婚約も地位も奪われかけた私が、帝都の闇を暴いて大逆転しました
第一章|春、女学校の中庭にて
春の陽射しは、まだどこか柔らかく、校舎の白壁を淡く照らしていた。
大正十四年――東京。
女学校の中庭には、咲き始めたばかりの桜が、はかなげに枝を揺らしている。
私は、その下を歩きながら、静かに息を整えていた。
「美栄子さん、今日の国語の小論文、ずいぶん難しそうでしたわね」
「ええ……先生、容赦ありませんもの」
隣を歩く友人の声に、私は小さく微笑んで答える。
名は、三条美栄子。
華族の家に生まれ、今はこの女学校に通っている。
卒業後は、家業である貿易会社の補佐に入り、いずれは正式に英治と結婚する――それが、私の決められた未来だった。
少なくとも、今日までは。
中庭の向こう側に、人だかりができているのが見えた。
何事かしら、と視線を向けた瞬間、私は思わず足を止める。
そこにいたのは――英治だった。
白い学生服に身を包んだ彼は、誰かと向かい合って立っている。
その相手は、見知らぬ少女。
けれど、なぜか胸の奥が、ひどくざわついた。
「……英治さん?」
私の呟きに、友人たちも気づいたようだった。
「あら……本当。美栄子さんのご婚約者でしょう?」
「お相手は……誰かしら?」
少女は、華やかな洋装に身を包み、派手すぎない化粧をしている。
整った顔立ちではあるが、どこか必死さを滲ませた瞳が印象的だった。
私は、無意識のうちに、彼らのほうへ歩み寄っていた。
「英治さん」
呼びかけると、彼は驚いたように振り返る。
「あ……美栄子。どうしたの?」
「どうしたの、ではありませんわ」
私は穏やかな声を保ったまま、微笑む。
「昼休みの時間に、こんなところで何をなさっているのかしら、と」
英治は、一瞬だけ視線を泳がせた。
その仕草だけで、胸が少し痛む。
「えっと……こちらは……」
「初めまして!」
彼が言い終えるより早く、少女が一歩前に出た。
「私、神谷美優子と申します」
はっきりとした声。
遠慮のない視線。
私は、内心で小さく息を吸う。
「三条美栄子と申しますわ。……英治さんの婚約者です」
わざと、最後の言葉をはっきりと告げた。
美優子の表情が、わずかに揺らぐ。
だが、すぐに笑顔を作った。
「はい、存じております」
……存じている?
その言葉に、違和感を覚えながらも、私は表情を崩さない。
「それで……ご用件は?」
静かに尋ねると、美優子はぎゅっと拳を握った。
そして、意を決したように顔を上げる。
「あの……」
一瞬の沈黙。
周囲の生徒たちの視線が、集まってくる。
「英治さんを……解放してあげてください!」
――時が、止まったかのように感じた。
「……はい?」
思わず、聞き返してしまう。
英治も、ぽかんと口を開けたまま固まっている。
「私と英治さんは、愛し合っています!」
美優子は、声を震わせながらも、はっきりと言った。
「形だけの婚約なんて、間違ってます。そんなの……不幸です!」
周囲が、ざわりと騒めく。
私は、しばらく彼女を見つめてから、そっと微笑んだ。
「……なるほど」
ゆっくりと、一歩前に出る。
「つまり、私に婚約を解消しろと、そうおっしゃるのですね?」
「はい……!」
迷いのない返事。
けれど、その奥には、不安と焦りが滲んでいる。
私は、それを見逃さなかった。
「英治さん」
今度は、彼のほうを見る。
「あなたも、同じお気持ちですの?」
問いかけられた英治は、困ったように眉を寄せた。
「そ、それは……」
視線が泳ぐ。
沈黙。
逃げ道を探すような態度。
――ああ、やはり。
胸の奥で、何かが静かに崩れ落ちた。
「……美栄子」
小さく、彼は呟いた。
「僕は……」
言葉は、続かなかった。
代わりに、美優子が彼の手を握る。
「大丈夫よ、英治さん」
私は、その光景を、ただ静かに見つめていた。
怒りも、涙も、不思議と湧いてこない。
あるのは――確信だけだった。
(なるほど……)
(これは、もう始まっているのね)
私の知らないところで。
私の知らない形で。
私の未来は、静かに書き換えられつつあった。
――けれど。
それが、誰にとっての“幸福”になるのかは。
まだ、誰にも分からない。
第二章|噂と視線
あの日以来――女学校の空気は、目に見えない形で変わってしまった。
廊下を歩けば、ひそひそと囁く声が背中に刺さる。
「……あの人が三条さんよね?」
「婚約者を取られたって……」
「でも、あの神谷さんって……」
私は、それらを聞こえないふりをして、背筋を伸ばして歩いた。
華族の娘として。
三条家の娘として。
取り乱すなど、許されない。
「美栄子さん……」
教室に入ると、友人の一人が心配そうに声をかけてきた。
「大丈夫ですの?」
「ええ。ご心配には及びませんわ」
私は微笑みながら、席につく。
机の上には、まだ誰も手をつけていない教科書。
いつもと変わらない風景。
――なのに、胸の奥だけが、少しずつ冷えていく。
昼休み。
私は中庭には行かず、図書室へ向かった。
静かな場所で、一人になりたかった。
高い天井。
木の香りのする書架。
ここに来ると、不思議と心が落ち着く。
私は窓際の席に座り、帳簿学の本を開いた。
だが――文字は、ほとんど頭に入ってこない。
(……情けないわね)
ため息をつきかけた、そのとき。
