07 偽物の恋人
07 偽物の恋人
リゼットに買われてから三日が過ぎた。慣れないことは続いているが、以前の生活と比べれば私は非常に楽な生活を送れている。
スキンシップは多いが、リゼットも毎晩求めてくるわけではない。初日を除けば、添い寝だけで満足してくれている。
そもそも私が任されている仕事の計画が定まっていないので、やることがなかった。今は本格的な礼儀作法や貴族社会の情勢について学んでいるが、どこかで聞いたことのあるような知識ばかりで面白くない。
尤も、聞いたことがあるだけで頭からは抜けているので、勉強を一からやり直す必要があった。
どうやら私は、こんなときでも勉強したくないらしい。認めたくはないが、リゼットから求められている方が気が楽だった。
「ねぇレーナさん、今夜デートに行かない?仕事が残ってるから、ハンナには内緒で」
だから、こんな面倒そうなお誘いも一つ返事で承諾してしまった。しばらく自由な外出なんてできなかったものだから、ちょっぴり興奮してしまったのだ。この小さな公爵は、一体どんなデートに連れて行ってくれるのだろうかと。
流石にお古の服を使いたくはないので、娼館で貰った礼服を用意してリゼットの私室で待機する。私達が屋敷を出たのは、深夜も近くなってからのことだった。
「そろそろハンナも眠りについたでしょうし、行きましょうか」
リゼットはそう小声で呟いてから、挙動不審になって廊下へ飛び出した。
よっぽどチーフに怒られたくないのか、リゼットは使用人を口止めしながら抜き足差し足で歩いていく。そして私が連れ込まれたのは、一階の休憩室だった。
「この床下の扉を開けると、地下通路に降りれるわ」
リゼットはカーペットをめくって床についた鍵穴を回し、ガンガンと音を立てながら扉を強引に引っ張り上げた。
建て付けが悪いのかもしれないが、これではさっきまでの慎重さが台無しだ。
「わぁ、隠し通路って本当にあるんですね。秘密のデートって感じがして、ドキドキしちゃいます」
地下を除いてみると、結構深いところまで階段が続いていた。不気味な冷気も漂っているし、悪霊の一匹くらいは化けて出てきそうだ。
「確かに趣はあるわよね。ここって緊急時のための避難通路だから、ここを使ったことがバレたらタダじゃ済まないわよ、私達。最悪消されるわ」
「そんな恐ろしいものを教えないで下さいよ」
「正面口を通ったら確実にハンナまで情報が届いちゃうから、安全に遠回りするしかないわ。今日のことは二人の秘密ね」
リゼットは、安全の意味を辞書で引いた方がいいんじゃないだろうか。見つかる危険よりも、私の生命の安全を優先してほしい。
「ちょっとの夜遊びくらい、ハンナ先輩も怒らないと思いますよ。リゼット様のこと、とっても慕っているじゃないですか」
「だから嫌なのよ。ずっと迷惑ばかりかけてきたから、私のことで気苦労をかけたくないの」
チーフの仕事ぶりは、正直言って異常だ。彼女はチーフメイドとして使用人達に指示出しをしながら、リゼットの書類仕事まで手伝っている。
これ以上の気苦労をさせたくない気持ちは、とてもよくわかる。
しかし、だからといって私はリゼットに「だったら遊ぶな」と諭したりはしない。私も楽しいことは大好きだった。
「ここから出口まで二キロ近くあるから、ちょっと時間がかかるわよ」
「それならたくさんお喋りができますね」
私はランタンを受け取って、地下への扉を潜った。石造りの壁は触ると冷たくて、撫でるとすべすべしている。
個室もいくつか用意されているし、夏場はこの地下室で眠るのも悪くないかもしれない。
「あ、リゼット様!あれって蝙蝠じゃないですか、初めてみ」
「いやっ!やっ………」
ある程度歩いたところで、私は数匹の黒い影を見つけた。ランタンを持ち上げてみると、黒い羽を綺麗に閉じた蝙蝠が天井にぶら下がっているのがわかる。
絵本や読み物によく出てくる存在ではあるが、実際にこの目で見るのは初めてだった。指差してリゼットの名を呼ぶと、彼女はびびり散らして私の腕を掴んだ。
「ただぶら下がってるだけですよ。刺激しなければ降りて———こっち来んな鬱陶しい」
突如蝙蝠が襲撃してきたので、ランタンを持った手で叩き落とす。火が消えて一瞬辺りが真っ暗になり、リゼットは軽い悲鳴をあげた。
