東雲・後編
東雲編、ラストです。
今回は非常にシリアスが盛り盛りです。
バチバチのバトルですので。
変わらず好きを詰め込んでおります。
楽しんでいただけると幸いです。
夏休みに入って、ぼくは朝から夕方まで部活でトレーニングをしていた。
また会おう、という寝取り野郎の言葉が頭から離れてくれないのだ。
「おいおい、随分気合い入ってるのな」
「まぁ、なッ!」
ぼくが全力で打ち込むストレートを獅童は軽々と捌いた。
獅童は避けるのも捌くのも受けるのも上手い。空手の極意は防御にあり、と漫画で読んだらしい。
「こらこら、今の本気で打ち込んでいなかったかい。腕を振り抜くのはやめたまえ」
「無理よ先生。東雲くん、今燃え盛っているもの。映画で言うならどうしても避けられない宿敵と再会して決戦する前だもの」
「いや、そういう意味で言ったわけではないのだがね。打ち抜くのもそれはそれで強いのだが、寸止めというのにもちゃんと強くなるパンチがあるのだよ。当たる瞬間にグッと力を込めるとインパクトが……」
先生の話がぼくの耳にも入ってくる。その打ち方ももちろんぼくは知って……
「ポッ……!がはっ」
「あっ」
「あっ」
「やべ、すまん」
獅童がぼくのパンチに合わせて空いた脇腹に鉤突きを差し込んだ。ボクシングでいうフックである。
獅童は寸止めのつもりだったようだが、どうやらぼくの身体がブレたばかりに丁度インパクトが伝わった。防具の上から衝撃が貫通して内臓に響く。酷い鈍痛とともに息が詰まり、吐き気が一気に込み上げた。
獅童は打ち込むのも上手い。空手の極意は攻撃にあり、と漫画で読んだらしい。どっちもじゃねぇかふざけやがって。
「まぁ、そういうことだね。殴る瞬間に全身の力を爆発させると威力が跳ね上がる。打つまでは脱力して速く、当たる瞬間は力を込めて強く。これが速さ掛ける質の正体だ。失敗すれば威力が大幅に減少するので、コンスタントにダメージを与えられる打ち抜く技術も磨くべきだけど、寸止めもちゃんと意味があるんだよ」
「先生、やけに詳しいわね」
「小説好きだからね。今日の組み手はもうやめておきなさい」
夏休みだと言うのにほぼ毎日来てくれる先生には感謝だ。それにしても、本好きという理由だけでは納得出来ない経験値が先生にはある気がする。アクション映画で動きを見慣れている藤堂さんは別として、先生は動体視力がやけに良い。分析も細かく、まるで見慣れているかのような雰囲気がある。
この先生、一体何者なんだか。
「青春するのは結構だけど、あまり無茶はしないように。今は東雲くんの方が危うく見えるね。部長が問題起こしたら部の存続は不可能だよ。気を付けるように」
先生はそういうとぼくたちに背を向けた。
「あら、もう帰るの?」
「先生とは忙しい職業なんだよ。学生は夏休みでも先生は夏休みじゃないのさ」
職員室にいるから、何かあったら呼びなさいと言い残して先生は部室を出て行った。
「……健也、大丈夫か?」
「効いたわ。悪いな、本気で殴りにいって」
「それは別に良いけどよ。おれが聞いたのは、今の組み手のことじゃなくて、ここ最近のお前に関してだよ」
ぼくは、ふぅーっと深く息を吐ききって呼吸を整えた。
「藤堂さん、あれからなんともない?」
「あれから?」
「クソ野郎と会ってから」
「ああ、黒井くん?とんと音沙汰ないわね。わたしの知り合いでもないんだし、当然でしょ?」
そうなのだろうか。
本当に、これから何事もなければ良いのだが。
ぼくは不安を消し去るように、頭をプルプル横に振った。
「警戒はしといてね」
「そう言われても、なにした人なのかわからないから警戒の仕様もないわよ。東雲くん、理由を話してくれるの?」
「うーん、あんまり話したくない」