「美栄子」
聞き慣れた声がした。
顔を上げると、そこに立っていたのは英治だった。
「……何かご用ですか?」
私は、なるべく平坦な声で答える。
彼は、少し困ったように笑った。
「昨日のこと……ちゃんと話したくて」
「そうですか」
本を閉じ、彼を見る。
「では、どうぞ」
英治は、向かいの椅子に腰を下ろした。
しばらく、沈黙。
先に口を開いたのは、彼だった。
「……美優子は、悪い子じゃないんだ」
私は、内心で小さく笑った。
最初の言葉が、それなのね。
「存じておりますわ」
「え?」
「悪い子かどうかと、婚約を破ることは、別問題ですもの」
英治は、言葉に詰まる。
「僕は……迷っているだけで……」
「迷う、ということは」
私は静かに告げる。
「どちらも失う可能性がある、ということですわ」
「……っ」
彼の顔が、こわばった。
「美栄子は、冷たいな」
ぽつりと、そう言った。
「冷たい?」
私は、首をかしげる。
「現実を申し上げているだけですわ」
そこへ、不意に足音が近づいた。
「英治さん!」
美優子だった。
少し息を切らし、こちらを見ている。
「あ……美栄子さんも……」
一瞬、気まずそうに目を伏せる。
私は、にこやかに微笑んだ。
「奇遇ですわね」
美優子は、ぎゅっと唇を噛んだ。
「……皆、噂してます」
「ええ、そうでしょうね」
「美栄子さんが……可哀想だって……」
その言葉に、私は目を細めた。
「ご心配、ありがとうございます」
だが、声は冷たくなった。
「ですが、同情されるほど、落ちぶれてはおりませんわ」
美優子は、驚いたように目を見開く。
「そんな……私は……」
「私は、あなたを責めているわけではありません」
静かに続ける。
「ただ――覚悟をお持ちですか、とお聞きしたいだけです」
「覚悟……?」
「はい」
私は、二人を交互に見た。
「英治さんは、いずれ家を継ぐ立場ではありません」
「……」
「あなたは、何をなさるおつもりですの?」
美優子は、言葉を失った。
「愛だけで、生きていけるほど」
私は淡々と言う。
「世の中は、甘くありませんわ」
沈黙が落ちる。
図書室の時計の音だけが、響いていた。
やがて、英治が弱々しく口を開く。
「……僕は、なんとかなると思って……」
「そう」
私は立ち上がった。
「“なんとかなる”という言葉ほど、無責任なものはありませんわ」
鞄を手に取る。
「今日は、これで失礼します」
「美栄子……!」
背後で呼ばれたが、振り返らなかった。
廊下に出た瞬間、胸の奥が、少しだけ痛んだ。
――それでも。
私は、立ち止まらない。
噂も、視線も。
すべて背負って、前へ進むと決めたのだから。
(……覚悟のない恋は、いずれ自分を傷つける)
そのことを、あの二人は、まだ知らない。
第三章|彼を解放して
その日は、朝から落ち着かなかった。
春の風は穏やかで、空はどこまでも澄んでいる。
けれど、私の胸の奥には、小さな嵐が吹いていた。
理由は、分かっている。
ここ数日――英治は、ほとんど私と目を合わせなくなった。
廊下ですれ違っても、そっと視線を逸らす。
まるで、罪悪感から逃げるように。
(……逃げていても、何も変わらないのに)
私は、窓際の席でノートを閉じた。
「美栄子さん」
友人が、小声で話しかけてくる。
「今日の放課後……中庭で、何かあるそうですわ」
「何か、とは?」
「神谷さんが……皆を集めている、と……」
なるほど。
ついに、来たのね。
私は、小さく息を吐いた。
「ありがとうございます」
放課後。
中庭には、予想以上に人が集まっていた。
女学生だけでなく、男子生徒の姿もある。
まるで、見世物のようだ。
桜の花びらが、はらはらと舞い落ちる中。
その中心に、美優子と英治は立っていた。
そして――私。
視線が、一斉に集まる。
(逃げ場は、ないわね)
私は、ゆっくりと歩み寄った。
「お呼びですか?」
私の声に、美優子はびくりと肩を震わせた。
「あ……はい……」
だが、すぐに背筋を伸ばす。
「今日は……皆さんの前で、はっきりお話ししたくて」
「そうですか」
私は、静かに頷いた。
「どうぞ」
一瞬の沈黙。
風が、制服の裾を揺らす。
美優子は、ぎゅっと拳を握った。
「……美栄子さん」
「はい」
「英治さんを……解放してあげてください」
ざわっ、と周囲が揺れる。
私は、表情を変えずに答えた。
「解放、とは?」
「英治さんは……」
彼女は、英治をちらりと見る。
「本当は、あなたと結婚したくないんです」
周囲から、小さな悲鳴が上がった。
英治は、顔を青くする。
「美優子……!」
「でも……本当でしょう?」
彼女は、必死に言葉を続ける。
「家のために、無理して……縛られて……」
私は、そっと首をかしげた。
「それは、英治さんご本人のお言葉ですか?」
「……え」
「英治さん」
私は、彼を見る。
「そうなのですか?」
沈黙。
逃げ場のない視線。
やがて、彼は小さく頷いた。
「……少しは、そう思ってる」
胸の奥が、わずかに痛んだ。
けれど、顔には出さない。
「なるほど」
私は、一歩前へ出た。
「では、お二人は――婚約を解消した上で、どのように生きていくおつもりですの?」
「……え?」
二人同時に、声を上げる。
「英治さんは、卒業後、三条家の貿易会社で働く予定でしたわね」
