悪役令嬢は婚約破棄を狙っている
この国の第三王子の婚約者、それがわたし、リネーア・リューブラントだ。
第三王子とは同じ年齢で、今年十六歳になった。わたしたちが通っている王立学園の卒業までは二年ある。結婚は、卒業後になると言われている。
第三王子は、顔はまあ悪くない。国王陛下と同じ太陽みたいな金髪と青い目。背だって低くないし、太ってもいないし痩せすぎでもない。
そのせいなのか、王立学園の友人たちからは、「羨ましいわ。さすが侯爵家の令嬢ね」なんて時々言われたが、とんでもない。
半年前に婚約が決まって以来、わたしは第三王子を好きになるどころか、はっきり言って嫌いになる一方だ。心の中でわたしはいつも、第三王子を「この男」扱いしていた。
当り前だが、最初から嫌いというわけではなかった。でもこの男は、わたしの前ではとにかく機嫌が悪かった。
勉強ができないわけではないが、第三王子として求められる能力が、この男にとっては高すぎるのだ。スマートにこなすことができない自分に苛々するくらいにはプライドが高くて、一緒にいなくてはならないわたしに対する態度が悪くなる。わたしが常に良い成績であることも、苛々の理由のひとつなのだろう。
それでも関係を悪化させぬよう、わたしも彼の機嫌を取るためにいろいろと頑張った。
ところが機嫌が良くなるどころか、わたしへの態度だけいっそう悪くなった。要するに、わたしはぞんざいに扱って良い存在とみなされたのだ。
わたしだって侯爵家で、蝶よ花よと慈しまれて育てられた。
わたしは、母と同じ明るいプラチナブロンドの髪に、父と同じ薄い翡翠色の瞳をしている。二人はわたしを溺愛してくれたと言ってもいい。
そんなわたしのプライドが、高くないはずがない。それでも相手が第三王子であったから、堪えてきたのだ。
その努力が無駄であるとようやく理解したのが最近、婚約して半年が過ぎた頃だ。
それ以来、挨拶や、用件がある場合には会話をするが、機嫌を取ろうと無理に話しかけるのをやめた。
王立学園でも距離を置いて過ごしていたら、しばらくして友人たちから心配をして声をかけられるようになった。
「最近、第三王子殿下は男爵家の令嬢と仲良くなさっているみたい。リネーア様、放っておいて大丈夫なの?」
あの男のことなどどうでも良かったが、あの男が誰かと仲良くしているというのが少しばかり気になって、友人たちから二人が良くいると教えられた、中庭にある鳥籠を模したガゼボに行ってみた。
……いた。なんだか随分近い距離で、楽しそうに会話をしている。
あの男は、わたしには見せたことのない明るい顔をしている。わたしはイラッとした。
言っておくが、嫉妬ではない。なぜ他の女にできることが、婚約者であるわたしにできないのか。お前には礼儀というものが備わっていないのかと、そういう気持ちからくるものだ。
呆れたわたしは、こちらに気づきもしない二人を置いて、何も言わずにその場を去った。
◇ ◇ ◇
そしてわたしにとって唯一の、本音を言える場所へ向かう。
王立学園内の図書館。その一番奥にある書庫へ。そこは書架に並べるには情報が古くなった資料や、傷んでしまって修復を待つ資料が保管されている。
扉を開けると、幼馴染であり同級生であるルーカス・オークランスがそこにいた。彼もまた侯爵位を持つ、敏腕と名高いこの国の宰相の息子だ。
「ルーカス、話を聞いて」
書庫の扉を後ろ手で閉めたわたしを、ルーカスは小首をかしげて、黙って見つめていた。
黒くてさらさらな髪と、深い藍色の瞳。銀色のフレームの細いメガネをかけていて、目立つ顔立ちではないけれど、よく見ると目鼻立ちは品よく整っている。背も高くスタイルも良いとあって、女生徒からも密かに人気があるのをわたしは知っている。
ただ、ルーカスは少し喜怒哀楽の表情に乏しいところがあって、ポーカーフェイスの内面で何を考えているのかわからないと言われることが多かった。
ちなみにルーカスとわたしは、常に成績首位の座を争っている。書庫で古くても貴重な資料を探しては、一緒に読むのがわたしたちの楽しみだった。