「じゃ、どうしようもないわ」
藤堂さんはぼくと獅童から目線を切って、テレビの方に身体を向けた。おそらくこれから映画でも観るのだろう。
理由も話さないのに、アイツはクソ野郎だなんて話を鵜呑みにしろなんてたしかに酷い。だけどやはり、話すには重い。
ぼくにとっては、触れられたくない深い話だ。
別にぼくは藤堂さんに恋心を抱いていない。藤堂さんが誰と仲良くして誰と付き合おうがどうでも良いことではある。
だけど、獅童と藤堂さんはぼくにとって大切な友達だ。
大切な友達が、あのクソ野郎と繋がるのは嫌だった。
これは独占欲になるのだろうか。
「……なぁ、凛。今日はコメディでも観ないか?」
「コメディアクションならいくらでもオススメあるわよ!」
「おうおう、頼む」
ぼくの様子がおかしいことに気付いていて、だけど無理に踏み込まずにこの二人は待ってくれる。気遣いをしてくれている。
ぼくはこの二人を大切にしたい。
今度こそ、奪われたくないよ。
夏休みはどんどんと過ぎていき、終盤に差し掛かった。
結局、寝取り野郎からのアクションは一切無かった。ぼくの杞憂だったのだろうか。
それでも、気を緩められない。ぼくは毎日必死に自分を鍛え続けていた。それでもまだ足りない。アイツの体格はさらに良くなっていた。柔道は続けているのだろうか。少なくとも身体能力が落ちているようには思えない。今のぼくでも、中三の頃のアイツに真正面から勝てるかはやはり怪しい。
不安が拭えない。思い出すだけで身体が震える。
右拳と、左の鎖骨がうずく。
囚われている。ぼくは未だに、囚われている。
だけどやはり日々は止まることなく平凡に過ぎた。
そして遂に、夏休み最終日となった。
○
夏休み最終日、朝。
ぼくはいつものとおりに部室へと向かった。
いつもどおりに、部活は終わった。獅童も藤堂さんも、普段と同じようで笑っていた。
……ちょっと、失敗しちゃったかな。
去年の夏休みをぼくは取り返したかった。
楽しい最高な夏休みを過ごしたかったのに、これではぼくが自分でぶち壊してしまったようなものだ。
高一の夏休みという、生涯に一度しかない貴重な時間をぼくのせいで二人から奪ってしまったのではないだろうか。
二人はきっと、楽しい夏休みだったじゃないかと言ってくれる。普段通りに過ごせたのだから大成功だったじゃないかと言ってくれる。
ぼくが毎日鬼の形相をしながら鍛錬していたというのに、二人はきっと、そう言ってくれるのだ。
それがとても申し訳なく思えて、後悔の念が強まってきた。
藤堂さんと別れて、ぼくは獅童と一緒に駅に向かう。
忘れよう。
これからは、また平凡に戻ろう。
二人と大切な時間を過ごして、最高の高校生活を送ろう。
そう思い直し始めると、途端に頬が緩まった。
気負いすぎたな。
駅に向ける足も緩める。ゆっくり、ゆっくり進んでいこう。心にある黒い感情を溶かせるように、ぼくは速度を落とす。
「すまなかったな、獅童」
「え?なにが?」
歩いていると、ズボンのポケットに入れている携帯が細かく振動した。なにか、メッセージを受け取ったようだった。
携帯を取り出して、画面を見る。メッセージの送り主は、藤堂さんだった。
『今、ここにいる』
メッセージには、短い文言とともに画像が添え付けられていた。
画像には、学校すぐの最近潰れた店が映っていた。人の通りが少なく、経営不振で潰れた店のはずだ。その店舗の中で、藤堂さんとあの寝取り野郎が立っている。
寝取り野郎は満面の笑みでピースしていて、藤堂さんは腕を組みながら眉間にシワを寄せていた。服は着ているが、これの意図はわかる。この後にしようとしていることはわかる。
身の毛が総立ちする感覚。怒りは一瞬で沸点に達した。