「……うん」
「それは、私との婚約が前提です」
静かに続ける。
「解消すれば、その話は消えます」
ざわめきが広がる。
「その後は?」
私は、美優子を見る。
「あなたは、働くご予定は?」
「……それは……」
言葉に詰まる。
「住む場所は?」
「……」
「収入は?」
沈黙。
私は、淡々と畳みかける。
「恋愛とは、生活です」
「好き、だけでは、生きられません」
英治の顔が、真っ青になる。
「美栄子……そんな言い方……」
「現実ですわ」
私は、きっぱりと言った。
「逃げないでください」
美優子の目に、涙が浮かぶ。
「でも……私たちは……」
「愛し合っている、ですか?」
私は、静かに微笑んだ。
「ええ。否定はいたしません」
「ですが――」
声を強める。
「責任を伴わない愛は、ただの自己満足です」
中庭は、静まり返っていた。
誰も、口を挟まない。
私は、深く息を吸った。
「英治さん」
最後に、彼を見る。
「ここで、はっきりなさいませ」
「私と、別れますか」
「それとも、戻りますか」
すべてが、彼に委ねられた。
春の風が、再び吹く。
桜が、静かに舞い落ちた。
――その中で。
英治は、震える唇を開いた。
「……僕は……」
第四章|現実という壁
英治の言葉は、最後まで紡がれることなく、風に溶けた。
「……僕は……」
そう言ったきり、彼は俯き、黙り込んでしまったのだ。
中庭を包んでいた緊張は、居心地の悪い沈黙へと変わっていった。
誰も、助け舟を出さない。
誰も、代わりに決断してくれない。
――それが、現実だった。
「今日は、これ以上お話ししても意味がございませんわね」
私は、静かに告げた。
「お二人とも、よくお考えになってから、改めてお答えなさいませ」
そう言って、踵を返す。
背中に、無数の視線を感じながら。
教室へ戻る途中、胸の奥が、じわりと痛んだ。
――それでも、私は立ち止まらない。
泣いても、何も変わらないことを知っているから。
その夜。
三条家の応接間は、静まり返っていた。
私は、両親の前に正座して座っている。
父は新聞を畳み、ゆっくりと私を見た。
「……英治くんの件か」
「はい」
母が、そっと私の手を握る。
「美栄子、無理をしていない?」
「大丈夫ですわ」
私は微笑んだ。
「事実を整理しているだけです」
父は、小さく頷いた。
「三条家としても、準備はしている」
「婚約が破談になれば、英治くんの就職話は白紙だ」
「当然でしょうね」
私は、淡々と答えた。
「ご縁は、ご縁で結ばれておりますから」
父は、感心したように目を細めた。
「……強くなったな」
その言葉に、胸が少しだけ温かくなる。
翌日。
私は、放課後、英治に呼び止められた。
「美栄子……少し、話せる?」
場所は、校舎裏の小さな庭だった。
人目は少ないが、逃げ場もない。
「ええ」
二人きりになると、彼は深く息を吐いた。
「……父から、手紙が来た」
「そうですか」
「婚約の話が揺らいでいるって……もう知っていた」
私は、黙って聞く。
「……もし破談になったら、援助はできないって」
声が震えている。
「……働き口も、自分で探せって……」
「当然ですわね」
私は、静かに答えた。
「え……?」
「英治さんは、大人ですもの」
「ご自分の人生は、ご自分で責任を取るべきです」
彼は、愕然と私を見る。
「そんな……急に……」
「急ではありません」
私は、首を振った。
「ずっと、先送りにしていただけです」
沈黙。
鳥の鳴き声だけが響く。
「……美優子にも、言われた」
彼は、ぽつりと呟く。
「働くって、何をすればいいのか分からないって……」
私は、視線を伏せた。
「それが、お二人の“準備不足”です」
「好き、という感情に、未来設計が伴っていない」
彼の肩が、落ちる。
「……じゃあ、僕たちは……」
「今は、何も持っていません」
はっきりと告げる。
「夢も、地盤も、信用も」
英治は、唇を噛みしめた。
「……美栄子は、冷たいよ」
「いいえ」
私は、穏やかに微笑んだ。
「優しいのです」
「現実を教えて差し上げているのですから」
彼は、何も言い返せなかった。
数日後。
噂は、さらに広がっていた。
英治の家の財政難。
美優子の縁談話。
三条家の次の動き。
すべてが、紙芝居のように語られる。
私は、距離を置いたまま、それらを見つめていた。
(……もう、戻れない)
けれど、不思議と後悔はなかった。
私の心は、すでに前を向き始めていた。
そして――。
水面下で、静かに動き出している人物がいることを。
このときの私は、まだ知らなかった。
――佐久間。
彼の存在が、やがて私の運命を大きく変えることになる。
第五章 揺れる心と硝子の影
初夏の風が、古い洋館の廊下をすり抜けていく。
美栄子は、開け放たれた窓のそばに立ち、遠くに見える街並みをぼんやりと眺めていた。赤煉瓦の建物、路面電車の軋む音、行き交う人々の影――すべてが、どこか現実から切り離された舞台のように見える。
(……私は、ここで何をしているのだろう)
そう思いながら、胸の奥に沈む違和感を振り払えずにいた。
英治の屋敷に身を寄せるようになって、すでに数週間が経つ。
仕事は順調だった。編集の手伝いも、翻訳の補佐も、次第に任される範囲が広がっていた。英治も、美栄子の働きを高く評価してくれている。
