根本秀夫の場合 (3)
それからが長い時間の始まりでもあった。
葬式が終わった次の日、私たち残された家族はなかば強制的にこれまでの日常へと戻らなければいけなかった。
私たちは生きているのだから。
生きるためにはこれまでと同じように、仕事に行かなければいけない。
葬式という時間が終われば、気持ちを切り替える。
決して簡単なことではない。
大きな忘れ物を残したまま、長い旅に出るようなものである。
特に、妻の焦燥は酷かった。
息子の死を目の当たりにしてからの疲弊は酷く、ずっと心ここにあらず、といった様子が続いていた。
夜もまとも眠れていないのだろう。
夜中、寝つきが悪く、何度か目を覚まして、真っ暗な天井を眺めていると、隣でうわごとみたいに息子の名前を呼んだり、うなされていた。
そんな妻に、私は何もできないでいた。
会社に復帰した私であったけれど、どこか居心地の悪さがあった。
「大変でしたね」
様々な人が私に声をかけて下さるのだが、どれも同情の籠もった言葉であり、痛々しかったのである。
どこか、腫れ物を触るような、そんな冷たさにま似ていたのかもしれない。
もちろん、それも致し方ないことでもある。
私も立場が逆になったとき、同じように声をかけてしまっていただろう。
相手も悪気があっての行動ではない。
そして、声をかけて下さるだけでもありがたいと思わなければいけないのだ。
私が慣れなければいけない。
こうなることを予測して、仕事に来た部分もある。 私も仕事にのめり込めば、気持ちが紛れるかもしれないと考えていたのだから。
そもそも、私がそれで一歩前に踏み出せたのかは定かではないが。
まだ初七日から法要などは続いていくけれど、私はできる限り仕事に関わるようにして、気持ちを紛らわせていた。
何かに集中していれば、息子のことで悩むことはないだろうと。
逃げていたのだろう。否定はできない。
それでも、時間がすぎても気持ちは不安定のままであるのは否めなかった。
情けないものである。
私の場合、法要があるごとに、その思いは逆に強まっていた気がする。
息子がそのたびに遠くに行ってしまう寂しさに。
そんなことはいけないんだ、と理解していても、心は脆いんだと露呈した。
毎朝、仕事に行く前と、帰って来たときに、仏壇に手を合わせていたとき、その思いは強くなっていた。