「あの野郎……!」
先までとは違うぼくの尋常ならざる様子に獅童が気付いたのだろう。獅童は険しい顔をした。
「どうした」
「……悪い、用事が出来た」
「おれも着いていって良いよな?」
……それは、そうだろう。ぼくに止める権利はない。
ぼくの因縁ではあるが、ぼくたち三人は今まで、ずっと一緒だったのだから。
「多分、喧嘩になる。それもバチバチにぼくの因縁。手出しはしないでくれよ?」
ぼくの真剣な言葉に、獅童はコクリと頷いた。
全速力で走り、写真の場所へ向かった。
肩で息をしながら目的地に着くと、そこにはしかめっ面をしながら腕を組んで座る藤堂さんと、寝取り野郎、それからぼくの知らないヤツが二人いた。
「おい、なにしてんだよ」
ぼくが息を荒げながら問うと、寝取り野郎はケラケラと笑った。
「来るのおせーよ。こっから移動してたらどうしてたんだ?お前が来るまでにおっぱじめてたらどうする?お前、危機感少なくね?」
「そうだな。ぼくはわざわざ前日に連絡してやったっていうのに、お前は急だ。隠れてコソコソやるのが得意なんだな」
「はぁ?隠れてボクササイズがんばってたやつに言われたくねーわ。オレはいつでも堂々としてるってーの。お前みたいに小さくねーから」
その言葉に、獅童がズイッと身を乗り出した。
「連れションをしたおれにはわかる。健也はデカい方だぞ」
いらないいらない。シリアスな展開を壊そうとするなアホめ。つーかいつの間に見ていたんだ。
「……変なやつ連れて来んなよ」
「そっちこそ二人連れてるじゃねーか。一人じゃ怖かったか?」
「あー、お前さ、随分怖かったかって聞くけど、それ強がるための言葉?本当は自分がビビってるのを隠したくて聞いてる?」
その言葉に、今度は藤堂さんがズイッと身を乗り出した。
「一緒にホラーアクションを見たわたしにはわかるわ。東雲くんはビビっている時わかりやすく震えるわよ」
やめろやめろ。シリアスな空気を吹き飛ばそうとするんじゃない。
「……お前変なやつらと友達になったんだなぁ」
「ちょっと否定しにくいことを言うな」
ボルテージが嫌でも下がるわこんなもん。
「まぁ、藤堂さんが無事でよかった。なんで手出ししなかった」
「そりゃわかるだろ。お前の目の前の方が興奮するって知ってるからだよ。あの時のこと忘れられなくてよ。あの後お前の元カノは捨てたけど、マジで具合良かったからなー。それから……」
言い含んで、寝取り野郎はニンマリと笑った。
「夏休み最終日、お前に毎年思い出を作ってあげたくてよ」
殺す。
「おっと、お前とは一対一でボコしてやりたいんだよ。お仲間さんは手を出さないでくれよ?まぁでもあとで邪魔になるよな絶対」
そう言って、寝取り野郎は後ろの二人に目配せをした。
なるほど、まぁ、そうなるか。
「獅童、ぼくがあのクソをやる。後ろの二人は任せていいか」
「良いけどよ。しっかし仲悪いな。アイツが昔勝てなかったっていう柔道くん?後ろ二人も同じか?耳潰れてるのは親玉っぽいアイツだけだけど」
そういえば、あの耳。昔よりもタコが大きくなっている。
ということは、柔道は続けているとみて間違いないか。
ありがたい情報だ。ナイスアシスト、獅童。
「二人はぼくの知らないヤツだ。ただ、最近柔道を始めた同級って可能性もある。気を付けてくれ」
「りょ」
真面目な顔をしながらぼくに向けてピースサイン。
緊張感無いなぁ。まぁ、獅童なら大丈夫か。
ぼくはトントンとステップを踏みながら獅童から離れる。その動きに合わせて、寝取り野郎もぼくと相対した。
獅童は獅童で、ズンズンと臆することなく普通に歩いて寝取り野郎のお仲間に近付いた。