けれど――。
心は、少しも晴れなかった。
理由は、わかっている。
伴治だ。
彼の姿が、最近、屋敷から消えていた。
以前は、毎日のように顔を合わせていたのに、ここ十日ほど、ほとんど姿を見ていない。たまに廊下ですれ違っても、軽く会釈するだけで、すぐに去ってしまう。
あの夜以来。
――庭園で、二人きりで語り合った、あの夜以来。
あのとき、伴治は珍しく真剣な表情で、美栄子にこう言った。
「……君は、もっと自由に生きていい」
その言葉が、今も耳に残っている。
「美栄子さん」
不意に声をかけられ、はっと振り返る。
そこに立っていたのは、美優子だった。淡い水色の着物に身を包み、いつも通り柔らかな笑みを浮かべている。
「佐久間さんがお呼びですの。書庫にいらっしゃるそうですよ」
「あ……わかりました」
美栄子は軽く頭を下げ、廊下を進んだ。
書庫は屋敷の奥にある、小さな部屋だ。天井まで届く本棚に、和書と洋書が混在して並び、独特の紙の匂いが漂っている。
扉を叩くと、中から低い声がした。
「どうぞ」
中に入ると、机に向かって資料を広げている佐久間の姿があった。眼鏡の奥の鋭い目が、美栄子を捉える。
「来てくれたか」
「はい。ご用件は……?」
佐久間は、少し言いにくそうに咳払いをした。
「実はな……君に、頼みたい仕事がある」
そう言って差し出されたのは、一束の書類だった。
「これは?」
「地方の新聞社から届いた原稿だ。だが、内容に問題がある」
美栄子は目を通し、眉をひそめた。
そこには、英治の出版活動を批判する記事案が書かれていた。しかも、事実と異なる点が多い。
「……これは、悪意がありますね」
「そうだ。誰かが裏で糸を引いている可能性が高い」
佐久間は声を落とした。
「最近、英治の周囲が騒がしくなっている。伴治も、その調査に動いている」
美栄子の胸が、きゅっと締めつけられた。
「……伴治さんが?」
「ああ。彼は昔から、裏の動きを探るのが得意でな」
そうだったのか。
彼が姿を見せなかった理由は、それだったのだ。
知らずに、勝手に寂しがっていた自分が、少し恥ずかしくなる。
「君には、この原稿の事実関係を洗ってほしい。信頼できるのは、君だけだ」
「……わかりました。お引き受けします」
美栄子は、はっきりと答えた。
その夜、美栄子は資料を抱えて自室に戻った。
机に向かい、灯りを落とし、静かに調査を進める。古い記録、新聞の切り抜き、手紙――それらを一つひとつ照らし合わせていく。
やがて、ある名前が何度も浮かび上がってきた。
「……竹治さん?」
英治のかつての知人。
現在は別の出版社に身を置いている人物だ。
記事の内容と、彼の過去の言動が、不自然なほど一致している。
(もしかして……)
考え込んでいると、廊下から足音が聞こえた。
――こんな時間に?
扉が、そっと叩かれる。
「……美栄子」
聞き覚えのある声だった。
胸が、大きく跳ねる。
「伴治さん……?」
扉を開けると、そこには、少し疲れた様子の伴治が立っていた。髪は乱れ、目の下には薄く影がある。
「こんな遅くに、ごめん」
「いえ……どうしたんですか?」
伴治は一瞬、迷うように視線を伏せ、それから静かに言った。
「……危ないかもしれない」
「え……?」
「英治を狙って、裏で動いてる連中がいる。中心にいるのは、竹治だ」
美栄子は息をのんだ。
「……私も、今、そのことを調べていて……」
二人は顔を見合わせた。
そして、同時に、小さく笑った。
「やっぱり、君は鋭いな」
「伴治さんこそ……」
沈黙が落ちる。
蝋燭の火が、静かに揺れる。
伴治は、ゆっくりと口を開いた。
「……君を、巻き込みたくなかった」
「どうしてですか?」
「危険だからだ。君には、もっと……穏やかな場所が似合う」
その言葉に、美栄子の胸が熱くなる。
「私は……逃げません」
はっきりと言った。
「ここで働くと決めたのは、私です。英治さんのためでも、伴治さんのためでもない……自分のためです」
伴治は、驚いたように目を見開き、それから、穏やかに微笑んだ。
「……強くなったな」
「最初から、弱くはありません」
二人は、ふっと笑い合う。
その距離が、自然と近づいていることに、互いに気づいていた。
けれど、伴治は一歩だけ後ろに下がった。
「……もうすぐ、決着がつく。だから、それまでは気をつけて」
「はい」
扉が閉まり、足音が遠ざかる。
美栄子は、胸に手を当てた。
鼓動が、早い。
(私は……)
彼を、心配している。
それはもう、否定できないほど、はっきりとした感情だった。
机に戻り、再び資料に向き合う。
今度は、迷いなく。
この真実を暴き、守りたいものを守るために。
美栄子の瞳には、静かな決意の光が宿っていた。
第六章 忍び寄る罠
梅雨の気配が、帝都の空気を重く包み込みはじめていた。
朝から細かな雨が降り続き、屋敷の庭園は薄い霧に覆われている。濡れた石畳に映る木々の影が、ゆらゆらと揺れていた。
美栄子は、縁側に腰を下ろし、帳簿の整理をしていた。
けれど、文字を追っていても、頭はどこか別のところにあった。
(伴治さん……昨夜、大丈夫だったのかしら)
あれ以来、彼とは顔を合わせていない。
危険が迫っていると知ってしまった今、無事でいるのかどうか、そればかりが気になった。
