女神の箱庭
「おめでとうございます。6週目に入ったところですね。心音も確認出来ましたよ」
その言葉を聞いた夫は、弾けるような笑顔で「ありがとうございます」と返した。
先生の後ろに立っている看護士さんが、微笑ましそうに私達を見ている。
夫は、これから始まるつわりの話や生活する上での注意点を熱心に聞いてメモを取る。
きっと私達は幸せな普通の夫婦に見えるだろう。
夫と私は、2年前に地方の温泉旅館で出会った。
私は仲居として働いていて、夫は客として訪れた。
初めて顔を合わせた時、当時19歳だった私を見て、29歳の彼は「君はとても美しいね」と言って少し驚いた顔をした。
彼は資産家で、一度も働いた事がないらしい。
23歳の時に両親を事故で失い、土地や株などの莫大な遺産を引き継いだそうだ。
「僕はね、美しいモノが好きなんだ」
彼がこの旅館を訪れたのは、近くで美術品の展示会が開催されていたからだそうだ。
「素晴らしい作品に出会う事が出来た」と言って、彼は満足そうに帰って行った。
それから2週間後、彼はまた旅館にやって来た。
もう展示会はやってないのに、次の週もそのまた次の週も、何故か彼は泊まりに来たのだ。
挨拶を交わし雑談をするうちに食事に誘われ、半年後にはお付き合いをするようになった。
「僕はね、君の顔がとても好きだよ」
彼はそう言うと、幸せそうに私を見つめた。
私にはフィンランド人の血が混じっている。
一度も会ったことはないが、祖母がフィンランド人だったらしいのだ。
そして、会った事もない祖母の血が色濃く出てしまったせいで、日本人っぽくない顔立ちをしている。
おかげで子供の頃に何度も嫌な思いをしたので、自分の容姿があまり好きではない。
私も彼と同じで、事故で両親を亡くしている。
ひとりっ子だった私は、中学2年生の時に天涯孤独の身の上になった。
正確に言えば、遠縁の親戚が引き取ってくれたので、天涯孤独ではなかったのだけれど、会った事もない人達に面倒をみてもらうのは、だいぶ辛かった。
その家はごく普通の家で、おじさんもおばさんもとても優しい人達で、私と同じ歳の息子さんがいた。
その子は物静かで親切だったけれど、同級生の男子に私の事をからかわれて何度かトラブルになったらしい。
中学2年生という多感な時期に、いきなり同い年の外国人みたいな容姿の妹が出来たのだ。周りが騒つくのも当然だと思う。
その子と私は、同じ公立の高校に通う事になった。
でも彼は、本当は英語に力を入れている私立の学校に行きたかったらしい。
「あの学校はね、制服も高いし靴や鞄まで学校指定の物を揃えなきゃいけないのよ。学校行事で毎年アメリカに行くそうだし、我が家の財力ではとても無理よ」
おばさんは困った顔でそう言っていたけれど、もしかしたら、私を引き取っていなかったら、彼は希望の学校に進学出来たのではないだろうか?
そう思うと、申し訳なくて消えたくなった。
高校を卒業した後、私は住み込みで働ける温泉旅館に就職を決めた。
おじさんもおばさんも「大学に進学した方がいい」と何度も言ってくれたが、もうこれ以上は迷惑を掛けたくなかったのだ。
とにかく、自分の存在を疎まれるのが怖かった。
夫には、20歳の誕生日にプロポーズをされた。
彼はとても穏やかな人で、所作も言葉も丁寧で、食事をする姿も美しく、博識で誠実で慈悲深い。育ちが良いとはこういう事かと、側にいて何度も思った。
こんなに素敵な人は他にいない。
私には勿体ないくらい素敵な人だ。
私は深く考えずに夢心地で彼の手を取った。
彼の住まいは、広くて綺麗で生活感がまるでない。
掃除も料理も洗濯も全部プロの方達がやってくれる。
君は何もしなくていいんだよと彼は言った。
「やる事がなくてつまらないなら、何か習い事をするのはどうかな?」
「習い事って………料理とか?」
「うーん、料理はプロに任せればいいと思うよ。それよりも、君に相応しいのは………あっ! フラワーアレンジメントなんてどうかな? 君が生けたお花を部屋中に飾るんだ。 ね? 素敵だろう?」
「……そうね。楽しそう」
「それじゃあ、先生を手配しておくよ」
「うん……ありがとう」
私は、彼の隣にいる時、いつも何か間違えていないかと不安になる。
だって彼は素敵な人だから、その気になればいくらでも浮気だって何だって出来てしまうもの。
私は彼がいなくなってしまったらとても困るけれど、彼は私がいなくても別に困らない。
だから、どうあっても嫌われないようにしなければと卑屈な考え方をしてしまうのだ。
「僕はね、子供は3人欲しいって考えているんだけど、どう思う? 君が産んだ子なら絶対に可愛いだろうなぁ」
夫は幸せそうな顔をしてそんな事を言った。
でも、結婚後は一度も身体を重ねていないのだ。
夫はあまり性欲がないのかもしれない。
お付き合いをしている時も、ほんの数回しかそういう事をしなかったから。
それでも、そういう事をしなければ子供は出来ないのに、夫は私に触れようとはしないのだ。
もし身体を求めてくれたなら、少しは安心出来たのかもしれない。
彼にとって私は、一体どんな価値があるのだろう?
