表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
愛玩奴隷も楽じゃない!  作者: 猪口レタス
一章 リゼットの傾慕
5/24

05 最初の朝

05 最初の朝


 床に座ってから両脚を大きく開いて、手をお尻の後ろに持っていく。そのまま身体を大きく逸らして、ゆらゆら左右に動かした。

 次は両手を前について、ゆっくり身体を前方に倒していく。そして、大きく深呼吸。

 寝てばかりいるのは体に悪い。毎日の運動は、私が自分に課している数少ないルールの一つだった。


(新しい目標を決めないとね)


 どう足掻こうと、私はリゼットに飼い殺される運命だ。ここには安息と窒息の二択しか残されていない。市民に復帰するのは絶望的だ。

 幸いなことに、リゼットは私に対して温い対応しかしていない。第三王子云々の話は気がかりだが、このままいけばリゼットの愛玩奴隷として納得できる人生を送れる。

 それなりに、満足はできるはずだ。


(リゼットの愛妾になる。当面の目標はこれですね)


 年齢差がそれなりにあるのだから、肉体面で愛されている現状は楽観視できない。

 ノースハーツの地勢も安心できないし、私は早急に安定した地位を勝ち取る必要があった。


「じー」


 朝のストレッチをしていると、いつの間に起きたのかリゼットがベッドの上から私を眺めている。構って欲しいのか、わざとらしく口で擬音を発していた。


「おはようございますリゼット様!今日はいい天気ですね、洗濯物がよく乾きそうです」

「確かにいい天気ねー。おはようレーナさーん」


 限界まで倒した身体を無理矢理持ち上げて、私はリゼットに向き直った。彼女は寝癖をとかしながら、壁にもたれかかっている。恥ずかし気もなく大口で欠伸をする姿は、公爵家の人間とはまるで思えなかった。


「朝からストレッチなんて真面目じゃない。美の秘訣ってやつかしら」

「ただの健康法ですよ。室内にこもりきりだと運動不足になっちゃいますからね。よかったらリゼット様も一緒にどうですか?色々サービスしますよ」

「遠慮しとくわ。朝から動く気分になんてなれないもの」


 そう言ってリゼットは、半裸のまま立ち上がって部屋の外へ歩いていく。この人は、一体どこに恥じらいを置いてきてしまったのだろうか。


「リゼット様、私もついて行っていいですか」

「ん?あー、そうね。来て頂戴」


 半裸のまま行くところといったら、浴室くらいしか思いつかない。それなら私もついて行こうとリゼットの手を取ると、扉を出た先で私達はチーフメイドに出くわした。

 我を忘れて野球拳をしたのが昨日の今日の出来事なので、こうして顔を合わせることに若干の気まずさを覚えてしまう。当たり前の話だが、彼女も真っ当に仕事をしているのだ。


「おはようございますお嬢様。レーナさん。バロン様からもすでにご連絡があったとは思いますが、本日は十三時より商会の幹部会に招かれております。会議の遅滞が予想されるので、差し迫った職務はお済ませいただけると幸いです」


 チーフはスカートを軽く持ち上げて、リゼットに頭を下げる。それから私にも軽く頭を下げて、リゼットに向かい合った。

 雑談をするような空気でもないので、私も会釈を返してみる。チーフは仏頂面のままだが、それでもウインクを送ってくれた。よかった、ちょっとは仲良くなれたみたいだ。


「ええ。じゃあ、昼食は早めに用意して頂戴。あと、今からお風呂に入るから、レーナさんと私の分の着替えも用意しておいて。お母様の部屋になら丁度いいものがあるはずよ」

「かしこまりました」


 早足で去っていくチーフを追うようにして、私達も一階へ降りていく。意外と人の数が多く、メイド達がすれ違う度に挨拶してくるので、こうして歩くだけでも気後れしてしまうところがあった。