「美栄子さん」
背後から、穏やかな声がかかる。
振り返ると、英治が立っていた。濃紺の羽織をまとい、いつもより少し疲れた表情をしている。
「おはようございます」
「こんな雨の日に、外で仕事かい?」
「はい。部屋にいると、少し息が詰まってしまって……」
英治は苦笑した。
「最近、皆どこか張りつめているからね」
そう言って、縁側に並んで腰を下ろす。
しばし、雨音だけが二人の間を満たした。
「……実はね」
英治が、低い声で切り出した。
「昨夜、脅迫状が届いた」
美栄子の手が、ぴたりと止まる。
「脅迫状……?」
「ああ。出版をやめなければ、醜聞を流す、と」
「そんな……」
「内容は、でたらめだ。だが、世間は真実より噂を信じる」
英治は、拳を軽く握った。
「私は構わない。でも、君たちを巻き込むのは……」
「英治さん」
美栄子は、そっと顔を上げた。
「私は、ここにいると決めました。どんなことがあっても」
英治は、その瞳を見つめ、静かにうなずいた。
「……ありがとう」
そのとき、廊下を慌ただしく走る足音が響いた。
「英治さん!」
駆け込んできたのは、美優子だった。息を切らし、顔色が悪い。
「どうしたんですか?」
「さ、佐久間さんが……! 倉庫で……!」
三人は顔を見合わせ、すぐに立ち上がった。
屋敷裏の倉庫は、普段あまり使われない場所だ。湿った木材の匂いが漂い、薄暗い。
中へ入ると、床に崩れ落ちた佐久間の姿があった。
「佐久間さん!」
美栄子が駆け寄る。
佐久間は、額に汗を浮かべ、かすかに目を開けた。
「……すまん……油断した……」
「何があったんですか?」
「書類を……奪われた……」
「書類?」
「……竹治の……証拠だ……」
その言葉に、英治の表情が凍る。
「まさか……」
佐久間は、震える手でポケットから一枚の紙切れを取り出した。
そこには、乱れた文字で書かれていた。
『これ以上探るな』
美栄子は、背筋が冷たくなるのを感じた。
「……脅しですね」
「本気だ。あいつらは……」
佐久間は、そこで意識を失った。
すぐに医師が呼ばれ、佐久間は自室で休ませることになった。
夕刻。
屋敷は、重苦しい沈黙に包まれていた。
客間に集まった英治、美栄子、美優子は、向かい合って座っている。
「もう、はっきりしましたね」
美栄子が、静かに言った。
「竹治は、私たちの動きを把握している」
英治は、深く息を吐いた。
「だが、証拠がなければ動けない」
「……私、考えがあります」
二人の視線が、美栄子に集まる。
「竹治さんは、きっと油断していません。なら……逆に、こちらが罠を張るんです」
「罠……?」
「偽の情報を流して、動かせます」
一瞬の沈黙。
やがて、英治が口を開いた。
「……危険すぎる」
「でも、今しかありません」
美栄子の声は、揺れなかった。
そのとき、障子が静かに開いた。
「……その役、俺にやらせてくれ」
現れたのは、伴治だった。
雨に濡れた羽織のまま、鋭い目で三人を見つめている。
「伴治さん……!」
「君を、危ない目に遭わせない」
美栄子は、思わず立ち上がった。
「でも……!」
「一人で背負うな」
伴治は、優しく、しかし強く言った。
「俺たちは、仲間だろ」
その言葉に、胸が熱くなる。
英治は、二人を交互に見て、小さく笑った。
「……どうやら、私の周りには、頼もしい人間ばかり集まったらしい」
こうして、静かに、しかし確実に。
竹治を追い詰める計画は、動き出したのだった。
第七章 仮面の取引
夕暮れの帝都は、薄紫の霞に包まれていた。
路面電車の鐘の音が遠くに響き、通りには仕事帰りの人々が行き交っている。その雑踏の中を、美栄子は静かに歩いていた。
今日は、囮になる日だった。
表向きは、出版社の資料を持ち出し、別の取引先と密かに会う――という噂を、意図的に流してある。
(……大丈夫)
胸の奥で、何度もそう言い聞かせる。
今日は一人ではない。
離れた場所には伴治がいる。英治と佐久間も、別の場所で待機しているはずだ。
約束の喫茶店「白百合」は、洋風の小さな店だった。
硝子戸を押して入ると、珈琲の香りが漂ってくる。
奥の席に座り、鞄を膝に置く。
中には、“偽の証拠書類”が入っている。
それを狙って、竹治の手の者が動く――はずだった。
時計を見る。
約束の時刻まで、あと五分。
(……遅い)
不安が、胸をよぎった。
そのとき、隣の席に男が腰を下ろした。
灰色の外套、深くかぶった帽子。
顔はよく見えない。
「……失礼」
低い声だった。
美栄子は、視線を落としたまま答える。
「いえ」
男は、ゆっくりと新聞を広げた。
だが――。
紙面は逆さまだ。
(……やっぱり)
合図だ。
美栄子は、そっと鞄の口を開けた。
わざと中身が見えるように、書類の端をのぞかせる。
すると、男の視線が、一瞬だけそこに走った。
「……それ、興味深いものだな」
男が、ぽつりと言う。
「何のことですか?」
「とぼけるな。君が持っているものだ」
美栄子の背中に、冷たい汗が流れる。
計画通りだ。
けれど、実際に向き合うと、恐怖は隠せない。
「……お渡しする理由は、ありません」
精一杯、声を保つ。
男は、ふっと笑った。
「そうか。では――」
次の瞬間。
店の奥で、皿が割れる音がした。
同時に、別の男が入口を塞ぐ。
(……二人!?)