「ほら、大丈夫ですよリゼット様。私がここにいますから」
ランタンを再点火してから、軽いハグをした。本当に蝙蝠が苦手であるらしく、未だにブルブル震えている。
自分からこの通路を選んだのだから、リサーチくらいはして欲しいものだ。
「もう少しこうしてて………」
「はいはいわかりましたよー」
なんだか赤ん坊をあやしているみたいだ。オムツ替えのやり方も覚えたことだし、来世ではベビーシッターを目指してもいいかもしれない。
しかしこの人、本当にどうしようもないな。出会ったときはカリスマ感に溢れていたのに、今ではまるで無様の化身だ。まあ、私もつい一昨日に無様に泣き散らかしたんだけどね。
「じゃあそろそろ行きましょう」
「もう少し」
「駄目です、私をデートに連れていくって話だったじゃないですか」
いつまでも立ち往生するつもりはない。地下にいる限りはリゼットもこの調子だろうし、外に出る方が手っ取り早かった。
「うぅ、こんなつもりじゃなかったのに」
蹲ったリゼットを立ち上がらせると、彼女はしょげた表情でとぼとぼ歩きだした。
うじうじされるのも、そろそろ面倒だ。ここは私が、人肌脱ぐしかないかな。
「そんな弱音を吐くのはどの口ですか?ここですか、ここですね。塞いじゃいます、ちゅっちゅっ」
恥を忍んでリゼットにキスを連打する。
こういう相手の扱い方は、ロストラバースで把握済みだ。レーナの修道女キャラは、伊達だが伊達じゃない。
「………ふふっ、レーナさんってやっぱり変わってるわよね」
「唯一無二と言ってください」
こう微笑む元気があるなら、この地下を突破するまでは保ってくれるはずだ。このキス連打はリゼットも気に入ったみたいだし、二ヶ月に一回くらいの頻度で使わせて貰おう。
レーナの可愛さに震えろ。
「確かにこのムニムニしてるわね」
「お褒めいただき光栄です」
リゼットは高く背伸びをして、両手で私の頬を挟んだ。化粧だってしているのに、ぐにゅぐにゅと揉みくちゃにされる。
それからのリゼットのスキンシップは留まることを知らず、私達が地下通路を突破したのは一時間経ってからのことだった。
「何時間待たせるつもりですかお嬢様。僕だって怒るときはあるんですよ」
「ごめんねシリル。ちょっとレーナさんとのお触り………じゃなかった、お喋りが楽しくなってしまって」
「御者さんも待ってますから、さっさと行きますよ」
「はーい」
出口に着いた途端、待機していたシリル先輩が走ってやってきた。先輩はリゼットの命令で、夜の十時からこの場所で待っていたらしい。
厄介な主人を持つと、この人も大変だ。
「馬車ってどこに用意しているのかしら」
「三キロ離れたところですね」
「遠くない?」
「格好つけて隠し通路なんて使うからですよ。諦めてください」
「そ、それは言わないでよ」
地下通路は山の麓に繋がっていて、辺りは手入れされることもなく木々が生い茂っていた。今はそれほど厚着でもないし、虫に足を食われてしまいそうだ。
「そういえば先輩って食堂であまり見かけないですけど、どの時間帯にご飯食べてるんですか」
「九時くらいですかね。僕は厨房担当なので、早朝に済ませてしまう日もありますけど」
「それだと朝にお話しするのは難しそうですね。いつも美味しいご飯、ありがとうございます」
「ははっ。長い付き合いになるでしょうし、話す機会なんていくらでもありますよ」
「大丈夫、寂しいときは私が話し相手になるわ」
三キロ歩くと聞いたときは地獄かと思ったが、三人集まれば話題には困らない。適当な話をするだけで、いつの間にか私達は待合場に到着していた。
「帰りは正門から戻ってきてください。チーフはとっくに寝ていますから」
仕事が残っているらしいので、シリル先輩とはここで解散だ。夜中に山中で待たされた挙句に残業なんて、ご苦労様としか言えなかった。
「二人きりじゃなくてごめんなさいね。護衛くらいは連れて行けって、シリルに怒られてしまったのよ」
「どうして謝るんですか。こうしてデートに誘ってくれるなんて、それだけで私は嬉しくなっちゃいます」
馬車内の仕切りの先には、武装した男達が数人で座っている。向かい合うように座っているので、リゼットの言葉数は普段より少ない。窓には木製のブラインドがついているので、外の風景も見えなかった。