寝取り野郎も気になるのか、というよりあれは、ぼくを倒した後のことを気にしているのだろう。獅童の方に気を向けている。
「テメェやったんぞオラァ!」
お仲間の一人が吼えた。
「デケェ声出さなくても聞こえてるよ、虎杖悠仁ぃ」
そしてボケた後に上段後ろ回し蹴りでお仲間の頭を蹴り、吹っ飛ばした。
……死んだんじゃないかアイツ。
「テメェなにしてやがんだ!」
「デケェ声出さなくても〜う」
「殺すぞ!」
すぐさまもう一人が掴みかかってきたが、男の膝元に足刀を当てて動きを止め、その勢いのまま頭を掴んで飛び膝蹴りを食らわせた。
……死んだんじゃないかアイツ。
「なんかで縛っとけないか。怖いし」
そうして忙しそうに落ちている物をあさり始めた。
獅童、事情も知らないのに容赦ないな。
ドン引きしている藤堂さんが腕組みをやめて頭を抱えた。
「獅童くん、やっぱり強いわね。やりすぎじゃない?」
「正当防衛って無理かな?」
「適用出来たとしても過剰ね」
呑気に話を始めていた。
なんの心配もいらなかったらしい。
「お前の友達どうなってんだよ」
「大丈夫だ、ぼくもドン引きだから」
さて、ここからが本番だ。
○
「グローブはしなくて良いのか?また手が折れちゃうぜ貧弱くん」
「生憎今は持ってないんだよ」
ぼくはトントンとステップを軽やかに踏む。
「逃げ回るアウトボクササイズを磨いてきたのか?」
「まぁな。さっさとしろよ、掴めば終わらせられるだろ?」
「じゃ、遠慮なく」
寝取り野郎が一足で距離を詰める。
速い。あの頃よりも、足運びが格段にきれいになっている。
自分の欲求を満たすために、そのためには、自分を強くすることには、とことん真面目な男のようだ。
ありがたい。
だからこそ、ぼくがお前を超えることに意味がある。
あの時のお前にすら技術も筋力もまだ劣る。
だけどぼくは、今日お前を超える。超えてみせる。
ぼくはまず基本の左ジャブを当てた。ぼくのジャブをすでに見越していた寝取り野郎はそのジャブを真正面から受ける。
わざと受けたな。
ぼくのジャブでは大したダメージにはならないと踏んでいるのだろう。その考えは間違ってはいない。残念ながら、ぼくのジャブでは動きを止める起点になろうとも何発当てようがコイツの身体を壊すどころか意識を奪うことすら出来ない。
ぼくは左手拳を素早く引き、右ストレートを放った。
かつてと同じ動き。
「それは知って……ッ!?」
グチッ。
ぼくの右ストレートは寝取り野郎の顔面を捉えた。だけど今年は、ぼくは怯むことが無い。
拳を握らず、掌底で右ストレートを放ったのだ。これならば額で受けられようと拳は壊れない。
テメェと毒を吐く隙を与えず、ぼくは止まった寝取り野郎の脇腹に左フックを放った。短く息を吐く寝取り野郎の鳩尾に右アッパーをねじ込んだ。前屈みに倒れ始めた頭に左フックを放った。ぐらりと横によろけた脇腹に右フックを打ち込んだ。痛みで上がる顔面でガラ空きになった心臓付近に左ストレートをめり込ませた。
後ろに吹き飛んで倒れた寝取り野郎を、ぼくは見下ろした。
「立てよ。あの頃とはもう違う」
ぼくはステップを軽やかに踏む。
睨みつける寝取り野郎に、ニッと微笑んでやった。
「いてぇな。なるほどなるほど。お前はオレを倒すためだけに随分がんばってきたんだな?」
「毎日想い続けてたよ。うれしいか?」
「あぁ、さいっこう。お前の前でお前の彼女またヤッてやんよ」
「アホめ」
よろけながらも立ち上がったところにすかさず接近する。休ませない。
ぼくは今度はジャブではなく初手から右ストレートを放つ。
その右ストレートの掌底が顔面に届いたと同時、ぼくの左脇腹に強烈な衝撃が響いた。
「ぐっ、ウッ……!」
寝取り野郎の両腕はぼくの右腕を掴もうとしている。ならば、これは……!