「わたし、第三王子殿下との婚約をどうしても破棄したいの」
明るい陽光差し込む窓辺の椅子に座っていたルーカスに近づいて、ここまで抑えていた気持ちを、堪らなくなって訴えた。
「……ようやくか」
「ずっとルーカスは、良くは思っていなかったわよね。とはいえ、相手は王家だし。こっちからは破棄できないわ。どうしたらいいと思う?」
「嫌われる」
「嫌われてるわよ、すでに。もう最近はわたしからも話しかけないから。だって、わたしも嫌いだもの」
「他の女を紹介する」
「その女性が不憫よね。あ、でもそういえば、紹介も何も、最近は男爵家の令嬢と仲良くなっているみたいよ。さっき直接見てきたわ。堂々と、人目もはばからず、すごく近い距離で楽しそうに過ごしていたわ」
「だったらあとは、待っていればいい」
「それでうまくいくと思う? それにもしかしたらあの子も、被害者かもしれないわ。誘われて、断れないだけとか。一度話を聞いてみようかしら」
そうは見えなかったけれど、可能性はあるのかもしれない。
わたしがぶつぶつ言っていると、ルーカスは手に持っていた本に視線を戻しながら、やれやれと呆れたように息をついた。
「きみはお人よしだな」
◇ ◇ ◇
俺にとって、リネーアはただの幼馴染ではなかった。
互いに侯爵位を持つ父たちが政治的に近い立場にいるということで、王立学園に入学する前から、年に数度、お互いの家を行き来することがあった。
彼女を強烈に意識しだしたのが、王立学園に入学してすぐの頃だ。
親しみやすいとはとてもいえないこの性格もあってか、周りの生徒たちには距離を置かれていた。「あいつは暗い」「あいつには友達がいない」という、幼さゆえのストレートな言葉に、傷つかないわけではなかった。
生物学の授業で、一人きりで一心不乱に蝶やさなぎをスケッチしていたら、リネーアにひょいと覗き込まれた。
俺はスケッチだけでなく、それぞれの特徴を詳細に文字で記録していた。彼女はそれを見て、目を丸くして言ったのだ。
「絵も上手だし、説明もすっごくわかりやすい! ルーカスって、すごいわね!」
きらきらと目を輝かせて褒められて、その時はあわててスケッチに覆いかぶさるようにして、彼女の視線から逃げてしまった。
それからずっと。俺にとって、リネーアはただの幼馴染ではない。
もちろん、いずれは婚約を申し込むつもりでいた。無理強いはしたくなかったから、大人になり、彼女が自分の意思でイエスかノーを言ってくれる時がきたらと思っていた。
それなのに半年前。リネーアが第三王子の婚約者に決まったと、父から聞かされたときの衝撃は、今でも鮮明に覚えている。
よりにもよって、あの男と? 第三王子とは同じ学年だが、王立学園の入学当初から、俺に陰険な悪口を言い続けた男だ。自分より成績が優秀であったことが、気にくわなかったらしい。
宰相である父には、全力で抗議した。
「第三王子殿下と一緒になって、リネーアが幸せになるとは思えません」
「国王陛下の決定なさったことだ。ヒュームは望んではいなかった」
ヒュームというのは、リネーアの父だ。リネーアのことを溺愛していたから、こんな唐突に、あんな男の婚約者になるということを、快諾したはずはない。
「ヒュームは、お前と一緒にするつもりだったと言った」
「…………」
「国王陛下も、結局は我が子を見捨てられないのだ。賢くないのはわかっているから、後ろ盾があり、聡いリネーアを所望された」
俺は顔面を蒼白にして、唇を噛む。
父はその様子に気がついて、うっすらと笑みを浮かべた。
「ルーカス、冷静になれ。よく考えて、行動しろ。私もヒュームも、お前を信頼している」
それで、俺は決意していた。
あの第三王子のことだ。間違ってもリネーアが、好きになることはない。
それでも責務からか、耐えて努力するリネーアに、「それほどの価値があるか?」と言ったこともある。彼女は苦笑していたが、責任なんてさっさと放棄してほしかった。
半年程して、リネーアがやっとあの男に見切りをつけた。