想定より、多い。
心臓が激しく打つ。
「静かに来てもらおう」
灰色の男が、低く囁いた。
「騒げば、面倒になる」
腕をつかまれる。
「離してください……!」
そのときだった。
「――そこまでだ」
鋭い声が、店内に響いた。
入口に立っていたのは、伴治だった。
いつもの穏やかな表情はなく、真剣な眼差しを向けている。
「警察は、すぐ来る」
実際には、まだ来ていない。
だが、男たちは一瞬ひるんだ。
「嘘だ」
「試してみるか?」
伴治は、一歩踏み出す。
その背後から、別の客に扮していた佐久間の部下が立ち上がった。
さらに、店外から笛の音が鳴る。
――合図。
包囲網だ。
「くそ……!」
男たちは舌打ちし、逃げようとする。
だが、すでに遅かった。
警官たちがなだれ込んでくる。
数分後。
店内は静けさを取り戻していた。
男たちは連行され、美栄子は椅子に座り込んでいた。
手が、まだ震えている。
「……大丈夫か」
伴治が、そっと声をかける。
「はい……でも……」
言葉が続かない。
怖かった。
本当に、怖かった。
伴治は、黙って自分の外套を脱ぎ、美栄子の肩にかけた。
「無理するな」
「……伴治さん」
視線が合う。
近い。
息遣いがわかるほど。
「君が傷つくくらいなら……俺は、全部投げ出してもいい」
思わず、胸が締めつけられる。
「そんなこと……言わないでください」
「本気だ」
低く、真剣な声。
美栄子は、ゆっくりと息を吸った。
「……私は、守られるだけの人じゃありません」
「知ってる」
伴治は、微笑んだ。
「だからこそ、守りたい」
一瞬、言葉を失う。
頬が、熱くなる。
遠くで、夕焼けが街を染めていた。
この戦いは、まだ終わっていない。
けれど、二人の距離は、確かに縮まっていた。
第八章 黒き帳簿
夜の帝都は、昼とは別の顔を持っていた。
瓦斯灯が淡く揺れ、濡れた石畳に光を落としている。人影はまばらで、どこか不穏な静けさが漂っていた。
美栄子は、伴治と並んで歩いていた。
目的地は――旧・大川倉庫。
かつて輸出入の拠点だったが、今は半ば廃墟となっている。
「……本当に、ここに?」
小さく尋ねると、伴治は頷いた。
「ああ。竹治は、ここを隠れ拠点にしている」
佐久間の調査で判明した事実だった。
押収された男の証言と、裏帳簿の断片。
すべてが、この場所を指していた。
「正面から行くのは、危険すぎます」
「だから、俺たちだけだ」
「……え?」
美栄子は足を止めた。
「英治と佐久間は、外で待機してる。警察とも連携済みだ」
「じゃあ、私たちは……」
「囮と、証拠確保役」
さらりと言う。
「危なすぎます……!」
「でも、君じゃなきゃ駄目だ」
伴治は、静かに美栄子を見つめた。
「竹治は、君を軽く見てる。だから油断する」
胸が、ぎゅっと締まる。
信用されている。
それが、怖くて、嬉しかった。
「……わかりました」
覚悟を決める。
「最後まで、やります」
倉庫の扉は、半開きだった。
軋む音を立てながら、中へ入る。
埃と油の匂いが鼻をつく。
奥の事務室だけが、明かりを灯していた。
「来たか」
低い声。
机の前に、竹治が座っていた。
四十代半ば。
鋭い目つきと、薄い笑み。
「よく生きてたな、お嬢さん」
「……あなたが、すべての黒幕ですね」
美栄子は、一歩踏み出す。
「出版横領、密輸、不正献金……全部」
「証拠は?」
「ここにあります」
鞄から、帳簿の写しを出す。
竹治の目が、わずかに揺れた。
「ほう……」
だが、すぐに笑う。
「それだけか?」
指を鳴らす。
背後から、男たちが現れた。
三人。
全員、刃物を持っている。
(……まずい)
伴治が、さっと前に出る。
「下がれ、美栄子」
「でも――」
「命令だ」
初めて、強い口調だった。
「……はい」
唇を噛みしめ、後ろへ下がる。
竹治は、楽しそうに眺めている。
「愛だなぁ」
「黙れ」
伴治が睨みつける。
「お前みたいな男に、言われたくない」
「ほう?」
竹治は立ち上がった。
「じゃあ聞こう。正義か?恋か?」
「両方だ」
即答だった。
男たちが、一斉に襲いかかる。
伴治は身を翻し、机を蹴って距離を取る。
一人を突き飛ばし、もう一人の腕をつかむ。
だが――多勢に無勢。
肩に、刃がかすった。
「伴治さん!」
思わず叫ぶ。
血がにじむ。
(このままじゃ……)
美栄子は、鞄を握りしめた。
中には、帳簿だけじゃない。
佐久間から託された“切り札”がある。
「……これ以上、続けますか?」
声を張る。
全員の視線が、集まる。
美栄子は、封筒を掲げた。
「これは、あなたが軍需品を横流しした証拠です」
「……なに?」
「すでに写しは警察と新聞社に渡してあります」
――嘘だ。
まだ渡していない。
だが、賭けるしかない。
「私がここで消えれば、明日には記事になります」
沈黙。
竹治の顔が、歪む。
「……小娘が」
「小娘でも、覚悟はあります」
震える声で言い切る。
「あなたの時代は、終わりです」
その瞬間。
外で、笛の音が鳴った。
続いて、足音。
「警察だ!包囲した!」
英治の声だった。
「ちっ……!」
竹治は後退する。
「逃げられると思って?」
伴治が、にやりと笑う。
竹治は抵抗する間もなく、取り押さえられた。