 昨日は暗くてよく分からなかったが、この館は一家族が住むにしては贅沢が過ぎる。私が働いてきた娼館よりも広いし、天井は馬鹿みたいに高い。窓なんかは大きすぎて窮屈さを感じてしまうほどだ。


「みんな笑顔でいいですね。リゼット様が、奴隷を大切に扱っているというのがわかります」


 しかし、この館は見事に女の奴隷しかいない。顔も整っているし、リゼットの女好きも大概だ。

 館の門前では男の警備員も見かけた記憶があるが、こちらには影ひとつなかった。メイド達は揃いも揃って手首に黒い刺青を入れているし、安価な戦争捕虜ばかりが使われているみたいだ。

 普通、家格の高い貴族は教養のある人物を雇うものだが、リゼットは何のつもりで使用人を配置しているのだろうか。


「………昨日のことは、ごめんなさいね。ちょっと魔がさしたのよ。あんまり抵抗しないから、加減がわからなくなってしまって」

「もう、変な勘違いしないでください。嫌だったらチーフさんと野球拳なんてしませんよ」

「ほんと?冗談じゃないわよね。レーナさんに嫌われてしまったら、私きっと泣いてしまうわ」


 リゼットの考えを遠回しに聞こうとしたつもりが、嫌味と取られてしまったようだ。表情を曇らせて、私に追い縋ってくる。

 まったく、どこまで本気なのやら。人間として扱っているのなら、いきなり脱がせてきたりしないはずだが。

 この人はどうにも掴みどころがなくて話しづらい。本当に、ただの子供と話しているように思えてしまう。


「勿論です。私が言いたかったのは、リゼット様が奴隷のことを信用しているんだってことですよ。ほら、貴族社会は使用人の質一つで色んな風聞が広まったりじゃないですか。それでも奴隷に浴室まで利用させるなんて、懐が深いなって思ったんです」

「褒めたって何も出ないわよ。奴隷を使用人にするのがノースハーツの伝統ってだけなんだから。私個人で上手くやっていることなんて、何一つないのよ」


 リゼットはふと、私の傍にある階段の手すりに視線を向ける。私も釣られるように視線を移すと、そこにはスノードロップの模様が刻まれていた。

 極寒の土地でも咲き誇るこの花は、ノースハーツの家紋に選ばれていた記憶がある。特になんというわけでもなかったが、閉じた花びらが綺麗だと思った。


「使用人として奴隷を使うことはね、奴隷の品質証明なのよ。公爵家自らが広告塔になって、商売を活性化させようって話ね。なまじ歴史のある家だから、小噺としても有名なのよこれ」

「カッコいいです!」


 リゼットは私の頭に触れて、ごしごしと撫でてきた。褒められたのが嬉しかったらしい。


「レーナさんは、昨日ここの浴室は使ったのよね」

「はい。先輩方が手取り足取り教えてくださったので、不都合はありませんでした」


 私達はようやく、浴室に到着した。昨日は使用人達でぎゅうぎゅう詰めだったのに、今はそれが嘘みたいに誰もいない。


「じゃあ、大体のことは説明しなくてもわかるわね!服はここに置いて、浴室に入ったらまずお湯を身体にかけるの。それから石鹸で——」


 教えてもらったと言っているのに、リゼットは一々浴室のルールを説明してくる。どうしても役人風を吹かせたいみたいだ。

 反響するリゼットの声を聞きながら服を脱いでいく。こういうのは先に主人の服を脱がせるものなのかもしれないが、元から彼女は脱いでいたので私が出る幕もなかった。


「なんだか、レーナさんっていつも裸でいる気がするわ」


 失敬な。貴女が脱がせてくるんでしょうが。


「それが私の仕事ですから」

「まあ、可哀想なレーナさん。私が昔のことなんて忘れさせてあげるわよ」


 リゼットに引っ張られながら、私は浴室に足を踏み入れた。

 私は言われるがままに大鏡の前へ移動し、リゼットの髪や身体を洗っていく。流石に高級品らしく、私が昨日貸してもらったものよりも滑らかでいい匂いがした。まるで摩擦がなくなったみたいで、簡単に洗うことができる。