おまけにこの馬車は本当に揺れる。道が悪いのか、ずっと小刻みにガタガタ鳴っているのだ。すっかり忘れていたが、私は馬車酔いする体質だった。
「レーナさんはいい子よね。理想的すぎて、怖くなってしまうわ」
今日のリゼットはいつもよりナイーブさんだ。さっき無様を晒したのが、まだ堪えているのかもしれない。
鬱になられても困るので、軽くオバケのポーズを取ってみる。
「うぉー怖いだろー」
「ふふっ。そうね、うん。そうよね」
自分を納得させるように、リゼットは何度も頷いた。護衛達の前でとんでもなく馴れ馴れしい行為をしてしまったが、リゼットは好意的に受け取ってくれたみたいだ。
リゼットは私に寄り掛かって、太ももを触ってきた。寄り掛かりたいのは私の方なんだが、まあいいだろう。存分に私に依存してくれ。
「レーナさん………」
「なんですか、リゼット様」
「ふふっ、呼んだだけよ」
リゼットは私にグッと体重をかけてくる。私はこれに、どんな風なリアクションをすればいいんだろうか。
「はわわ」
これでいいか。
「レーナさんはノースハーツのこと、どう思う?」
仕切り直すように、リゼットは尋ねる。これもまた、答えに困る質問だった。
「雲の上の存在だなぁって、思ってました」
「思ってたってことは、今は違うのよね」
「はい。リゼット様は明るくて、優しくて、まるで月光みたいだなって思います」
ぽつぽつと零すのは、お世辞交じりの真実だ。いきなり褒められたのが嬉しいみたいで、リゼットはしばらく口を閉ざした。
「嬉しいわ。嬉しいけど………私が聞きたいことはそうじゃないのよ。この街、延いてはノースハーツという貴族についてどう思ってるのかを知りたいの」
それから数分して、再び話し始める。その内容は、あまり明言したい話題ではなかった。
適当に讃えることは簡単だが、政治思想についての嘘は、繰り返せばいつか必ずボロが出る。ここは本筋をボカして、リゼットをべた褒めするしかない。
「そうですね、色々と複雑な気持ちはありますけど———」
「レーナさん、わざと避けたでしょ」
話を誤魔化しにいこうとした途端、リゼットは鋭く指摘した。
出会ったときからそうだが、この人はやけに勘がいい。
「あはは、バレちゃいましたか。でも、リゼット様のことが好きって気持ちは本当ですよ」
私は奴隷、ノースハーツはその運営。ここまで踏み込まれてしまったのなら、いい印象を持っていないことを素直に吐露した方がいい。
ただの嘘つきだと思われてしまったら、お終いだから。
「………もう。駄目ね、レーナさんは。そんなにバレバレじゃ、大事な仕事は任せられないわよ」
張り付いたような笑顔。それは、格下の奴隷に向けるようなものではなかった。
軽口のようではあるが、明らかに落ち込んでいる。さっさと励まそうと口を開くと、馬車が大きく揺れて、私の言葉が掻き消された。
「着いたわね!」
その瞬間に、リゼットは扉を開いて外へと駆け出した。なんだ、元気じゃないか。
馬車酔いでまだ気持ち悪いが、変に気取られるとまた過度に心配される。私はすぐにリゼットの後を追って、暗い草原に足を踏み入れた。
もう寒くなる季節だし、夜の屋外はドレス一着だと厳しいところがある。さて、リゼットは一体どんなものを見せてくれるのだろうか。
「ノースハーツ最北の山脈、エムリス山脈の隠れた名所。メルキデス展望台よ」
夜のノースハーツを背景に、リゼットは大きく腕を開いた。高所からだと、その都市部の異常な明るさが目に見えてわかる。
「とっても、明るいですね」
「でしょ?王都の明るさだって凌ぐわ。奴隷と夜の街、それがノースハーツだからね」
リゼットは野晒しのベンチの上で、空いたスペースをトントンと叩いた。私は誘われるがままに隣に座り、一緒に夜景を眺める。
規則的に並んだガス灯は街と街を繋いでいて、まるで運河のようだった。
「突然偉くなってしまったけれど、私には領地としての義務があるわ。それに、私がやりたいのよ。この街を発展させたいし、もっと明るくさせたい」
リゼットは、しわくちゃになるくらいに服の裾を握りしめていた。震える声には、強い力が込められている。
前向きな姿勢は、素直に尊敬できると思った。
