根本秀夫の場合 (2)
それから数日の出来事は、あまり記憶に残っていない。
息子を自宅に連れて帰り、役所に死亡届を提出、葬儀屋との話し合い、親戚への連絡。
やるべきことは多大であったが、まるで流れ作業みたいに、上の空で動いていた。
いや、私と妻は精神的に参っていたので、そうした手続きはほとんど娘に助けてもらっていた。
娘にほぼ背負わせていた。
情けない父親である。
娘ばかりに迷惑をかけており、本当に申しわけない。
今思えば、娘がいなければ、私たちはもっと動けなかっただろう。
自暴自棄になってしまい。
それは息子が亡くなり、次の日の朝である。
日曜日の夜はお通夜で、気持ちも滅入っていたとき、覚えていたのはその日の朝刊である。
一面は政治家の不祥事事件。
これらはどうも既視感があり、見慣れた記事でしかなかった。
どうも、当事者の顔が変わるだけで、弁解の内容はほぼ同じ。
そんな印象でしかなかった。
呆然と読んでいると、見開きの左下の隅に目が留まった。
そこに息子の記事が載っていた。
記事の大きさは小さく、目を凝らさなければ気づかないほどの記事。
申しわけなさそうに載せられた記事。
こちらは命を落としているのに、政治家が優先される現実に、私は打ちひしがれていた。
ここまで格差があるのか。
息子の命の価値はそれほどなのかと。
お通夜、葬式のときの記憶は曖昧であったけれど、この記事だけはしっかりと頭に刻まれてしまった。
きっと、消えることはないだろう。
ただ、この記事があったことを、家族に告げることはなかった。
二人がすでに知っているのかはわからないが、私の口から出すことを恐れていた。
記事には、被害者である息子の名前だけでなく、加害者の名前も載せられていた。
年齢はまだ二十一歳の大学生だった。
息子と大して変わらない相手に命を奪われてしまう。
救いはすぐに逮捕されたことなのかもしれないが、それにしても理不尽である。
息子は死に、加害者は生きているのだから。
私は許すなんてことはない。
できるはずがない。
このときはそうした感情に至ることはなかった。
残された家族に知られたくないと強く思うだけで。
お通夜、葬式において記憶が曖昧であると述べたが、それでも幸いなこともあった。
それは参列者の数である。
息子の死を知り、式に訪れてくれた者が数多くおられた。
なかには私の友人や会社の同僚、妻、娘の友人らも駆けつけてくれ、本当にありがたかった。
何より、息子に縁のある方々多く訪れてくれたことには胸を撫で下ろした。
息子の会社の方々、友人と、それだけ息子に人望があったことが何よりの救いであり、嬉しかった。
それだけでも、気持ちは軽くなってくれた。