「リゼット様、この腕の——」


 泡立てた石鹸で左腕を撫でると、肘から下のあたりに僅かな凹凸があることに気がついた。昨日は部屋が暗かったせいで見えなかったが、リゼットの腕には出来物というか、傷のようなものがある。

 どうにも見覚えのある痕だった。娼館で働いていたとき、こんな傷で腕を汚している娼婦を見かけたことがある。


「この腕の下側の部分ってなんて名前なんでしょうか。脇腹とか手の甲とか、そんな感じの名前があると思うんですよね、私」


 まあいいかと、心の中で勝手に納得する。我ながら話題転換に無理があると思うが、雑談なんて雑でいい。


「二の腕じゃないかしら」


 リゼットは寸秒考えてから、はっと閃いたように私に笑顔を向けた。

 残念、そこは一の腕だ。


「それじゃあ、そろそろお風呂に入りましょうか」


 念願のお風呂だ。昨日は呼び出しを食らっていたせいでまともに入れなかったし、せっかくなら楽しんでおこう。

 いやしかし、お風呂はいい。リゼットのスキンシップにさえ目を瞑れば、本当にリラックスできる。しかも娼館と違って極端な時間制限がないし、ちゃんと温かい湯に入れるのは最高だ。


「気に入った?」

「はい、夢見心地です」

「ふふっ、よかったわ」


 いつの間にか私は、立場も忘れてだらんと足を伸ばしていた。壁際に座ってしまったせいで、つい寄りかかりたくなってしまう。

 まずいな、寝てしまいそうだ。


「先に、上がってもよろしいでしょうか」

「水臭いこと言わずに、一緒に行きましょう?」


 湯から出た瞬間に、唐突な目眩が私を襲った。一気に立ち上がったせいだろう。よろめきながら石畳を踏むと、リゼットに身体を受け止められる。


「申し訳ございません、リゼット様。少々、目眩が………もう収まってきたので、お気になさらないで下さい」

「のぼせてしまったみたいね。ハンナ、ちょっと来てくれるかしら!」

「本当に、大丈夫ですよ」


 頭痛はするが、動けないわけでもない。リゼットを引き止めようと腕を掴んでみたが、かえって心配させてしまいチーフまで呼ばれてしまった。

 チーフはすぐに飛んできて、それから数人のメイド達がぞろぞろ集まってくる。これはもう、収拾がつかなそうだ。

 

「お呼びでしょうか、お嬢様」

「ええ、お呼びよ。レーナさんがのぼせてしまったから、水を持ってきて欲しいの」

「かしこまりました」

「すみません、少し湯あたりしてしまったみたいです。もう回復したので、お気になさらないで下さい」


 とりあえず口ではそう言ってみるが、今更何を言ったって状況は変わらない。リゼットは過度に心配してくるし、チーフは他のメイドに指示を出し出し始めている。

 ちょっとふらついただけなのに、なんだってこんなことに。


「立てますか、レーナさん」

「はい。ありがとうございます」


 昨日のハイテンションなチーフを見た後だと、こう無表情で助けられるのは怖い。せめて迷惑をかけまいと一人で歩こうとすると、「勝手なことはやめて下さい」と耳打ちされた。