「アホはテメーだ!」
蹴りだ。コイツ、右脚で蹴りやがった。
しかも的確。ぼくの脇腹を綺麗に蹴り上げた。
当然だ。ぼく自身が言っていたじゃないか。柔道をやっているからといって投げ技だけをするわけじゃない。これは喧嘩なのだから打撃もある。
柔道家は柔軟にも力を入れている。体幹は非常に強く、ある程度練習すればかなりの打撃だってすぐモノに出来る。
完全な回し蹴りや安定した状態で放った蹴りではないために威力は抑えられているが、それでもぼくとコイツの体重差、筋量差ではこの不完全な蹴りでも体勢くらいは崩される!
一度、距離を。
「逃がすかボケ!」
右脇腹目掛けて大振りのハンマーフック。ぼくはそれをガードを下げて受けた。
衝撃で身体が浮く。コイツ、どれだけの力を……!
だが掴ませない。投げられて頭から落とされたら一撃で終わる。指を見ろ。目を瞑るな。
その瞬間、右側頭部にまた強い衝撃が走った。
蹴り、か……!
「脳天ガラ空きだぞ!」
衝撃に抗うことなく自ら吹き飛ぶように受けた。マトモに受ければそれだけで意識が刈り取られる。
地面を何度も転がって、すぐに頭を上げた。
寝取り野郎は余裕そうに、肩を回していた。
「なめ、てんのか……」
「意趣返しだよ。さっきお前も攻めてこなかったろ?」
そりゃ、寝技が得意って元彼女から聞いていたから容易にマウントポジションを取りに行かなかっただけだ。マウントポジションを取りに行ったとして、取れずにガードポジションを取られれば技術の差ですぐにひっくり返される。ガードポジションにすら移行出来ず、絡め取られれば即座に絞め落とされる。
ぼくにはそれらの技術が無い。そのことを知らなかったとしても、明らかに経験値が高い自負があるはずのコイツがやらないはずがない。
……だが、コイツはぼくをなめている。しっかりと。
それならそれで、やりようが増える。
「おいおいどうした。お前の望んだ打ち合いだぜ。勝ってみろよ」
頭を振って気付けをする。
勝つんだ。絶対に、勝つ。
「打ち合い、上等だよ」
構えて立つ。頭に良いのを食らったばかりに少しふらつく。
だが、ぼくはまだ戦える。
「行くぞ!」
小刻みに足を動かして距離を詰める。上下左右、身体を揺らす。大丈夫、これならこの後も支障は無い。
ぼくはジャブを主軸に果敢に攻めた。打つ、距離を取る、打つ、距離を取る。
「そんなんじゃ終わんねぇよ!」
またも大振りのハンマーフック。あれを受ける余裕はない。
身体の内側に入り込んで大振りを殺す!遠心力が乗り切らないパンチなら痛くはない。
恐れて距離を取ろうとするから最もダメージを与えられる。恐れを殺して入り込む!勢いが乗り切る前ならばパンチもキックも効きはしない!
ぼくが少し前屈みになれば唇が触れるほど接近する。
これ程までに接近した場合、ボクシングで使えるのは超近接のボディか抱きつくクリンチのみだ。反則を含めればバッティングもあるが……ぼくの選択はボディに乱打。
「捕まえた」
その瞬間、寝取り野郎はそう言って大振りに見せかけた右腕をぼくの首に巻き付けた。そのままぼくのカッターシャツを掴み、シャツを引っ張り上げて頸動脈を絞めにかかる。
片手巻締めか!
だがこちらの左手は空いている。ボディを……っ!
「おっと」
「かはっ!」
ボディを打ち込もうとした瞬間に首が楽になった。締め技が解かれたのだ。ぼくは急激に楽になったために息を吸うことを優先してしまった。
本能的に、反射的に優先してしまったその隙を、わざと作られた。
「ゴッ、ボォオ……ッ!」
今度はぼくが鳩尾に重いアッパーをねじ込まれた。
身体の内側にまでめり込んだと錯覚するほどその力はすさまじく、ぼくの足が一瞬地面から離れる。
気持ちの悪い浮遊感。
そのまま続けて、服を掴まれた。
掴まれた。
「終わりだ」
声が聞こえた。
全身から汗が一気に噴き出た。
脳内に、自分の頭の中身が地面に飛び散るイメージが浮かんだ。
……ここだ!