「どんな場所より汚いないのに、一番輝いているの。こんな美しい景色を見てしまったら、嫌なものも嫌いになれなくなってしまうわ」
私は奴隷だが、そうなった要因はノースハーツと関係がない。ああやって人間を物として扱う在り方は不快だが、私にこの街を憎悪する理由なんてなかった。
高く月が上っている。けれど、満天の星よりも綺麗な光景がここにはあった。
「レーナさん、私」
少女は、言葉を詰まらせる。
「私ね、好きになってしまったわ。それじゃ駄目なのに、思いが止められないの」
告白されたのかと思った。しかし、リゼットの視線は依然として街に向いている。
「確かに美しい景色です。リゼット様は領主になったんですから、自領を好きになるのはいいことですよ」
彼女も思うところがあるのだろう。ノースハーツは頭から爪先まで真っ黒で、綺麗なところなんてない。
でもどうせ逃げられないのなら、その暗闇ごと愛してしまうのが一番なのではないだろうか。
そう思って、私は肩を寄せ返した。
「おバカさん。もし揶揄っているのなら、とんでもない策士ね」
するとリゼットは、呆れたように笑う。
「わかるでしょ。私、恋に落ちてしまったわ」
強く手を握られた。それから、ゆっくりと顔を近づけてくる。
随分と、突然だ。私はまだ、リゼットをここまで本気にさせるようなことは何もしていない。
「付き合って。ちゃんとした恋愛がしたいの」
キスされそうな気配を感じて、私は先に唇を塞ぐ。焦ったくて、待っているのに飽きてしまったのだ。
「私も好きですよ、リゼット様のこと」
順序が逆になってしまったが、言葉で告白を受け入れる。彼女の手は冷たくて、それから耳が赤かった。
ノースハーツ公爵だからと、身構えすぎていたのかもしれない。
この人は、少し権力を持っているだけの、ただの歳下の女の子だ。まるで妹に接するように、私が引っ張ってあげればいい。
「実はね、もっとちゃんとしたプランがあったの。あのね、本当はね、花を渡したかったのよ。でも渡したかった花が季節じゃなくてね。それまで待つのはちょっと、我慢できなかったの」
恥ずかしくなったのか、リゼットは早口でどうでもいいことを捲し立てる。
夜の街を遊び歩くようなデートを期待していたところはあるが、こういう高いところからの景色は嫌いじゃない。それなりに成功しているんだから、変な言い訳をしなければいいのになと私は思った。
「なら、冬になったらまた来ましょう。ちょっと寒くなりますけど、雪景色なんてロマンチックですし」
「そう言って貰えると助かるわ」
変に落ち込まれても困るし、私はさっさとリゼットを慰めた。冬デートの確約だ。
これなら名分を持って、リゼットに新しい服を強請れる。これでやっと、リゼット母のお下がりから卒業できるぜ。
「ねぇ、どうして冬なの」
リゼットの思いついたような質問に、私は凍りついた。無意識の発言だったが、別にリゼットは渡したかった花が冬に咲くとは明言していない。
あーもう、私ってなんでこう失言が多いのだろうか。
「えーと、リゼット様が渡したい花なら、スノードロップかなぁと思いまして。もしかして、間違っちゃいましたか」
「いいえ、正解よ。すごいのね、レーナさんは。私のことを、何でもわかってくれる」
「何でもはわかりませんよ。ただ、リゼット様の気持ちに応えたいだけです。これからずっと、一緒ですからね」
ふぅ、ギリギリセーフ。いや、もしかして気を遣っただけかも………?
リゼットは笑みを浮かべてこそいるが、どうにも元気がなかった。
「………させるから」
リゼットは私の熱光線から目を逸らして、何かボソリと呟いた。最初の言葉を聞き逃してしまって、私は一度聞き返す。
「今、なんて」
「絶対、もっと好きにさせてみせるから」
顔を背けられたまま、泣くように宣言された。
「今はその言葉で、満足してあげる」
その言葉にどんな感情が込められているのか、私にはまるでわからない。でも、決意だけは感じられた。
「これから、よろしくお願いしますね」
「ええ、もちろんよ」
私が微笑むと、リゼットは尊大に頷いた。それが面白くて、つい声を出して笑ってしまう。
そうしたらリゼットも笑い始めて、それが少しだけ心地よかった。
次回から話のテイストが変わるので、章を区切ります。
明日か明後日か一週間後までには続きを載せたいなぁ。