「わたし、第三王子殿下との婚約をどうしても破棄したいの」
ようやくそう言ってくれたことに内心でほっとして、「待っていればいい」と俺は言った。
それより少し前、男爵家の令嬢が、あの男の周りをうろうろするようになった。
普通なら、軽はずみな行動は控えるようにと注意するところだが、俺は逆の行動をとった。
同じ授業に出席した際、名前も知らないその女に話しかけた。
「最近、きみは第三王子殿下と仲が良いね」
「……何でしょう? もしかしてお説教ですか?」
「いや。きみのほうが第三王子殿下とお似合いだと思って。第三王子殿下も、婚約者よりもきみが好きなんだろう。態度がまるで違う」
「……やっぱりそう思いますか? でも、二人は婚約しているし――」
「私のために、婚約を破棄してとお願いしてみたらどうかな? あなたがいなくては生きていけないと、きみのような美人に言われたら、大抵の男は陥落する」
俺の言葉に気を良くしたらしい男爵家の令嬢は、嬉しそうに頷いた。いかにも「すべての男は自分を好きになる」という自信に満ちた表情で、俺は内心でうんざりした。
確かに、彼女に惚れた生徒たちが「芸術品」と呼ぶくらいの美人だが、賢さはあの男と同じ程度だ。
こんな女ですらも、リネーアは心配していた。まったく、どこまでお人好しなんだ。
◇ ◇ ◇
あの男爵家の令嬢と、わたしは教室で鉢合わせた。丁度良い機会だと、わたしは声をかける。
「少しよろしいかしら」
「……何ですか?」
警戒されないように、なるべく穏やかな声で話しかけたのだが、彼女はそうではなかった。わたしに向ける視線は敵意ありありだ。
「あなた、第三王子殿下がお好きなの?」
「その質問に、答える必要がありますか?」
「……答えたくないのなら、いいわ」
彼女は端整な顔を歪めて笑った。
「第三王子殿下は、わたしのほうが美人で、可愛いって言ってくださるの。リネーア様は、可愛げがないって」
心がすうっと冷めていくのがわかる。
「……そう。あなたのためにひとつ忠告したいのだけれど、良いかしら」
「何ですか」
「第三王子殿下とは距離を置いたほうが良いと思うわ。あとであなたが困ることになると思うから」
わたしなりの精一杯の優しさだ。あんな男とは、離れたほうが身のためなのだ。これほどの美人ならば、他に良い男性がいくらでもいるだろう。
「嫉妬ですか?」
「…………」
わたしは顔から表情を失って、くるりときびすを返した。心底ばかばかしくなった。
その後すぐに、わたしは第三王子から呼び出しを受けた。あの、中庭にあるガゼボで、かなりきつい目つきで睨まれた。
「彼女をいじめたらしいな」
「……いじめた? わたしは彼女のためを思って、忠告しただけです」
「目に余るようなら、お前との婚約は破棄するからな」
是非、お願いしたい。
でもわたしはもう、一秒だってこの男と話をしたくなくて、礼儀正しくスカートの裾を持ち上げて膝を軽く曲げると、その場を後にした。
それから王立学園で、わたしの悪評が広がっていった。
やっていないことをどんどん積み重ねられて、友人たちも心配しながらも困惑しているようだった。
本当に親しい友人は、わたしがそんなことをするはずがないと信じてくれたが、わたしは本当にうんざりした。だって「悪役令嬢」という言葉まで、わたし本人の耳に届いてきたのだ。
わたしが嫉妬にかられて彼女にいじわるをしていると、どこをどう見たらそんなことになるのだろうか。わたしはあの男に、恋愛感情などみじんも抱いていない。わたしが明らかに距離をとっているのが、なぜわからないのだろうか。
でもわたしは、噂を否定しなかった。「悪役令嬢」のままで結構だ。むしろ噂が広がってほしいとすら思うようになった。
わたしはあの男が言ったように、「目に余る」ことで、婚約が破棄になるのを待ち望んでいた。
◇ ◇ ◇
そしてついにその日はきた。
王立学園主催の舞踏会で、彼女をパートナーとして選んだ第三王子は、わたしに宣言した。
