ジャムセッション
七時二十五分。休日だというのに、セットしていない目覚まし時計のアラームよりも五分前きっちり、吉本さくらは目を覚ました。いつものことだ。人間の体内時計というのは案外正直にできている。
ベッドの中でぼんやりと天井を眺めながら、さくらは今日のスケジュールを頭の中で並べ始めた。午前中に洗濯をする。午後は図書館に行く。夕方には隣の部屋の住人、井上さんにパソコンの使い方を教える約束があった。
そこでふと気がついた。寝室の外、廊下のほうからカタカタという微かな物音が聞こえてくる。しばらく続いたそれはやがてカコンと硬い音を残しておさまった。
さくらはマンションの一○五号室にひとり暮らしをしている。二十八歳、フリーランスで翻訳の仕事をし、深夜に作業して昼前まで眠るというのが平日のリズムだ。
しかし一般的に朝七時の廊下の物音は、特段おかしなことではない。隣の井上老人は早起きだし、反対隣の一○六号室に住む島木夫妻は共働きで、ちょうどこれくらいの時間に揃って出勤する。
でも。この音は、廊下の外ではなく玄関ドアの内側、つまり、さくら自身の部屋の中から聞こえてくるようだった。
さくらはそっとベッドから降り、スリッパを履いた。寝室のドアを細く開ける。もちろんのこと、廊下には誰もいない。当たり前だ。鍵はかかっているし、不審な人物が忍び込んでいたら、こんなにのんびり考えている場合ではない。
ただ、玄関に何かが置いてあった。小さな紙袋のようだ。白い無地の紙袋で、口は輪ゴムで結ばれている。
「……なに、これ」
さくらは首をひねった。玄関の鍵は確かに閉めた。昨夜、仕事を終えてお風呂に入る前にもしっかり施錠を確認したのを覚えている。ではこの紙袋はいつ、どこから現れたのか。先程の音に決まってはいるが――。
袋の口に小さなメモが挟まっていた。
“いつもありがとうございます。よかったら使ってください”
差出人の名前はない。
さくらはコーヒーを淹れながら頭を整理した。この部屋の合鍵を持っている人を考える。
不動産屋の担当、村上さん。管理会社のスペアキーを持っているはずだが、理由もなく住人の部屋に入るはずがない。それから、さくらの母親。実家は電車で二時間の距離にある。七時にくるはずがないし、無断で入ってくるような人でもなく、きたのなら声をかけるはずだ。
少し躊躇いながらも紙袋の中身を確認する。出てきたのは小ぶりのガラス瓶だった。手作りらしいラベルが貼ってあり、『ゆず』と書かれている。丁寧な字だった。
「ジャム……ゆずジャム?」
正体の知れない不審物、とは不思議と思わなかった。脳裏にひとつの記憶が浮かんだのだ。
三週間前、一○三号室の前でダンボール箱を抱えたお婆さんと鉢合わせた。荷物が多すぎて鍵が開けられない様子だったので、さくらは箱を持ってあげて、ついでに部屋の中にお邪魔してキッチンまで運んだのだった。
『助かったわあ。ありがとうねえ』
お婆さんは何度も頭を下げて、さくらのほうが恐縮してしまった。一○三号室の住人、桑原静子さん。七十代後半のおっとりした人で、息子家族が遠方に住んでいるため、マンションにひとりで暮らしているそうだ。
『何かお礼を。夕ご飯、食べていかれない?』
大したことじゃないですからとさくらは断って、名前を聞かれたが「一○五号室です」とだけ答えてすぐに自室に戻った。
ダンボールから漂っていた仄かな柑橘の香り。ジャムの贈り主は、おそらく桑原さんだ。問題は、どうやって部屋の中に置いたか。
さくらはドアの前にしゃがんで、郵便受けを確認した。ジャムの瓶をそっと当ててみる。
理解した瞬間、思わず笑みがこぼれた。
このマンションの玄関ドアには新聞や郵便物を差し込める小さな投函口がついている。縦十センチ、横三十センチほどのスリットだ。ちょうど瓶がぎりぎり通るくらいの幅だった。
白い無地の薄手の紙袋は投函口とこすれてほんの僅かに汚れている。ミニチュアみたいな小さなジャム瓶。桑原さんは部屋番号を頼りにさくらの部屋に訪れ、呼び鈴を押さずに静かにこれを届けていったのだ。
早起きのお婆さんが選んだ、控えめな感謝の届け方。
「なんか、かわいい人だなあ」
さくらはジャムの瓶を両手で包んだ。幼い頃に亡くなった祖母を思い出すような心地がした。
***
夕方、さくらは約束どおり一○四号室の井上さんを訪ねた。
井上幸雄、七十四歳。元高校の数学教師で、夫婦でこのマンションに暮らしていたけれど、二年前に奥さんを亡くした。無口だが穏やかな人で、廊下で会うと必ずきちんと会釈をしてくれる。
「やあ、吉本さん。わざわざすまないね」
「いえいえ。どんなことで困ってるんですか」
「メールというやつが、届いているはずなんだが」
井上さんのノートパソコンを見ると、受信トレイに七十二通のメールが未読のまま積み上がっていた。さくらは事情を聞きながら整理を始めたが、その途中で一通のメールに目を留める。
“井上様、先日ご注文の時計の件でご連絡します”
「井上さん、時計を注文されましたか」
「時計? いや、していないよ」
添付ファイルがないのを見て、さくらはメールを開いた。ネット通販のサイトを名乗る業者からで、『ご注文の高級腕時計、六万八千円を本日発送しました』と続いている。請求書のようだ。さくらは眉をひそめた。
