14 禍根
14 禍根
ほんの少しだけ服をズラして、ハンナの首元に腕を巻きつける。ゆっくりと口元を近づけると、彼女の吐息の震えが伝わってきた。
「い、いくわよ」
「はい」
抵抗する素ぶりもなく、ハンナは私のキスを受け入れる。唇が柔らかくて、ゼリーみたいだった。
「ん………」
そのまま舌を入れる。それが正しいやり方だと、私は思った。
どうにも名状し難い感触だった。思ったよりも性的な刺激があるのに、少し驚いてしまう。
敢えて知っている何かに例えるとするなら、喉に指を突っ込んだときにする嘔吐だろうか。嗚咽の快感を凝縮して、無限に吐き出し続けているような、そんな感じだ。
「思っていたよりずっと、ずっとずっと良かったわ」
唇を離す。名残惜しいけれど、いつまでも続けていたらハンナが酸欠になってしまいそうだった。
「私達のファーストキスね」
「そう、ですね」
ハンナは恥ずかしげに視線を落とす。
私達は今、恋をしていた。
「緊張しているんですかね。普段はすぐに話が思い浮かぶのに、今は何も思いつきません」
恋人になろうという私の提案は、案外すんなりハンナに受け入れられた。婚儀を結ぶ前ならば不義理にはならないし、同性同士で付き合うこと自体も禁じられていない。しがらみがなければ、私の気持ちに応えるつもりだったとハンナは私に教えてくれた。
特に私たちの関係性が変わったというわけでもないけど、前より一緒にいる時間が増えたのは間違いない。
恋人になってから、毎晩ハンナは私の部屋を訪ねてくるようになった。ここ一週間は添い寝するだけだったけれど、これでやっと恋人らしいことができる。
「お嬢様は今、幸せですか」
「ええ。今までで一番、幸せよ」
頭をよしよしされながら、ベッドに横たわった。
もう一度キスをしたいが、ハンナは明日も早朝から仕事がある。私のためにこれ以上夜更かしをさせるのも忍びなかった。
「お嬢様。来週の金曜日に、一緒にお出かけしませんか。王国議会に旦那様が出席なさるようなので、その隙に」
「うん、行くわ。行きましょう」
初日は、私のために無理をしているのかと不安になったりもした。でもハンナはずっと積極的で、恋人らしいことをしようとしてくれている。
ずっとドキドキが止まらない。惚れ直すというのは、きっとこういうことなんだろう。
私達は見つめ合いながら、ゆっくりと眠りについた。
待ち遠しさを耐え続けて、ようやく金曜日になった。お父様は今日から三日も家を空けるので、警備は普段よりも薄くなっている。正門から遊びに出るのは難しいが、夜中に少し行って戻ってくるくらいのことはできるはずだ。
「ルートの確認はしましたが、崩落の危険があることは意識してくださいね、姉さん」
私はまったく知らなかったのだが、妹の部屋の床下には地下通路が広がっていた。エムリス山脈が国境だった時に使われていたものらしい。
これなら、誰にも気付かれずにデートに行けるはずだ。
「ありがとうね、シルビア」
「感謝されることでもありませんよ。ここは、ただの通り道なんですから。それより、準備してくれたハンナさんに感謝することです」
シルビアの部屋は私の部屋の隣にあるので、移動を見られてもまず怪しまれない。この地下通路の存在を知るものも少なくので、万が一見られても恐れることはなかった。
「では行きましょうかぁ、お嬢様」
ハンナはスムーズに扉を開けて、私の手を掴んだ。地下から漂う冷気のせいか、ハンナの手のひらがとても温かく感じる。
あまり騒がしくはできないので、私はコクリと頷いた。
「私いま、ドキドキしてるわ。屋敷の外に出るのは嫌いだったのに、この一週間は毎日ワクワクが止まらなかったわ」
ある程度歩いたところで、私はハンナに言葉を投げた。もうきっと、二人きりだ。
「奇遇ですねぇ、私もです。お嬢様を楽しませたくて、毎日リサーチと準備を繰り返して来ましたからね。絶対満足させますよ」
「ありがとう、大好きよ」
ここ数日は、お別れの寂しさよりも一緒に遊びに行きたいという気持ちが上回っていた。
悔いを残さないように、目一杯自分の気持ちをハンナに伝える。最後は全力で楽しみたいと、使命感なしに私は考えていた。
「二キロって意外と一瞬なのね、もう出口だなんて」
