02 馬車酔いと奴隷法
02 馬車酔いと奴隷法
この娼館を正面から眺めるのは、私にとって初めてのことだった。高級娼館といっても所詮は性行為の場だと侮ってきたが、看板や佇まいには貫禄がある。笑うよりも先に哀愁を感じてしまうのが悔しくて、私はすぐに振り返るのをやめた。
「リゼット様。これから私は、何をすればよいのでしょうか。心構えをつくるためにも、具体的な仕事内容は知っておきたいです。それと、リゼット様の掲げる目標も」
密偵といっても、その職務は千差万別だ。勿論どのように働くことになるかを理解する必要があるし、対象は個人なのか団体なのか、回収した情報はどう使われるのか。それくらいのことは最低限知っておきたい。
「あら、リゼットお姉様とは呼んでくれないの。結構気に入っていたのだけれど」
「お望みとあらば、呼び方は改めますよ」
仕事の話をするならと真面目な態度をとってみたが、この人は私よりもレーナがお望みなのだろうか。あれはすけべ専用の人格なので、やりすぎるとウザさが出てしまう。
できれば素に近い状態で話したいが、ここはリゼットに合わせよう。
「いいわ、好きに呼んで。公の場で変な呼び方をさせたら、私の品性が疑われてしまうわ」
心底残念そうに、リゼットは呟いた。
そんなに残念なら、自由に呼ばせればいいのにと私は思ってしまうが、それはきっと娼婦として働いてきたせいだろう。薄暗い性癖を散々ぶつけられてきたので、前提として貴族を爛れた存在だと考えてしまう。
まあ、今は常にハイテンションガールでいる必要がなくなったことを喜ぼう。やったー!
「仕事についての話は、人のいないところでね」
確かにこの人の波では、どこで誰が聞いているかわかったものではない。私は貴族用の馬車庫まで連れていかれ、そのまま同乗することになった。
「事態は一刻を争うわ。まずは、私が置かれている状況から説明しましょう」
リゼットはパンと手を叩いて、瞳を濁らせながら私を見据えた。
「お父様が亡くなったわ」
「え?」
「事故死したのよ。王に次ぐ権力を持つ男がいなくなったわけだから、どこの貴族もこのノースハーツの力を削ごうと躍起になっている。どうにか反撃したいところだけど、このままだと商会諸共に私は破滅ね」
「………心中お察しいたします。つまり私は、ノースハーツ家が持ち直すまでの一手として買い取られた、ということですね」
「そうね。そんなところかしら」
どうにも煮え切らない返答だった。密偵に情報を開示しないというのは別段おかしなことでもないが、リゼットは私に明け透けな態度ばかりとってきたので、少しびっくりだ。
「レーナさんは、政治の話とかいける口かしら」
「人並みには話せますよ」
貴族の相手ばかりしてきたので、今の世情はぼんやりと知っている。奴隷になる前は女ながらも勉強していたし、専門的な話も大雑把には理解できるはずだ。
「なら、これを読んで頂戴」
リゼットは鞄から、数枚の小汚い紙切れを取り出した。どうにも質感がおかしいと思って中身を確認すると、右下に王家の印が押されている。なるほど、羊皮紙か。
そこには大した前置きもなく淡々と決議事項が書かれていて、そのどれもが賛成多数で可決されている。どれもこれも無難な決定に見えるが、リゼットがこれを私に渡した理由は火を見るよりも明らかだった。
『エモルネル王による奴隷法。
——この法律は、奴隷貿易による諸外国との不毛な衝突を避けるためのものであり、恒久的な世界平和に貢献することを目的とする。
・第一条 国王の許可なき、人種、宗教的理由、または個人の利益を目的とした奴隷獲得を禁ずる。
・第二条 奴隷の生存を不当に脅かすことを禁ずる。また、奴隷の所有者はその奴隷に対し、最低限の生活を保証する義務を負う。