 ひーっ、怖い怖い。

 あれよあれよと言う間に私は休憩室に連れていかれ、私はベッドで休めと命じられた。


「落ち着いたら、執務室に来てね」


 リゼットは横になった私の額にキスをして、たったったと帰っていく。執務室ってどこだよと思ったが、使用人に聞けば済む話なので私はそのまま見送った。


「愛されていますね」


 シリル先輩が、水を入れたコップをこっちに持ってくる。わざわざ私のために用意してくれたのか、向かいの机には朝食まで置いてあった。

 どうやら私の面倒をみるようにチーフに言われたらしい。


「そう、みたいです。奴隷の私にこんなによくしてくれるなんて、リゼット様は素晴らしい方ですね」

「………本当にそう思ってますか?ただの湯あたりで別室まで運び込まれたら、僕なら愚痴の一つでも溢したくなりますが」

「そんなことはありませんよ。人間として心配されるのは久しぶりで、正直なところ嬉しかったんです。だからこそ、これ以上の迷惑をかけるつもりはありませんけどね」


 自然な笑みを浮かべたつもりだったが、先輩は私の本心を見透かすように言葉を漏らした。私が否定してみても、訝しげな表情は治る気配がない。主人に不満でもあるのだろうか。

 私は起き上がってコップを受け取り、そのままぐいっと一気飲みしてみせた。


「ありがとうございました先輩!もう元気になったので、リゼット様のところに行ってきますね」

「まあ、待ってくださいよ。休めと命じられてしまったんですから、一旦お話でもしませんか?昨日は僕が喋りっぱなしでしたから、レーナさんのお話も聞きたいです。前の暮らしとか」


 空気が悪くなる前に話を切り上げると、先輩は嗜めるようにしてベッドの脇に座った。こうして横に並ばれると、改めて身長差を実感する。

 リゼットはまだ娼館に入り浸っても許せるような見た目をしていたが、先輩は最早ただの子供だ。それなのに使用人として働けているあたり、よっぽど良い教育を受けているらしい。

 リゼットは庶子の受け入れに抵抗があるようだったが、彼はどこからやってきたのだろうか。


「私の身の上話なんて、薄暗くてげんなりするものばかりですよ」

「ははっ、奴隷なら誰だってそうでしょう。重みは違えど、嫌な過去の一つや二つはみんな持ってますよ。無理にとは言いませんが、今後のためにも聞かせてほしいんです。辛い過去でも、共有すれば気が楽になるでしょうから」


 先輩は柔和な表情で詰め寄ってくる。

 ただの好奇心で聞いてきているのかもしれないが、できれば避けたい話題だった。


「辛い過去なんてものはありませんよ。私自身は、奴隷にしては恵まれた生活を送ってきましたから。ただ、娼婦として働いてきたので、先輩の耳を汚しまうことになりそうで嫌なんです」

「………それは、僕もお嬢様から聞いています。だからこそ、ちょっと気になることがありまして」


 先輩は、ぽつりと神妙に呟いた。


「気になること、ですか」


 私の視線は自然と、右手首に刻まれてしまった刺青に向く。

 一本引かれれば尊厳を失い、二本引かれれば自由を失う。私の手首に入れられた二重の線は、犯罪者として奴隷刑を受けた証だった。その狭間に小さく刻まれた整理番号は、私の人生に取り返しがつかないことを示している。

 たとえ私が解放奴隷になっても、この刺青は消えない。そう思うと少し、虚しくなった。

 犯罪歴のある人間なんて簡単には信頼されないし、先輩だって気にするだろう。さて、どう説明しようか。


「はい。女同士でどうやって恋愛してるのかなって。やっぱり装着するんですか、腰に」

「………?」


 ???


「どうにも疑問なんですよね。ほら、だって子供を作れるわけではないでしょう?どういう気持ちなのかなって」


 先輩は、いたって真剣そうだった。ふざけたり、茶化したりしているにしてはテンションが低すぎる。

 なるほど、なるほど?

