
「勘違いしないで。私も宗教家の端くれよ。その奇跡が人々を幸福に導くのであれば、私は一生傀儡でも良い。だけど、アンジェが聖女になってからの記録を見て、気付いたことがあったの。信者の増加と同時に、殉教者数が圧倒的に増えていた」
「偽の奇跡の代償ですね」
「そう。それで癒しの奇跡には何か問題か秘密があると思った。けど、私にはそれがなにかわからなかったし、教えても貰えなかった」
「あなたの方が立場は上なのでしょう?教えて貰えなかったのですか?」
「私がタネを知れば止められると思ったんでしょ。私よりアンジェの方が支持者が多いの。それだけ実績があるし。でも…」
セラは小さな手を力一杯握った。
「人を一人殺して、あまつさえその死体をバラバラにして見せ物にしてる?冗談じゃ無いでしょう!人を、命を何だと思ってるのよ!」
幼いながらも芯が通った声でセラは叫んだ。そして、一度深呼吸をした。
「お願い、私に協力して欲しいの。アンジェたちを止めるために力を貸して」
「それはあなたが聖女だから、止めたいのですか?」
「それもあると思う。教義で自死を禁じていない、っていうのもアンジェたちが自分の都合の良いように勝手な解釈をつけているだけ。人として、人の幸福を基準に考えればそんなのダメに決まってる。私、間違ってる?」
私は首を横に振る。
「いいえ、あなたは間違っていません」
「そうでしょ!?なら…」
「間違っているのは、私がその善悪を判断することです」
私がそう言うと、セラは固まって表情を曇らせた。
「偽の聖女であっても、救われた人は大勢いるのでしょう。ですが、あなたの言っていることも理解できます。どちらが正しいかなんて私にはわかりません。部外者の私から見ればただの派閥争いでしかありません」
「でもさっきは…」
「アンジェリカ様と対立したのは、あくまで私にとって不利益があったからです。私の価値観をフェリス教に押し付けようと思っているわけではありませんし、その資格もありません」
そう言って私は立ち上がる。
「あなたにはその資格があるとは思います。エルマーを解放する手助けをしてくれた事には感謝していますけど、申し訳ありませんが、ご協力することはできません」
私は部屋を出ようとする。悔しげに唇を噛むセラが目に映ったけど、見なかったフリをした。
セラを残して部屋を出て、扉を閉める。私は大きく息を吐いた。
「なんとか無事に帰れたわね」
誰もいないことを確認して、両手を上げて伸びをする。偉い人たちとの対談はとても肩が凝る。
「エレノア様…」
「良いわよ」
「えっ?」
「私とアンナの仲だもの。何がしたいかなんてわかるわよ」
私がそう言うと、アンナは驚いて目を丸くした後、くすくすと笑い出した。
「エレノア様にかかればお見通しですか」
「当然でしょ。あなたの主人よ。私は考えを変える気はないけど、あなたならどうすればいいかわかるわよね」
「はい。すごく迷いましたけど、でもやっぱり見捨てられないです」
「それでこそアンナよ。ふふ、楽しみね」
*
お嬢様を部屋の外で待たせて、私は一人、先ほどまでいた部屋に戻る。セラはうなだれていたが、私を見ると不思議そうにこちらを見た。
「侍女さん?」
「アンナと申します」
軽くお辞儀をすると、私はセラの向かいに座り、カバンから紙とインク壺、それに羽ペンを取り出した。そして紙の上に、さらさらと文字を書いていく。
「もし、本当にエレノア様の力を借りたいのであれば、ここに相談してみてください」
セラは怪訝そうにこちらを見た。
「一体何?」
「ある男爵令嬢についてです。本当はこの令嬢に関わるのはとても嫌なんですけど、とても嫌なんですけど、多分あなたにとって必要な人です」
セラは紙を受け取ると不思議そうに眺めた。
「正直に申し上げて、アンジェリカ様と対立するのにあなたは弱すぎます。志は立派かもしれませんが、考えが甘いです」
セラは、気色ばんで声を上げた。
「あんたに何が…!」
「ですが、私は一信徒として、セラ様を支持したいと思います」
私は座ったまま、できるだけ丁寧にお辞儀をする。セラはそれを見て戸惑っているようだった。
「セラ様が本気でどんな犠牲を払ってでも神殿を改革する覚悟があるのであれば、連絡を取ってみてください。私は信徒である前に、エレノア様の従者なので、私ができることはそれだけです」
「ここに書かれてる人?一体なんなの?」
「あなたたちとは正反対に位置する人ですね。魔女……のようなものと思っていただければ」
混乱しているようなセラを横目に、私は言葉を続けた。
「エルマーを助けることに協力してくださってありがとうございました。主人に代わりお礼申し上げます」
「結局ほとんどあなたの主人が解決しちゃったじゃない。私がしたのはアンジェを呼び出したことぐらい」
「私たちだけでは呼び出しに応じて貰えず、交渉できずじまいでしたよ」
今回はお嬢様が上手く解決してくれたのだが、もし拗れた場合でも、セラには処刑を取りやめさせることぐらいはできたのだろうと思う。
「それに、エレノア様はあんな言い方をしていますけど、あなたにとても興味がありますよ。ちょっと言葉足らずなだけなんです」
私は澄ました表情の下に好奇心を隠していたお嬢様を思い出した。
「いつか公爵家に遊びに来てください。きっとエレノア様は喜びます」
それを聞いたセラは最初は眉をひそめていたが、ニヤリと口角を上げた。お嬢様は利害にはシビアだけど、身内には結構甘いところがある。私の意図が伝わったみたいだ。
「わかったわよ。まずはお友達からってわけね。口説き落とす気でいるから、覚悟して。言質を取ったよ」
「お待ちしてますね」
言質、か。
私は主人も主人なら、やっぱり従者も従者なんだな、と思った。
退屈令嬢エレノアの事件簿シリーズの四作目になります。
・一作目 私を殺しても誰も得をしないというのに
・二作目 悪役令嬢はただ恋バナをしたいだけ
・三作目 退屈な令嬢と嘘つきたちの末路
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