根本明音の場合 (2)
昼前だった。
リビングのソファーに座り、テレビを見ながらそろそろ動き出そうとしていたとき。
電話が鳴った。
出たのは母親だった。
受け答えの反応からして、保険のセールスだと思っていると、母親の口調が次第に重くなっていくのが目に見えて伝わってきた。
様子が変だと気づき、母親の様子を伺ったとき、顔色が見るからに青ざめていくのが見て取れた。
「どうしたの?」
通話を終え、受話器を置いた母親は黙って固まって、電話をじっと眺めていたのでつい聞いてみた。
そこで弟が事故に遭ったと聞いた。
連絡は救急搬送された病院から。
母親の話では、看護師から「急いでください」と言われたらしく、私たちは用意もままならないまま、病院へと向かった。
弟が事故に遭ったとなると、彼女も、と不安があった。
そこで以前、教えてもらっていた彼女の番号にかけてみた。
すると、彼女は通話に出てくれた。
彼女は事情をまだ知らなかったらしい。
まだ弟のことを知らない彼女に、すべてを話すのは酷なんだと痛感しながらも、わかっていることを伝えた。
すごいな、と思った。
動揺しない彼女に。
ううん。無理をしている彼女に。
病院に着く直前で、私の意識も動揺していたけれど、それは強く伝わってきた。
着いたのは診察室でも病室でもなく、霊安室。
そこに弟はいた。
眠っていた。
母親は弟に駆け寄ると、名前を叫び、父の肩を揺らしていた。
周りのことを気にもせず。
私は…… 動けなかった。
顔を包帯で巻かれていても、心電図などの機械もすべて外された弟。
もう“人”としての扱いを終えてしまった姿を、呆然と眺めていた。
ベッドのそばに寄っても、体が何かに縛られたみたいに動けなかった。
あるいは、まだ頭が混乱していたのかもしれない。
どこか、ドラマや映画の一場面のような、冷静さがあった。
両親は私と違い、見るからに混乱していた。
ともに弟の名前を声にし、父は目を覚まさない弟を叱咤するように叫び、母は「起きて」と小さな子供を起こすように声をかけ、頭を撫でていた。
このままじゃ二人は壊れていく。
素直にそう感じてしまった。
だから、私はしっかりしなければ、と。
どれぐらい時間が経っていたのかはわからない。
けれど、両親の気持ちが落ち着きだしていたから、それなりの時間が経っていたのだと思う。
そのときである。
彼女が現れたのは。
きっとこんな形で会うつもりはなかったはず。
彼女はとてもオシャレをしていたから。
本当ならば、二人で楽しい時間をすごそうとしていたであろうから、その気持ちは計り知れなかった。
弟の姿を見つけたときの、驚きの表情はどうしても離れることはない。
素直に申しわけない。
ごめんね、と謝りたかった。
こんなことになってしまって、本当にごめん、と謝りたかった。
このとき、両親は彼女が現れたことに気づいたのかもわからない。
落ち着きを取り戻したように見えて、まだ周りに目を配る余裕はなかったのかもしれない。
だからこそ、私はしっかりしないといけない。
変な使命感が全身を縛りつけ、支配していた。
私は悲しんじゃいけないんだ、と。
扉付近で立ち竦む彼女に場所を譲り、弟の顔を見てもらおうとしたけれど、彼女はそれを拒んだ。
信じられないのはわかる。
まだ現実なんだと受け入れるのは難しいのは、私も一緒だから。