「いやぁ、だって本番はここからですからね」
地下通路の先には、一頭の馬が用意されていた。杭にロープで繋がれていて、少々不機嫌そうにも見える。
「お嬢様、乗馬の経験はありますか」
ハンナは勢いよくロープを切り落として、ニヤリと悪い笑みを私に向けた。
「まさか、二人乗りでエムリス山脈を登るつもりなの」
「はい、そのまさかですよ」
私に乗馬の経験はない。こんな大きな馬の背に乗るのは、ちょっぴり怖かった。
そっと馬の肌に触ってみると、人とは違う温かみがある。びっくりして私は思わず手を引いた。
「お嬢様は後ろから、掴まっていて下さいね」
揺れる鞍に跨って、ハンナのお腹に手を回す。馬車に乗っているときは意識もしなかったが、馬には確かに血が通っていた。
「馬って速いのね」
「これでも山道なんで、ゆっくり走らせてるんですよ。もう少し開けたところに出たら、気持ちのいい風を浴びれるんですが」
私が落ち着いていられるのは、馬の動きがゆったりとしているおかげだ。雑談するんだったら、これくらいの速度が丁度いい。
話題はころころ変わっていって、乗馬の話はいつの間にかハンナの家族の話に移っていった。礼儀作法を手ずから教えてくれたり、旅行に連れて行ってくれたり、喧嘩したり。聞いているだけでも、ハンナが家族を愛しているってことが伝わってくる。
「だから、もう一回仲良し家族に戻りたいなぁって。特に弟くんには、すごい迷惑をかけちゃったから………って、デート中にする話じゃないですねこれ」
「いえ、もっと聞きたいわ。将来はハンナの家で暮らすことになるんだし、もっと貴女のことを知りたいもの」
ハンナは自分のことを包み隠すような性格ではない。普段から家族の話やギャンブルの話、時々仕事の愚痴なんかも私に話してくれる。だから全部知ったような気になっていたが、まだまだ見たことのない姿ばかりだ。
「街が見えてきましたね。こうやってノースハーツの全てを眺められるのは、この場所だけなんですよ」
しっかりと整備された道に合流したせいで、馬はどんどん速くなっていく。しかし不思議と、恐怖はなかった。ハンナが側にいてくれているおかげなのか、単に馬の動き慣れただけなのか。
とにかく私は、幸せだった。
楽しい時間は、すぐに終わってしまうものだ。少し良い雰囲気になったけど、もう夜も遅い。続きは明日に延期となった。
そして次の日の夜。いよいよ一歩進んだ行為をすることになって、私達は互いに下着姿になった。
色気のある服なんて私もハンナも持っていなかったけれど、それはそれで悪くない。身につけていたロザリオも取り外して、ハンナは私を押し倒した。
「では、失礼いたしますね」
ハンナはずっと、攻め手に回っていた。私がこうして欲しいというと、それを自分なりに噛み砕いて実践してくれる。
少し被虐的なことをお願いしたりもしたけど、最初から最後まで、ハンナは優しく解してくれた。
「今度は私の番よ」
だからそれに応えるように、指を肌に沿わせる。布ズレの音に水気が加わって、泥沼みたいな感触が私の指を包んだ。
声と動きを見て、親指と人差し指でハンナを挟み込む。私にはそれなりの才能があったようで、死体みたいにじっとしていた彼女は、一瞬びくりと動いた。
達成感が身を焦がして、もう一度挑戦する。声を聞かせて欲しいと頼むと、ハンナは僅かな嬌声を発した。
「どうかしら。初めてにしては、上手だったんじゃない?」
恥ずかしがっているのか、ハンナは中々答えない。彼女の表情が見たくて、私は机に置いてあった蝋燭を手に取った。
「えぁ………ご、ごめんなさい」
ハンナが泣いている。大粒の涙を手で拭うが、ぼろぼろと溢れていて止まる気配がなかった。
「なんで泣いてるの」
「違うんです。違うんですよ、お嬢様」
嬉し涙にしては、怯えがあった。顔を合わせてくれないことが、恐ろしくて仕方なかった。
少しやり過ぎたとか、そういう次元の話ではない。この涙は、拒絶だ。
「ごめんなさい」
二度目の謝罪。
訳がわからなくて、私は逃げ出した。自分の部屋から逃げてしまったから、行き場所なんてどこにもない。ただ、遠くに逃げた。頭が真っ白で、何もわからなかった。
「私、悪くないから」
「待って、待ってくださいお嬢様!」