数分後。
倉庫は、警官で埋め尽くされていた。
美栄子は、へたり込む。
「……終わりましたね」
「ああ」
伴治は、そっと彼女の前にしゃがんだ。
「君がいなかったら、負けてた」
「……怖かったです」
正直に言う。
「でも……逃げたくなかった」
伴治は、少し照れたように笑った。
「俺もだ」
そして、真剣な目で言う。
「これが終わったら……話したいことがある」
心臓が、跳ねる。
「……はい」
瓦斯灯の光が、二人を包んでいた。
すべては、クライマックスへ向かって動き出していた。
第九章 暁に誓うもの
夜明け前の帝都は、まだ眠っていた。
瓦斯灯の残り火が、霧の中でかすかに揺れている。
旧・大川倉庫での事件から、三日が過ぎていた。
竹治は正式に逮捕され、裏取引と汚職の全容は、新聞各紙で大きく報じられている。
世間は、騒然としていた。
その渦中にいながら、美栄子は、静かな朝を迎えていた。
窓辺で、湯気の立つ紅茶を見つめながら、ぼんやりと考える。
(……本当に、終わったんだ)
長かった。
怖かった。
それでも、逃げなかった。
自分でも、少し誇らしく思える。
「……失礼します」
控えめな声がして、扉が開いた。
伴治だった。
左肩には、まだ包帯が巻かれている。
「おはようございます」
「おはよう。体は……大丈夫ですか?」
「君のおかげでな」
冗談めかして笑う。
けれど、その瞳は真剣だった。
「少し、歩かないか?」
「え?」
「話したいことがある」
――第八章の、あの言葉。
胸が、高鳴る。
「……はい」
二人は屋敷を出て、朝の並木道を歩き始めた。
桜は、もう散りかけていた。
淡い花びらが、石畳に落ちている。
「竹治の件……全部、片がついた」
伴治が、静かに言う。
「英治も佐久間も、警察も、よくやってくれた」
「……でも、一番は」
美栄子は、言葉を探す。
「伴治さんです」
「いや」
首を振る。
「一番は、君だ」
立ち止まる。
彼は、真正面から美栄子を見た。
「君が、あの場で立たなかったら……俺は負けてた」
心臓が、どくんと鳴る。
「……怖くなかったわけじゃないです」
「知ってる」
「でも……信じてくれる人がいたから」
「俺か?」
「はい」
一瞬、沈黙。
風が、花びらを運ぶ。
「……俺はな」
伴治は、ゆっくり口を開いた。
「ずっと、逃げてた」
「え?」
「正義も、責任も、気持ちも」
視線を落とす。
「兄の英治は、何でもできる。佐久間は冷静で、頼れる。……俺だけが、中途半端だった」
「そんなこと……」
「ある」
きっぱり言う。
「だから、危ない仕事も、人との距離も、全部避けてた」
拳を、ぎゅっと握る。
「君に出会うまでは」
胸が、締めつけられる。
「君は……怖くても、立った」
「俺は、あの背中を見て……逃げたくなくなった」
まっすぐな視線。
「……好きだ、美栄子」
世界が、止まった気がした。
耳鳴りがする。
「君が危ない目に遭うたびに、心臓が壊れそうだった」
「それでも、そばにいたいと思った」
声が、少し震えている。
「俺と……一緒に生きてくれないか」
こんな告白があるだろうか。
飾り気もない。
でも、真実そのものだ。
美栄子の目に、涙がにじむ。
「……ずるいです」
「え?」
「そんな言い方されたら……断れません」
ふっと、笑う。
「私も……好きです」
はっきり言う。
「伴治さんが、好きです」
彼の目が、大きく見開かれた。
「……本当か?」
「はい」
涙を拭いながら、頷く。
「ずっと、頼ってばかりで……でも、隣にいたいって思いました」
次の瞬間。
伴治は、そっと美栄子の手を取った。
「……ありがとう」
強く、でも優しく。
二人は、そのまま並んで歩き出した。
未来へ向かって。
*
一か月後。
帝都は、ようやく落ち着きを取り戻していた。
竹治一派は完全に摘発され、裏社会の構図も一変した。
美栄子の勤める出版社は、不正に加担していなかったことが証明され、信用を回復する。
英治は、新しい事業部の責任者に就任。
佐久間は、政府の調査顧問として引き抜かれた。
それぞれが、自分の道を歩き始めていた。
そして――。
美栄子は、ある手紙を手にしていた。
差出人は、伴治。
出張先から届いたものだ。
『美栄子へ
今、横浜にいます。
港の景色が、とても綺麗です。
君と一緒に見られたら、もっと良かった。』
頬が、緩む。
『戻ったら、話したいことがあります。
きっと、驚くと思うけど……』
「……なにかしら」
独り言をつぶやく。
*
数日後。
夕暮れの公園。
ベンチに並んで座る二人。
「……実は」
伴治が、少し緊張した顔で言う。
「正式に、出版社の顧問に就任することになった」
「え!」
「君と、同じ場所で働きたい」
照れくさそうに笑う。
「それと……もう一つ」
懐から、小さな箱を取り出す。
「……結婚を、前提に付き合ってください」
ぱちぱち、と瞬きをする。
「……前提?」
「いきなり結婚は早いだろ?」
「……そうですね」
でも、すぐに微笑む。
「はい。よろしくお願いします」
箱を開ける。
中には、控えめな指輪。
派手じゃない。
でも、温かい。
「……きれい」
「君みたいだ」
赤くなる伴治。
「もう……」
笑い合う。
*
夜。