 いきなり下ネタをぶっこまれたのは驚きだが、いくら聡明でも先輩はまだ子供だ。そういう話に興味を持つのは不思議でもないし、リゼットに求められる不安もあるだろう。

 ここは私が、心構え的なものを教えてあげた方がいいかもしれない。そういった行為がトラウマになってしまう人も多いらしいし。


「うーん、普通の恋愛と変わらないと思いますよ。一緒にいたいって気持ちに性欲が上乗せされたら、男女のそれと変わりありません」

「それもよくわかんないんですよね。そんなに気持ちいいことって大事なんですか。側にいたいなら、普通の友達でも同じなのに」


 純粋すぎる疑問に、私は舌を巻いた。私が特にリゼットを愛しているわけではないからこそ、その疑問を実体を持って感じられる。

 先輩くらいの年齢なら性欲もなさそうだし、どう説明したものか。


「大事ですよ。だって滅茶苦茶密着できますからね。私は愛を、孤独を埋める行為だと思っています。子供がテディベアを抱きしめるように、大人はパートナーを抱きしめたいんですよ。子供ができあがるのは、単なる結果です」


 経験ばかり増えてしまったが、そもそも私は恋愛をしたことがない。有識者ぶって適当ぶっこいたが、よく考えたら私が説けるような話なんてなかった。

 元からずっと、真似事だ。

 そう気がついてしまうと、どうにも息が詰まった。


「なんか、少しわかってきた気がします。やっぱり人に聞いてみるのって大事ですね」

「先輩の役に立てたなら、私も嬉しいですね」

「つまりお嬢様が娼館に何度も足を運ぶのは、孤独であるが故、ということですね」

「まあ………そうですね」


 気落ちしているところでの猥談は、心情的に中々厳しい。その対象が共通の主人で、自分自身が主役となっているのなら尚更だ。


「レーナさんは、以前の職場ではどうしていたんですか」

「おっさんに愛を振り撒いてましたね、ははっ」


 それからの雑談は、どうしても及び腰なものになっていった。となると話も自然と盛り下がっていくわけで——


「そしたらなんとマクシムの野郎からクレームが入りましてね。遊びまくっていたら、うんこが止まらなくなったと文句をつけてきたんですよ」

「うわぁ、人生の終焉だ」


 ——というのは嘘である。ロストラバースでナンバーツーだった私は、爆笑間違いなしのネタを百は持っていた。何度も口にした内容なので、びっくりするくらいにスラスラ言葉が出てくる。

 一度話し始めたら、もう止まらないぜ。


「顔真っ赤にしながらぶりぶりしていたと思うと、もう笑うしか、ふふっ、いや、失礼しました」

「むしろ笑ってやるのがせめてもの慈悲ですよ。奥さんになんて言い訳するんでしょうね」

「まあ元から体臭がキツかったですし、案外バレないんじゃないですかね。ちなみに、私はマクシムのおかげでオムツの替え方を覚えましたよ」

「嫌すぎる!」


 いやー、これは子供に話すことじゃないなぁ。

 シリル先輩のノリがいいから、私も遠慮なしに下ネタをぶちかましてしまった。失敗、失敗。


「先輩、そろそろ行きますね。あまり待たせては心配させてしまいますから」

「あ、待ってください。すっかり忘れていましたが、レーナさんを食堂で見かけなかったので、朝食を確保しておいたんですよ。ほら、昨夜は忙しそうだったので」


 私も頭から抜けていたが、そういえば今日はまだ何も食べていない。朝食が用意されていることには気がついていたのに、私も先輩に言われるまで存在を忘れていた。

 お腹も減ったし、食事はここで済ませておきたい。リゼットへの言い訳にもなるし、ここは貰っておこう。


「せっかくですし頂きますね。ありがとうございます先輩!」


 そのまま、近くの机へ移動する。

 用意されたトレイの上には、パンとスープと目玉焼き、茹でた野菜が乗っかっている。使用人へのまかないにしては、豪華な内容だった。

 聞けばこれでも節制している方らしく、祝日にはステーキやローストビーフが出るらしい。

 すっげえ!流石、公爵家。

 料理は冷めていたが、それでもロストラバースの健康的な残飯と比べれば十倍美味しい。先輩曰く、朝六時から八時までに食堂に行けば、使用人でも温かい料理が食べられるそうだ。