動け!動け!ここしかない!
動かなきゃ死ぬ!動けなきゃ死ぬ!
死にたくなければ動け!死ぬんだぞ!
動け!!!
ぼくは寝取り野郎から掴まれている指を掴んだ。必死に、全力で。
その瞬間、投げられた。
背中から地面に全力で叩きつけられた。
かひゅっ、と自分から出てきた息は、自分のものには思えなかった。その後は息が思うように出来ず、短くとにかく肺に息を送り込むよう繰り返した。
「……てんめぇえええ!!!」
地面に寝転がったまま、寝取り野郎を見上げる。
寝取り野郎は後ずさりしながら右手を押さえていた。痛みを堪えるように。
……出来た。
賭けだった。
ともすればぼくは死んでいただろう。だが、命を賭けて成功させた。
ぼくは投げられる瞬間全力で寝取り野郎の指を握り締め、投げられる反動を利用して指をへし折ったのである。
突然の痛みのせいでぼくを完全に投げ切ることは出来なかったのだ。そのおかげで、ぼくは背中から地面に叩きつけられるだけで済んだ。
だが、下は固い床だ。背中から落ちたとはいえ、ダメージは計り知れない。
それでも、見合う対価だ。柔道家の命を、ぼくは奪えたのだから。
これで投げ技のほとんどを封じることが出来た……!
立て。今度は立て。まだ指を折っただけだ。打撃は封じていない。ぼくが殴り倒さなければ終われない。
「し、どう……っ!!!」
ぼくが叫んだ。無理やりに肺から息を吐き出して。
ぼくの叫びに、こちらに向かってこようとしていた寝取り野郎がピタリと動きを止めた。そして目線を獅童へ送る。
よ、よかった……。
「て、てを、だすなよ……」
ぼくの言葉に、離れたところで見ている獅童は腕組みをしながら答える。
「出すかよ。お前の喧嘩だからな」
ギロリと獅童を睨み付けたまま、寝取り野郎は動かない。
ぼくの後に、お前は獅童を相手にしなきゃいけないんだものな。足が止まってくれて助かった。
くそっ。ダメージがデカい……。
ぼくは息もままならず、震える足で立ち上がった。
「テメェ、マジで殺すぞ」
「だ、だいに、らうんどと、いこうか……っ!」
身体が、ふらつく。
だけどまだだ。まだだ……。
「……打たれ強くはなったみたいだな」
ふぅーっと息を吐き切り、寝取り野郎は右手を押さえるのをやめた。
コイツはところどころ、ぼくをなめてくれている。ふらつくぼくを見て、もう勝てると思っている。だから攻めてこない。次にやることになる獅童とのために、戦い方を考えて休憩しているのだ。
ぼくはカッターシャツのボタンを引きちぎって脱ぐ。
そして脱いだシャツを寝取り野郎の顔に向けてぶん投げた。
勝つんだ。
絶対に勝つんだ!
一瞬反応が遅れたところに乱打を叩き込んだ。
足がふらつく。関係ない。
腕に力が入らない。関係ない。
終わらせる。ここで終わらせる!
「あと少し、だったな」
獅童の声が聞こえた気がした。
聞こえて、インナーシャツを強引に掴まれる感覚があった。
ふわりと身体が浮く感覚があった。
なんで、投げ技……?
そうか、片手背負い……
ゴッ。
ぼくはまたも背中から地面に叩きつけられた。
今度は自分がどんな息の吐き方をしたかわからなかった。
「フゥ、フゥ……」
寝取り野郎の荒い息が聞こえる。
負けたのか、また。
最後の乱打、何発も打ち込めたが力が入り切らなかった。正しいフォームで打ち込めていなかったのも原因だろうか。
最初に打ち込めた数発のダメージ、無理矢理に全力で投げさせた疲労、最後に打ち込めた乱打。
だけど、どのみち、ぼくはこれで。
「よくやったよ、健也。お前はよくやった。あとはおれに任せろ」
獅童の声が聞こえる。獅童ならきっと問題なく勝てる。
ぼくとは違って、獅童は勝つことが出来るのだろう……。
曲が聴こえてきた。突然に。
幻聴じゃない。誰かが曲を流している。
「なにしてんだ凛」
「必要なのかなって思って。わたし、まだ終わってないと思うから」
曲が流れている。
『ねえなんでなんで 負けて良いの?