ずっと不安だったことがあった。私はずっとハンナに恋していたが、ハンナはどうにも違う気がしていたのだ。いつも優しくしてくれるのは、同情や憐れみの結果でしかないと、幼い頃から思っていた。
友達だって言ってくれたけど、それもきっと終わりだ。私は、取り返しのつかないことをしてしまったのだから。
♦︎
手首に、長く縦の切り込みを入れる。深く息を吐いて、すぐにハンカチで止血をした。
一度自殺に失敗して、気がついたことがある。こうして腕を切ると、気が紛れた。痛みに集中できるから、ほんの少し安心できる。
ハンナとは、あれから会っていない。一度迎えに来るのを待ったけど、とっくに失望されている。
「お嬢様、そこにいらっしゃいますか」
いきなりの来訪に息を飲んだ。もうこのまま勝手に帰っていくだろうと思っていたのに、ハンナが訪ねてきてしまった。
「いるわよ」
必死に声を絞り出す。
「謝罪に来ました」
「いらないわ、もう謝られたもの」
部屋に入れるわけにもいかないので、壁越しに話をする。絶望感で、内臓が飛び出してしまいそうだった。
「無理していたのね。ずっと」
「違うんですお嬢様。あの時は、そう、初めての感覚だったので正解がわからなくて」
こんな風に焦りを見せるハンナは、初めてだ。こんな姿は、見たくなかった。
「意外と、信心深かったのね。嫌なことをさせてしまったわ」
「どうだっていいことですよ、そんなの。あの時は動揺してしまいましたが、もう大丈夫です。誤解なんですよ、お嬢様」
必死に言葉を連ねるハンナが、痛々しかった。彼女に非なんてあるはずもないのに、私のために心を痛めてくれている。
「なら安心したわ。もう私の心配なんてしなくていいから、仕事に戻っていて。なんだかね、もうハンナがいなくなっても大丈夫な気がするの」
はっきり拒絶した。私はハンナの優しさに漬け込んで、傲慢に愛を囁き続けた。その結果がこれだ。
私なんかが華やかなハンナの人生を汚してはいけない。彼女には、私以外にも愛してくれる人がいる。
「わ、私は………」
私が黙り込むと、ハンナも話さなくなった。しばらく扉の前に留まっていたけど、妹に呼ばれて何処かに去っていく。
自傷を再開する気分でもなく、私は一度眠りについた。
次の日もその次の日も。身体を傷つけるうちに、お父様は私を避けるようになった。何でハンナが私に会いにきたのか疑問だったが、小耳に挟んだ話だとお父様に頼まれたらしい。
それなら少し、悪いことをしてしまった。
「お、お嬢様?その腕の傷はどうしたんですか」
「………どうでもいいじゃない」
ハンナを手で押しのけて、私室に引き篭もる。食べる時と出す時だけは、部屋を出なければならない。それすら今は煩わしかった。
寒くなってくると、毛布から出るのも嫌になる。死ぬ勇気もないので、私には眠ることしかできなかった。
「お嬢様」
寝て起きてを繰り返していたある日、久しぶりにハンナが部屋を訪ねてきた。面倒くさいので、狸寝入りしてやり過ごす。
「明日の朝には、私はこの屋敷を出なければなりません」
そんな時期かと、雪の降り頻る窓の外を眺めた。
「私みたいな使用人とは顔を合わせたくないかもしれませんが、一度だけでも話がしたいんです」
「………」
「私は、お嬢様のことを大切に思っています。ここに来たときはお嬢様が生まれたばかりだったので、何度か抱き上げたこともあったんですよ」
何度も聞かされた話だった。私とハンナには十もの歳の差があって、子供扱いされるのが嫌だった記憶がある。
「最初は私も丁寧な扱いを受けていたので、乳母さんのお手伝いなんて楽な仕事を任されていました。お嬢様は子供のときから元気で、泣いたり笑ったり感情豊かなお人でしたよ」
そもそもハンナがここに来たのは、一時の罰に過ぎない。エレンサラー領主と仲のいいお父様が、一年だけと言って彼女を受け入れたのだ。
書類上の任期は八年だったが、借金の返済さえ終われば奴隷からは解放される。今ハンナがここに残っているのは、彼女の要望をお父様が受け入れたからに過ぎない。
「離乳食の献立は、私が考えたりもしました。ホリーさん、前の乳母さんと一緒に、子供のあやし方を学んだものです」
乳母のことは顔も思い出せないが、古いメイド服を着こなしていたのは覚えている。そこにはいつもハンナも一緒にいて、私にとっては一番の家族だった。