家事をしないでいいと言われ、身体を求められる事もなく、毎日三食美味しくて健康的な食事が用意される。
髪も爪も肌も定期的に美容師やネイリストやエステティシャンがやって来て、美しく整えられるのだ。
それなのに夫は、私に何も求めない。
意味が分からなくて不安が募る。
ある日、夫は家に友人を連れて来た。
画家をしているという綺麗な顔をした男性だった。
夫よりだいぶ若く見えるが、とても仲が良さそうだ。
夫が気を許しているのが伝わってきた。
彼は才能はあるが、まだ売れていない画家だそうだ。
夫は、そんな彼に目を掛けて援助をしているらしい。
「彼はね、君と同じでフィンランド人の血が流れているんだよ。お父さんがフィンランド人なんだって。だからかな? 君に少し似てるよね」
楽しそうに話す夫の言葉に、私は相槌を打った。
確かに、彼と私は少し似ているかもしれない。
肌の色も髪の色も目の色も顔立ちも。
「2人が羨ましいなぁ。僕は、いかにも日本人って感じの地味な顔をしてるから………背も低いしね」
夫は恥ずかしそうに、小さな声でそう呟いた。
でも私は、そんな夫の顔が好きなのだ。
一重の細い目も小さな口も品があると思うし、身長だって私がヒールを履かなければ、夫の方が少し高い。
「私は、貴方の顔が好きよ」
そう返すと、夫は「ありがとう」と微笑んだ。
それから数日後、画家の彼は、我が家の庭にある離れに住む事になった。
元々そこは、ゲストハウスとして使っていたらしい。
彼が絵を描くには最適な場所だと、夫はとても満足そうな顔で言った。
彼は、夕食時になるとこちらの家に食事をしに来る。
どうやら過去に、絵に集中し過ぎて食事を忘れ、倒れた事があるらしい。
最初は気を使っていたが、無口であまり存在感のない人なので、一緒に食事をするのもすぐに慣れた。
何となく彼は、外見だけではなく内面も私に似ているような気がする。
夫に見つけてもらって、大切に大切に守られている。
砂糖まみれのケーキにハチミツをかけるくらい甘やかされて、ドップリとその味に浸っている。
ここはまるで、現実から切り離された箱庭だ。
嫌な事なんて何もない。だだ好きな事をして、箱庭の主である夫の愛にすがって生きるのだ。
だから、その手を離されるのが、堪らなく恐ろしい。
きっと彼も同じ気持ちなのではないだろうか?
美味しいシャンパンが手に入ったんだと夫が言った。
綺麗なグラスを3つ並べて乾杯をする。
お酒を飲むなんて久しぶりだ。
琥珀色をした綺麗な液体は、シュワシュワと夢のように美味しくて気分が高揚した。
夫は、シャンパンがなくなったら、今度は赤ワインとチーズを持ってきた。
3人で飲みながら映画を観ようと、大きなソファーのある部屋へ移動する。
映画はフランスの恋愛ものらしいが、内容がよく分からなくて、あまり面白くはない。
イチャイチャしているシーンを3人で鑑賞するのは、何だかとても気まずかった。
「ねぇ、2人でこの映画と同じ事をしてくれる?」
唐突に夫がそんな冗談を言い出した。
驚いて振り向くと、目が全然笑っていない。
「え………何? ふざけてるの?」
「別に、ふざけてないよ」
「言ってる意味が、分からないんだけど……」
「だからね、2人で映画と同じ事をしてほしいんだ」
目の前の大きなスクリーンには、濃厚なベッドシーンが繰り広げられている。
「ほ、本当に、何を言ってるの? ねぇ大丈夫?」
「僕はね、ずっと考えていたんだよ。君達2人の子供はきっと凄く可愛いんだろうなって。2人の容姿はとても優れているからね。だから僕は、そんな2人の子供を育ててみたいなって思ったんだよ」
「い、意味が分からないっ! 正気なの?」
「君が嫌なら、別の人を用意するよ?」
「べ……別の人って?」
「それはもちろん、君に相応しい相手だよ。容姿が整っていて才能のある男性を厳しく審査して選ぶんだ。健康診断と遺伝子調査もするから安心してね」
「ちょ、ちょっと待ってくれっ! 俺がやる! その役目、どうか俺に任せてほしい!」
「うーん、でも決定権は彼女にあるんだよ」
「頼む! チャンスをくれっ!」
画家の彼は、私を抱き上げてベッドに運んだ。
抵抗しようと睨みつけると、彼の唇が震えていた。
あぁ、そうか。この人は私と同じなんだ。
必死で箱庭にしがみついている哀れな子羊。
シロップ漬けの甘い楽園から追い出されてしまったら、きっともう生きてはいけない。
彼は、震える手でブラウスのボタンに手を伸ばす。
もしかしたら、女性に慣れていないのかもしれない。
恐々と戸惑いながらも懸命にボタンを外していく。
「優しく触れてね。絶対に傷を付けないでほしい。僕の大事な人なんだ」
ソファーの方から声が聞こえた。
我に返り、慌ててソファーに目を向けると、こちらを見ている夫と目が合った。