今を逃げたら振り出しじゃないの?
ほら後ろを見てごらんよ
重ねた道 繋がってるでしょ』
ぼくの好きな曲。何度も何度も聴いた曲。
*Lunaさん作曲の、Rise upだ。
初音ミクフィットボクシングで、ぼくはこの曲をプレイしている時が一番楽しかった。
「好きな曲でしょ、東雲くん。良いの?」
藤堂さんの声が聞こえる。曲とともに、きれいな声が聞こえた。凛として、とても澄んでいて、優しい声だった。
「わたしも好きよ、この曲。ねぇ、東雲くん。立ち上がりなさいよ」
『もう何度何度目だ 嫌になるよ
全て投げ出したくもなるよ
ほらちょっとずつ近づいてる
もう諦めるには遅いでしょ』
ぼくは拳を地面に叩きつけた。
口から血が混じったヨダレを垂れ流しながら吼えた。
ミシミシと身体中で鳴る音を頭に響かせながら、全身に力を込めた。
涙も鼻水もなんでも垂れ流しながら、瞳孔を開いて目に血が滲み始めるのもお構いなしに身体を起こす。
やってきた。
ぼくは積み上げてきた。
ここからだ。倒されて、ここから戦えるようにぼくは鍛えてきた。
ここで終わらないために、ぼくは一歩を踏み締めてきた!
「守ってよ!東雲くん!」
「あぁあああああ!!!」
立ち上がる。
睨み付ける。
構える。
今まで繰り返してきたことを思い出せ。
ぼくは、あの日のぼくを超えて、奪われる前のぼくに戻る!!!
「テメェ、まだ……」
喧嘩だ。これは喧嘩だ。ぼくの人生を賭けた全身全霊の喧嘩だ。
出し切れ!
ぼくは一気に距離を詰めて、オーバーハンドで殴りかかる。当然、寝取り野郎はそれをガードするために腕を上げた。
これは喧嘩だ。
全部利用して、絶対に勝つ。
絶対に勝つ!!!
拳はわざと寝取り野郎の目の前、空を切った。
は?という間抜けな声が聞こえた時、ぼくは蹴り上げた。
蹴り。今まで一切と使わなかった足技を、ぼくは振り上げて寝取り野郎の金的にぶち込んだ。
柔道家のお前が殴る蹴るを駆使したんだ。ぼくもボクシングに囚われる必要は無い。
寝取り野郎が何かを叫びながらよろめいた。
ボクシングに囚われる必要は無い。だけど、ぼくが積み上げられたモノはこれしかない。
ぼくが最後に頼る武器は、ぼくがお前に出し切れる武器は、これしかない!
打ち込め。
息を短く吐き切りながら、腕を振るう。
右手拳を、左手拳を、壊れるのも気にせずにがむしゃらに振るう。
打ち込め。
引く。伸ばす。引く。伸ばす。
血が舞う。痛みが走る。衝撃がある。伸ばすたびに衝撃がある。息が苦しい。身体中が痛い。それでももうここしかない。もうこれ以降はない。とにかく全力で、目の前に映る者に手を伸ばせ。
打ち込め。
力が入らないなら数を増やすしかない。息が続かないといってもまだぼくは死んではいない。ならまだ出せる。出来る限りを出し尽くせ。ぼくの全てをここで出せ。
打ち込め。
打ち込め。
打ち込め!