美栄子は、机に向かい、原稿を書いていた。
自分の体験をもとにした、社会派小説。
タイトルは――
『暁に誓う』
ペンを置き、窓を見る。
月が、静かに輝いている。
「……未来は、怖くない」
隣には、信じ合える人がいる。
それだけで、十分だった。
最終章・第十章 花とともに歩む道
春の帝都は、やさしい光に包まれていた。
桜並木は満開を迎え、淡紅色の花びらが、風に乗って街を舞っている。
今日は、美栄子にとって――人生で、もっとも大切な日だった。
鏡の前に立ち、白無垢に身を包んだ自分の姿を見つめる。
「……本当に、私なのかしら」
思わず、そう呟いてしまう。
つい数年前まで、ただ原稿と資料に囲まれて、懸命に働いていただけの自分。
それが今、人生の新しい扉の前に立っている。
「美栄子さん、とてもお綺麗ですよ」
世話係の女性が、にこやかに言った。
「ありがとうございます」
照れながら、頭を下げる。
胸の奥が、じんわりと温かい。
(……伴治さん)
彼は、今頃どうしているだろう。
*
一方。
別室では、伴治が落ち着かない様子で立っていた。
「……まだか?」
「まだだよ」
英治が苦笑する。
「お前、さっきから十回は聞いてるぞ」
「仕方ないだろ」
佐久間も、腕を組んで言う。
「大丈夫だ。美栄子さんは逃げない」
「わかってる」
それでも、緊張は消えない。
今日という日は、伴治にとっても特別だった。
逃げ続けてきた過去。
自信のなさ。
迷い。
すべてを乗り越えて、ようやく掴んだ未来。
(……絶対に、幸せにする)
心の中で、何度も誓う。
*
やがて、雅楽の音が静かに響き始めた。
神前式。
厳かな空気の中、美栄子はゆっくりと歩く。
視線の先には、伴治が立っていた。
まっすぐで、優しい目。
その瞬間、不思議と緊張が消えた。
(……この人となら、大丈夫)
二人は、神前で並び立つ。
祝詞。
玉串奉奠。
三三九度。
一つ一つの所作が、未来への誓いだった。
「……これより、お二人を夫婦と認めます」
その言葉が告げられた瞬間。
胸が、いっぱいになる。
――夫婦。
その響きが、こんなにも温かいなんて。
*
披露宴は、洋館で開かれた。
大正らしい、和洋折衷の華やかな会場。
シャンデリアが、やわらかく輝く。
「おめでとう!」
「幸せになれよ!」
友人や同僚たちの声が飛び交う。
英治は、グラスを掲げた。
「弟としてではなく、一人の男として尊敬している」
「いい伴侶を得たな」
伴治は、照れながら頭を下げる。
佐久間も、静かに微笑んだ。
「君たちは、最強の組み合わせだ」
「……ありがとうございます」
美栄子は、深く礼をした。
*
披露宴の後。
二人は、庭園を歩いていた。
灯籠の明かりが、夜の庭を照らす。
「……夢みたいですね」
美栄子が、ぽつりと言う。
「うん」
伴治は、彼女の手を握る。
「でも、夢じゃない」
指先の温もりが、現実を教えてくれる。
「……不安は、ありませんか?」
「あるよ」
即答だった。
「でも、それ以上に楽しみだ」
微笑む。
「君となら、どんな未来でも」
美栄子も、そっと寄り添う。
「私もです」
*
結婚後。
二人は、帝都郊外の小さな洋館で暮らし始めた。
白い壁に、緑の蔦。
控えめだが、温かい家。
朝は、一緒に朝食をとり。
昼は、それぞれ仕事へ。
夜は、同じ食卓を囲む。
「今日ね、新人さんが失敗しちゃって」
「ほう」
「でも、一生懸命で……昔の私みたいでした」
「君も、よく失敗してたな」
「もう!」
笑い合う日々。
それが、何よりの幸せだった。
*
一年後。
美栄子は、一冊の本を出版した。
自身の経験を元にした長編小説。
社会の闇と、希望を描いた作品。
評判は、上々だった。
「……すごいな」
伴治は、完成本を眺める。
「君の名前が、こんなに大きく載ってる」
「支えてくれたからです」
「俺は、何もしてない」
「嘘です」
にっこり笑う。
「そばにいてくれました」
伴治は、言葉を失った。
*
さらに数年後。
春。
庭の桜が、再び満開になった。
「……ねえ、伴治さん」
縁側で、並んで座りながら、美栄子が言う。
「なに?」
「私……母になります」
一瞬、時が止まる。
「……え?」
「赤ちゃん、できました」
沈黙。
次の瞬間。
「……本当か!?」
思わず立ち上がる。
「声、大きいです」
「す、すまん」
目が、潤んでいる。
「……ありがとう」
「こちらこそ」
二人は、そっと額を寄せた。
*
そして――数年後。
小さな手を引きながら、美栄子は桜並木を歩いていた。
「おかあさま、はな!」
「きれいね」
隣には、伴治。
穏やかな横顔。
かつて、迷い続けていた青年は、今や立派な父になっていた。
「……ねえ」
彼が、そっと言う。
「君と出会えて、人生が変わった」
「私もです」
二人は、微笑み合う。
過去の痛みも、迷いも、すべてが今につながっている。
苦しんだからこそ、幸せがある。
戦ったからこそ、守れる未来がある。
桜は、変わらず咲き続ける。
これからも、何度でも。
二人と、その家族を見守りながら。
――美栄子と伴治の物語は、ここで幕を下ろす。
だが、彼らの人生は、これからも続いていく。
静かで、確かで、幸せな未来へと。
― 完 ―