「分かった。大切に触れる。絶対に傷を付けない」
画家の彼は、確認事項のように繰り返した。
頭がおかしくなりそうだ。
私は怒ればいいのか、それとも泣けばいいのか。
ただボンヤリと、目の前で動く少しクセのある金色の髪を眺めていた。
冷たい指先と柔らかい舌が、ゆっくりと肌をなぞる。
こんなおかしな状況なのに身体は正直だ。
久しぶりの人肌に本能が歓喜する。
避妊をしないなんて初めての経験だ。
しかもそれを夫以外の人としてしまうだなんて、考えた事すらなかった。
恥ずかしさと戸惑いと絶望と背徳感がぐちゃぐちゃに混ざり合って劣情を煽る。
「大丈夫? 痛くない?」
耳元に響く声に、いちいち身体が反応してしまう。
いっそ、無理矢理された方が良かった。
そんなに優しくされたら、もどかしくて「もっと」と口走ってしまいそうになる。
全部終わった後、彼は小さなかすれ声で「ごめんね」と呟いて、服を着るのを手伝ってくれた。
夫はワインを飲みながら、ずっと見ていたらしい。
「お疲れ様」と言って、お風呂を沸かしてくれた。
それから週に1、2回、夕食後にお酒が用意された時は、3人でソファーの部屋に移動する。
夫はベビー用品をたくさん買い始めた。
妊娠が判明すると、より一層私の体を気遣った。
まだ膨らんでもいないお腹を幸せそうに撫でる。
机には名前をメモした紙が束になって置いてある。
字画や響きや意味も重要だが、書きやすくて間違えられない名前にしたいそうだ。
お腹が膨らみ始めた頃、庭にもう一軒離れが建った。
そこには、夫の友人の彫刻家が住むらしい。
ダークブラウンの髪にモスグリーンの瞳、オリーブ色の肌をした美しい男性だ。
彼にはイタリア人の血が混じっているそうだ。
日々の夕食は、彫刻家の彼が加わって4人になった。
無口な画家の彼は、陽気で距離感の近い彫刻家の彼と折り合いが悪いみたいだ。
毎日、不服そうな顔をして食事をしている。
彫刻家の彼は、大きくなった私のお腹を「生命の神秘だ!」と言って、やたら触りたがるのだ。
どうやら画家の彼は、それが気に入らないらしい。
「私は先生に選ばれて本当に幸運だ。素晴らしい作品を作り、彫刻家として必ず名を上げてみせる」
美しいものを愛する夫は、芸術家達の間で先生と呼ばれているらしい。
今まで彼が目を掛けて援助してきた芸術家達は全員、世界中に注目され、天才と称されているそうだ。
「麗しい女神様、どうか私も貴女の愛の輪に加えてもらえませんか?」
「え? あの、女神様って何?」
「貴女は、先生の女神様なのですよ。誰よりも尊く清らかで美しい」
「えーと、あの、意味が分からないわ」
「私は、貴女のために用意された種馬です。貴女が拒まなければ、一人だけ子を持つ事を許されている」
「な、何を……………言っているの?」
「どうか、私を受け入れて下さい。私は一生涯、貴女を愛し貴女を守ると誓います」
彫刻家の彼は、映画に出てくる騎士のように跪いて、うっとりした瞳でこちらを見ている。
私は、いつのまにか知らない間に、女神様と呼ばれ、崇め奉られていたらしい。
まるで、新手の宗教団体の話を聞いているみたいだ。
「…………私は、夫にとって美術品のようなものなのかしら? それとも、美術品のような子を産む道具?」
「ち、違いますっ! 先生は誰よりも深く貴女の事を愛しています!」
「そう……かしら? 本当に愛しているなら、他の人との子供なんて望まないと思うわ」
「先生はとてもストイックな方なのです。おそらく、貴女に相応しいと定めた条件に………ご自分が当てはまらなかったのだと思います」
「何を言っているのか分からないっ」
泣き崩れる私を、彼は優しく抱きとめた。
そして、大丈夫だと、全ては貴女のためなのですと、耳元で何度もささやき続ける。
箱庭に新しい羊がやってきた。
オリーブ色の肌をした美しい子羊は、どうやらとても従順な羊のようだ。
最近庭で、三軒目の離れの建設工事が始まった。
確か夫は言っていた。子供は3人欲しいと。
きっともう少ししたら、厳選された最後の羊がやって来るのだろう。
ここは現実世界から切り離された夢の楽園。
住人達は、砂糖まみれのケーキにハチミツをかけるくらい甘やかされて、あまりの甘さに目を回す。
逃げるのを忘れ惚けていたら、シロップ漬けの狂った羊の出来上がり。
夫がそれを望むなら、それもいいと思ってしまった。
おそらく私も狂ってしまっているのだろう。
ここは、愛しい夫が用意してくれた甘い愛の楽園。
私のために造られた美しくて完璧な箱庭。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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