「これは独り言なので、そのまま聞いていて欲しいのですが」


 むしゃむしゃ茹で人参を頬張っていると、先輩は突然喋り始めた。

 独り言なのに聞いて欲しいなんて矛盾しているようにも思えるが、言わんとしていることはわかる。要は黙って聞けってことだ。


「リゼットお嬢様は、自分の所有物には無闇に手を出さない御人です。使用人と関係を持つことを極端に避けていたお嬢様が、屋敷にレーナさんを迎え入れた。それは、僕たちにとってとても大きな進展だと思っています」


 うんうんと頷きながら、スープを啜る。牛乳を使っているのか、口当たりがとてもマイルドだった。


「非道徳なことを命じられたはずですが、あまり真剣に考えないほうがいいですよ。そんなことをしなくても、レーナさんは歓迎されていますから」


 残ったスープをパンでこそぎ取って口に運ぶ。マナー違反かもしれないが、このクオリティの料理を残すのは勿体ない。

 そうして食べ終わった私のプレートには、食べかす一つ残されていなかった。


「先輩は、心配してくれるんですね。難しい仕事だとは思いますけど、私はリゼット様の期待には応えたいんです。だから、やりますよ。私は」


 私の返答に、先輩は不安げに俯いた。先輩は温くていいね。

 つい食事にばかり意識がいってしまったが、先輩の話はしっかりと耳に入っていた。なんとなく察しはついていたが、リゼットは相当に私に好意を抱いているらしい。

 だが、世の中は感情だけで成り立つものではない。味方の少ないノースハーツならば、どうしても非道に走らなければならないこともある。好かれているというだけでは、まだまだ安心はできなかった。


「それなら一つ、頼まれてください」


 先輩の態度に胡座をかいていると、彼女は再び真剣な表情で私に近づいてくる。少し強引な気もするが、先輩の頼みなら私も満更でもなかった。


「できることなら」

「どうか、お嬢様の傷心を癒してあげて下さい。いつでも側で、励ましてあげて下さい。自分でやれよって思うかもしれませんけど、僕はほら、前提から駄目なので」


 先輩はスカートを軽くたくし上げて自嘲する。

 先輩の顔は整っているし、リゼットからしても駄目ってわけではないはずだ。もう少し育てば環境も変わるだろうし、そこまで気を落とす必要はないと、私は思う。

 しかし先輩の頼みごとの内容自体は、言われなくてもやることでしかない。ここで引き受ければ先輩に貸しが作れることも確かだ。


「わかりました。では、先輩の代わりにその仕事を引き受けさせていただきますね」


 私は先輩を励ますこともせずに、そのまま承諾した。

 先輩には悪いが、リゼットの愛妾になるためには、リゼットの愛を独占する必要がある。ライバルを減らすためにも、この低い自己評価を保ってもらうぜ、へっへっへ。


「ありがとうございます。今度、美味しいケーキを用意しますね」

「やったー!シリル先輩、大好きです!ナンバーワン!」


 スイーツマニアの先輩からお菓子が貰える。その事実に感極まった私は、思わず先輩に抱きついた。

 ケーキがタダで貰えるのなら、それも良しだ。褒めて遣わす。


「シリルくん、少しいいですか」

「ちょっと待ってください。今出ます」


 軽く数回、入り口の扉がノックされる。どうやら中々戻ってこない私を、チーフが迎えに来てくれたらしかった。


「………どうやら、話が過ぎたようですね。機会があったら、またよろしくお願いします」

「はい。今日はありがとうございました」

「礼を言うのは、僕の方ですよ」


 別れ際に、先輩は私に頭を下げた。

 まあ、先輩はリゼットとの距離も近いみたいだし、そう遠くないうちに話す機会はやってくるはずだ。

 明日、食堂で会えるといいな。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