「身に覚えがないなら、詐欺メールの可能性がありますね」
「詐欺!」
井上さんは眼鏡を押し上げて目を瞠った。
「物騒な世の中だなあ。どうしたらいいだろうか」
「まず、こういうリンク……青い文字列は、絶対にクリックしないでください。それから、支払いの要求があっても振り込んじゃダメです」
さくらはメールのヘッダー情報を確認した。送信元アドレスをよく見ると、正規の通販サイトのアドレスに見せかけているが、ドメインが一字だけ違う。『amazоn』ではなく『amazоn』――oの字が、キリル文字に変えられていた。
使い慣れない人には巧妙な偽装ではあった。
「大丈夫、そんなに怖くないですよ。メールを開いただけじゃ何も起きないですし」
「お嬢さんがいてくれてよかった。私には、何が本物で何が偽物か、見分けがつかん」
「そうですね。いくつか見分けるコツをメモしておきますね。簡単なのは、このアイコン、メールの『顔』と、アドレス、差出人の『名前』を見るんです」
正規の送信者であれば企業のロゴをアイコンにしており、不審な送信元であれば単語にならない乱雑なアドレスが表示される。
さくらがメモに対処法を書き記していくと、井上さんは感心したように頷いた。
「顔と名前。なるほどなあ。信用の測り方ってのは、案外どこでも同じもんだね」
帰り際、さくらは廊下でばったり桑原さんに会った。
「あら、吉本さん」
「こんにちは」
「朝のジャム、割れてなかったかしら」
「大丈夫でした、ありがとうございます。投函口から入れてくださったんですね」
「呼び鈴を鳴らしたら迷惑かと思って……まだ寝てらっしゃるかもしれないでしょう」
そう言って桑原さんは照れたように笑った。
「ちゃんと届いたか心配だったの」
「ぴったりでした。よく入りましたね」
「最初は入らなくって。三軒ホームセンターを回ってね、ちょうどいい小さな瓶を探して」
「え、三軒も!」
さくらは目を丸くしたが、桑原さんは嬉しそうに笑った。
「普段行かないところにも行ったから、とっても楽しかったわ。あなたのおかげね」
そう言われると、かえって申し訳ないような気持ちになりかけていた心が和み、なんだかさくらまで嬉しくなる。
***
その夜、さくらはゆずジャムをトーストに塗りながら一日を振り返った。昼夜が逆転しているさくらにとって、普段はこれが朝食となる。いつもよりも上品な甘い香りが鼻腔をくすぐった。
「ちょっとしたミステリーだったなぁ」
寝室の外の物音、謎の紙袋。正体は気遣い屋のお婆さんが寝ているかもしれないさくらを起こさないよう、そっと差し入れてくれた手作りのジャム。それに老人のもとに届いた大量のメール、偽装文書。文字を差し替えることで本物に見せかける古典的な手口。
大した事件は起きていないけれど、ちょっとした謎があり、ちょっとした解決があった。
井上老人は言った。何が本物で何が偽物か、見分けがつかん。しかし、信用の測り方は案外どこでも同じだと。
たとえばこのジャムも、ラベルに名前がなく、差出人不明だった。もしさくらが猜疑心の強い人間なら、「知らない人間からもらった食べ物」と警戒して、捨てていたかもしれない。
でもさくらはジャムを信用した。三週間前の出来事を覚えていたから。相手の顔と名前を知っていたから。あの時のダンボールの香りが祖母を思わせ、桑原さんが信用できる人であることを本能的に感じていたから。
「信用って、つまり……推理なんだよね」
そんな独り言をこぼして、トーストをかじる。ほんのり甘くてほろ苦い。どうにもノスタルジックなゆずの味。
***
数日後、さくらは近所のスーパーで桑原さんと再び遭遇した。
「井上さんにもジャムをあげたいのだけれど。あの方、今はひとり暮らしでしょう。朝ごはんをちゃんと食べてるか心配でねえ」
さくらが先日元気そうだったことを伝えると、桑原さんはほっとした顔をした。
「あなたがいてくれると安心ね」
さくらはなんだか面映ゆかった。何か大きなことを為したわけでもないのに、小さな信用がこのマンションの廊下に静かに積み上がっていくようだった。
外の世界も、案外ちゃんとできている。そんなことを思いながらスーパーの自動ドアをくぐって家路につく。
仕事の傍ら、さくらは一息入れるついでにネットでゆずジャムのレシピを検索してみた。コツはゆずの白いわたをなるべく丁寧にとること。苦みが残って、それがまたいいという。それからするすると他の様々な果実や花を使ったジャムについて調べて、不意にひとり暮らしを始める時に母がくれた言葉を思い出した。
“好きな仕事をしたらいいわ。でも、人様に迷惑をかけてはだめよ。どんな仕事でも、あなた以外のたくさんの人が関わっているんだからね”
気が散りやすい自分をよく知っている母の先見性に、さくらは思わず苦笑する。最後に開いていた桜ジャムのレシピを印刷しておく。
「……お母さんに、送ってあげようかな」
何も言わずにいきなり手作りのジャムをプレゼントしても、きっと母は喜んでくれて、それから「何かあった?」と電話でもかけてくるだろう。そんなことを想像しながらレシピサイトを閉じて、さくらは自分の仕事に戻るのだった。