「絵本を読んだり遊んだりして………仕事の一部を任されるようになるまでは、ずっとお嬢様と一緒にいましたね」
ハンナがノースハーツで働きたいと願い出てからは、お父様はハンナを営業役として抱え込んだ。色々と資格を取らせたり、奴隷商人として営業させたりと、色々な仕事を任されていたのを覚えている。
最近はシルビアに付きっきりだけど、少なくとも私と遊んでいていい存在ではなかった。
「私、酷いですね。普通は旦那様の暴力を止めないといけないのに、ホリーさんが死んでから怖くなっちゃいました」
お父様は粗暴な人だったから、数年に一度使用人を殺してしまうことがあった。乳母もその一人だ。
仲の良かった同業者が殺されれば、お父様に逆らうことに億劫になるのは当たり前だ。
「………ハンナは悪くないわよ。一緒に居てくれるだけで、幸せだったから」
ハンナとはもう会いたくない。けれども、ハンナを嫌いになってはいないし、私の知らないところで幸せになって欲しいとは思う。
だから、そうやって卑下されたくなかった。
「お嬢様はお優しい方ですね」
ハンナは軽く笑った。
「仲直りしませんか」
「無理よ、私なんかじゃハンナの側にいられないわ」
明日いなくなるんだ。今更、合わせる顔がない。
「もし、許してくださるなら、扉を開けてみて下さい。ずっと、待ってますから」
ハンナはその言葉を最後に、話さなくなった。扉の先で、彼女は待っているのだろうか。
外に出る勇気なんてなくて、震える身体を毛布で誤魔化した。
(一日、じっとしていましょう)
自分でも、どうしようもない奴だって思う。でもこれが私だった。
まだまだ寝足りなくて、もう一度目を瞑る。不安はもう慣れっこで、私は逃げるように眠った。
そして、すぐに目が覚めて。
——鳥の、声が聞こえる。
「もう、いないわよね」
もう朝になっていて、私は毛布に包まったまま扉に近づいた。トントンと扉を叩いてみるが、反応はない。よし、もう帰ったみたいだ。
まだそこに立っているんじゃないかと考えたりもしたが、いないならそれで解決だ。
「あれ、開かない」
扉がつっかえていて、上手く開かない。落ちきった筋肉に力を込めると僅かに開いたが、それでも簡単には通れそうもなかった。
私がちびすけじゃなかったら、きっと頭がつっかえていただろう。
「まだいたのね、ハンナ」
ハンナが壁を背にして眠っていた。私が来るのをずっと待っていたらしい。
漠然と、これが最後のチャンスであるような気がした。
「ねぇ、ハンナ。許して欲しいと言っていたけどね、悪いことをしたのは私の方なのよ。身勝手に、辛い思いをさせてしまったわね」
ハンナの肩を揺すって、少し無理に起こす。こんな寒いところで眠っていたせいか、唇が青白くなっていた。
「あれ」
ふと触れた肌が冷たい。とても冷たい。
「待って」
床が濡れていることに気がついて、ふと指で触る。股の辺りに、温い尿が広がっていた。
「シルビアっ」
私はすぐに、隣のシルビアの部屋に飛び込んだ。どういう症状かはわからないが、このままだとハンナは死ぬ。死んでしまう。
「引き篭もりのメンヘラが私になんの——」
「ハンナが死んじゃう!」
机に向かっていたシルビアが、呆気に取られていた。しかし私の切羽詰まった様子に引っ張られて、質問もなしについてくる。
「凍死しかけてますね。レベッカ!運ぶのを手伝ってください」
シルビアはハンナの首筋に触って、即座に側にいる使用人に指示を出した。
「うーっす。どこに運べばいいんですか、シルビア様」
「浴室ですよ!今なら湯が温かいはずです」
シルビアは頭を掻きながら、ハンナの腕を持ち上げた。何か手伝いたくてシルビアに近づくと、「邪魔しないでください」と叫ばれる。
私には、何もできない。
「お嬢様………ありがとうございます」
ハンナが目を覚まして、妹の目を見てそう言った。
「あんなクズ女なんて忘れて私を愛しなさい。今応急処置をしますから、そのまましっかり起きててくださいね」
妹はレベッカと一緒にハンナを運んでいく。私はただ立ち尽くして、ぐったりした彼女の背中を眺めていた。
寒さで指ばかりが震える。私はもう、消えてなくなりたかった。