・第三条 奴隷の所有者はその奴隷に対し、その労働によって得た利益の一割以上の報酬を金銭的、または物的に与えなければならない。
——中略——
以上の法律を、王歴820年1月1日より適用する。』
踏んだり蹴ったりとは、まさにこのことだろう。ほぼ全ての事業に奴隷が関わるノースハーツ商会にとって、奴隷制の厳格化は死活問題だ。特に第一条の、奴隷獲得の禁止についての条文は致命傷になり得る。
「後継者争いでごたついている間に王国議会が開かれてね。私が介入する間もなく制定されたわ。施行日がくる前に、次の議会でどうにかこの法律をひっくり返したいのよね」
リゼットは指遊びをしながら、誤魔化すように笑った。気丈に振る舞ってはいるが、その表情には焦りが見える。無理を言っていることは、自分でも自覚しているのかもしれない。
しかし、この法律は奴隷の私からしたらいいことばかりだ。利益の一割というのは少なすぎる気もするが、どんな形にしろ報酬が与えられるのは嬉しい。生活が保証されるというのは、やはり安心できる。
「えーっと、公布された法律ってそんなにすぐに覆せるものなんですか」
「勿論、簡単にはいかないわ。だからあなたがいるんじゃない。レーナさんにはまず私の妹の婚約者、第三王子マリユスを籠絡してもらうわ」
私は思わず息を飲んだ。国を落とすなんて大きなことを言ってのけるのだから、王子や官僚を相手取ることになるとは予想していた。しかし、妹の婚約者というのは流石に抵抗がある。
「構いませんが、私には色仕掛け以上のことはできませんよ。妹様の婚約者を奪ってしまうことになるかもしれません」
「………そこは気にしないでいいわ。マリユスは人権派の筆頭でね。私の会派でも元気に顔をきかせているから、このままじゃ改正案の発議すらできないわ。ここで私が失脚したらシルビアもただじゃすまないでしょうし、理解してくれるはずよ」
仲が悪いのかしらないが、他人行儀にリゼットは言ってのける。そこには引け目など一切なく、むしろ愉悦の念すら感じられた。
(身内すら瓦解寸前の状態で、改正案が通るんですかね)
と、思っても言わないのが娼婦、ひいては奴隷の処世術である。話を聞いている限り、この仕事のリスクはそれほど高くない。少し強引に迫ってしょっ引かれても、奴隷法を支持しているなら正当な手段で処罰されるはずだ。
そしてそもそも、私はそんなヘマは起こさない。
「任せて下さい!これでも私は指名率ナンバーツーの娼婦だったんですよ。絶対に籠絡してみせます」
私の見立てでは、これは負け戦だ。新公爵の技量がどれほどなのかは知らないが、この法案が通ってしまった時点でたかが知れている。国王も他の領主達も、みんなこぞって敵対しているのだから。
ならば要求された仕事はこなしてリゼットの好感を稼ぎ、奴隷法でばっちり保護されるのが一番だ。賢くいこうぜ、私。
「ええ、期待してるわよ」
ぽんぽんと、リゼットは私の頭を叩く。力加減が下手くそだなーとか考えてしまうが、女相手のテクニックを指摘されたばかりなので心の中でも文句を言いづらい。
「えいっ」
「ひやっ!」
とりあえずここは、逆膝枕でも食らってもらおう。高そうな羊皮紙を返却して、ベタベタと身体に触れてみせる。
「甘えん坊なのね」
「いやー喜ぶかなって」
本当は馬車に酔っただけなのだが、今はお嬢様を口説く時間だ。リゼットがさっき言った通り、私と離れられないくらいに籠絡してみせよう。
「まったく、仕方ないわねぇ」
やはり、満更でもなさそうだ。こいつは世話を焼かれるより焼くのが好きなタイプと見た。楽でいいね、楽々。
でも横になると余計に揺れを感じるね。うぇーっ、気持ち悪い。