ジャブ、ジャブ、ストレート、フック、アッパー、ストレート、ジャブ、ストレート、アッパー、フック、フック、ジャブ、ストレート、ジャブ、ストレート、フック、フック、フック、ストレート、ジャブ、アッパー、フック、アッパー、ジャブ、ストレート……
フック、ジャブ、アッパー、フック、ジャブ、ストレート、ジャブ、ジャブ、フック、ジャブ、ストレート、ジャブ、アッパー、ジャブ、ストレート、ジャブ、ストレート、フック、フック、アッパー、ストレート……!
「あぁあああああ!!!」
「止まれ止まれ!それ以上はマジで死ぬ!」
「ハァー、ハァー、ガハァー……ッ!ハァー……!」
獅童に後ろから羽交締めにされて、ぼくはやっと止まった。
止まると急激な脱力感に包まれて、自分で立っていられなかった。
本当に、命を落とすまで殴り続けるところだった。
いつの間にか壁に押しやってまで倒れることを許さず殴っていた。寝取り野郎は、ズルズルともはやどこから血を流しているのかわからない顔面でへたり込んでいた。
「……はっは。人を殺すつもりで殴れるヤツがそうそういるかよ。柔道家の命である指を捨て身で折れるヤツがいるかよ。自分のファイトスタイルをフェイントに使ってまで金的打つか普通?やったな健也。お前は、強いよ」
獅童がぼくの身体を支えながら笑った。
ぼくの右腕を持ち上げて、高く掲げさせた。
「勝ったぞ。お前の、勝ちだ」
勝った、のか。
ぼくはもう、あの頃のぼくとは違う……。
獅童の言葉を聞いて、ぼくの意識は途切れた。
○
あれから、ぼくは獅童に担がれ、獅童と藤堂さんは寝取り野郎とそのお仲間の身分証明書をパシャリ写真に撮ってから書き置きを残してその場を後にしたらしい。
『男三人で女の子強引に連れ込んで、助けに来た二人組に喧嘩売ったのに負けて、それでも警察やママンに泣きつきたければ好きにすれば?』
とメモを残したそうだ。
煽りすぎでは?
ちなみに夏休み明け、芥川先生には階段から落ちたと嘘を付いた。すごい顔してたな。
結局、色んな手を使わなきゃ勝つことは出来なかった。でも、勝ちは勝ち。
身体能力も、技術も、経験も、ぼくは遠く及ばなかったろう。またやり合うことになったとして、確実に次は勝てない。
だけど、この一戦だけは勝利した。
「全身ボロボロだな」
「松葉杖がないと立つことすら出来ん。それなのに、松葉杖を持つと痛いのだからどうしようもない」
ぼくは両拳がイカれていたし、よっぽど強く背中を打ち付けたのか痛みが引かず、全身ミイラ男になっていた。
幸いだったのは、顔を殴られなかったから地獄先生ぬ〜べ〜に出てくるブキミちゃんのような腫れ顔にならず、国宝級イケメンフェイスを保てていることだ。
「東雲くん、ツンツンしていいかしら」
「絶対ダメ」
笑うと痛い。
でもまぁ、この痛みは悪くない。
ぼくはこれから、楽しい学校生活を送れる。
今度こそ心から、笑うことが出来るだろう。
あの過去はぼくの強さの原点だ。忘れはしない。だけどこれで、やっと進める。
「あんなのを見せられてしまっては、おれもがんばらねば、な」
「なに言ってんだ。獅童はぼくより強いだろ」
「……そういう意味じゃないさ」
えらくめずらしい雰囲気だな。
「東雲くん、超かっこよかったわよ!わたし映画のヒロインみたいでうれしかったし楽しかったわ!」
「そりゃなにより」
まぁ、とにもかくにも、ぼくはよくがんばった。
これからも、この二人とたくさん笑えるのなら万々歳だ。
拝読ありがとうございました。
東雲編、これにて終了です。獅童が最後に言ったことはなんだったのでしょう?
好きを詰め込みすぎました。作中出たものは全てリスペクトしています。ブキミちゃんに関してだって貶すように見えたかもしれませんが、ぼくは小学生の時読んでからリアルに二日くらい寝るの諦めました。怖すぎてです。尊敬しています。
書いてて楽しすぎました。
三人に関わる物語はまだまだ書いていきたいです!