「彼女をいじめるお前のような意地の悪い女と、結婚などできない。婚約は今日で破棄する」
あえてこの場所で言うのか。衆目に晒すという行為が、二人の性格の悪さを際立たせているとわたしは思った。
けれどおそらくは二人の予想に反して、わたしは今まで向けたことのない満面の笑みを浮かべて返答する。
「かしこまりました。第三王子殿下、ありがとうございます」
「……ありがとうございます、だと?」
「この婚約は、わたしのほうからは破棄できないものでした。ですがようやく、望みが叶います。これだけの証人がいるのですから、覆ることももうないでしょう。この機会に、わたしは隣国へ留学しようと思います。それでは、ごきげんよう」
わたしはこれ以上ないくらい丁寧に、礼儀正しくスカートの裾を持ち上げて膝を曲げた。
挨拶を終えると、くるりときびすを返し、胸を張って会場から去った。
建物の外では、ルーカスが待っていてくれた。
「いいのか? 何も言い返さなくて」
わたしはあの二人の今後を想像して、冷ややかに笑った。
「いいのよ。道理がわからない人に、親切に教えてあげるほど、わたしは優しくはないの」
「確かにあの二人なら、すぐに自滅するだろうな。そうなっても、誰からも助けて貰えないのは明白だ」
「ええ、そう思うわ。わかる人にはわかる。だからどうでもいいの。そんなことより」
わたしは子供のように、胸の前で両手の拳を握った。嬉しさを全身で表現する。
「留学よ! やっと実現できるわ!」
無事に婚約が破棄になったら、第三王子の顔を見なくていいように、しばらく留学しようと提案してくれたのはルーカスだ。その時はルーカスも一緒だと言ってくれた。
わたしは自分の前に広がった未来に、本当に久しぶりに心が躍った。
◇ ◇ ◇
一緒に隣国へ留学しようと俺が誘ったとき、リネーアはきらきらと目を輝かせた。新しい場所、新しい人や知識との出会いを喜ぶリネーア。そういうところも昔から好きだった。
新しい生活のための準備は多いが、何よりもまず、やることがあった。
「留学の前にリネーア、俺と婚約してくれないか」
「……は?」
訪ねていったリューブラント家の応接室で、俺の正面のソファに座ったリネーアは、口を半開きにしてぽかんとしていた。
隣国で、悪い虫がつかないとも限らない。俺が側について守れば、絡んでくる大概の男は排除できる。だがまた、王子だの何だのが出てきたら困る。
「俺は、賢い女性に側にいてほしい」
「……ルーカスは昔もそう言っていたわね。隣にいるなら、賢い女性が良いって。賢くあるために、努力する人が良いって。そうやって内面を見てくれるのは、素敵だと思ったわ」
でも、とリネーアは表情を曇らせる。
「賢い女性なら、いくらでもいるわ。わたしじゃなくても」
リネーアの不満そうな声に、俺は自分が間違った申し出をしたことを悟る。
それでよく考えて、もう一度言い直した。
「リネーア、ずっと前から、きみが好きだ。きみは努力をする、賢い人だ。これからも側にいてほしい。俺と婚約してくれ」
そうするとリネーアは、飛びつくように俺に抱きついてきた。
彼女の甘い香りに、頭がくらくらした。俺は壊れものに触れるように、そっと彼女に腕を回す。
「ルーカス、わたしも、あなたが好きよ。あなたと一緒にいると落ち着くし、いろんなことを話せるから楽しいの」
「……だったら、答えは、イエス?」
「もちろんよ! 嬉しい!」
長い片思いが、ようやく実った瞬間だった。たとえようのない喜びで、胸が苦しいくらいだった。
リネーアがそっと体を離す。鼻と鼻が触れ合う距離で見つめ合えば、リネーアがくすりと笑って、俺のメガネの銀色のフレームをつんとつついた。
「これ、似合ってて好きだけど。少しだけ、邪魔ね」
心が満たされてゆく幸せに酔いそうになりながら、俺はメガネに手をかけてそれを外すと、サイドテーブルに置く。
「見えないから、もっと近くに」
そう言いながら、俺はリネーアをもう一度抱き寄せ、うっすらと赤くなった彼女のなめらかな頬に、静かに唇を寄せた。
(THE END)