10 暗闇
10 暗闇
時刻は二十二時。レーナの捜索が始まってから数時間経ったが、手掛かり一つ見つかっていない。
リゼットは絶望に打ちひしがれていた。
「レーナさんは裏切ったりしないわ」
リゼットは延々とうわ言を繰り返す。ベッドの上でハンナに抱き抱えられながら、ガタガタと震えていた。
「そうですね。レーナさんは与えられた役目を果たす努力をしていました。理由なくお嬢様を裏切るわけがありません」
「そうよね、ええ。わかっているわ」
「大丈夫です。お嬢様はレーナさんに至上の愛を与えてきたではありませんか。だから、妹様にマリユスの子を産ませることにしたのでしょう」
ハンナは耳元に口を近づけて、リゼットの不安を煽った。理由なく裏切らないのなら、理由を作ればいい。ハンナの思考回路は、ひどく単純だった。
「ちっ、違う!そんなこと、しないわよ」
「ああ、そのままレーナさんに産ませるつもりだったんですね。レーナさんが戻ってくるかはわかりませんが、いざというときは私がレーナさんの代わりになります。妹様を傷ものにする心配はありませんよ」
リゼットは声を荒げて否定したが、考えるうちに自信がなくなっていき、最後には喋らなくなった。しくしくと、涙を流すばかりだ。
「レーナさんは娼館出身ですからね。嫌いな相手とも抵抗なく寝てくれると思ったのですけど、上手くはいかないものですね」
リゼットは聞くまいと意識を遠ざけたが、ハンナはすぐ側にいるという事実は変わらなかった。
「ねぇ、お嬢様。知ってますよね」
寝たふりをするリゼットに、好都合とばかりに話しかける。
「レーナさんが犯罪奴隷になった理由」
「どうでもいいわ」
「詐称です。しかも貴族相手の身分詐称」
捻り出された拒絶の言葉も、ハンナには意味を成さなかった。彼女はただ、リゼットを苦しめることのみを目的にしている。
「レーナさんはお嬢様のこと、どう思ってたんですかね」
ハンナは確信していた。あの女はリゼットのことを歯牙にも掛けていないと。
彼女の興味は、環境にのみ注がれている。凡ゆる交友関係は環境を構築するための材料でしかなく、いい生活をすることでしか自分を満たせない。
ハンナはこの一週間でレーナのことを、そう評価していた。
「レーナは………好きだって、言ってくれたから」
「そうですか。でも、お嬢様は彼女の主人です。考えに反することでも、そう言わざるを得ませんよ」
リゼットにそのとき、確かな疑念が生まれた。マリユスの子を産ませようとしたから脱走したのだと、そう思ってしまった。
「おやすみなさいお嬢様。私は誰よりも、貴女のことを愛していますよ」
ハンナはリゼットの頬にキスをする。リゼットがまだ眠っていないということは、ぐずぐずになった鼻水のおかげで丸わかりだった。
だから、眠りにつくまで側に居続ける。失われた時間を、取り戻すように。
次の日の朝のことだ。
いくら動揺しているといっても、リゼットは働かなければならなかった。昨日の仕事はほとんど手をつけていないので、二日分の書類が机上に積まれている。
しかし、レーナのいない机仕事は驚異的に効率がよく、陽が落ちるよりも早くに仕事を終えることができた。
「お嬢様。私のチェックした書類に混ざっていたのですが、これをどう思いますか」
ハンナがリゼットに手渡したのは、一枚の居住許可証だった。書き方は完璧で、記入漏れ一つない。しかしそこには、私が押した覚えのない判子が押されていた。
「レーナ・スノードロップと書かれています。住所も不明瞭ですし、拇印を調べてもらってもいいですか」
それを聞いた瞬間、リゼットの手のひらにまで汗が伝った。偶然にしては、タイミングが良すぎる。
レーナとの奴隷契約書は、リゼットの机の一番上に大切にしまってあった。奴隷契約書にはその奴隷の拇印と、奴隷に対する簡単な情報しか含まれていない。しかしこの国では、拇印は絶対的な証明として扱われていた。
返事も忘れて、ゆっくりとその引き出しを開けると、そこには。
「ない」
すっからかんだ。埃一つない。
「ないないないないない」
執務室を飛び出して、リゼットは私室にあるファイルを手に取った。彼女が探したのは、書類の写しだ。原本と同じ効力を持つ写しが、そこに何枚か保存されているはずだった。
「あ」
そしてリゼットは悟った。
「あーーーーーー」
レーナに裏切られたと、悟った。
♦︎
「お嬢様は今、傷心中です。シリルくんにも会いたくないと言っているんです。気持ちはわかりますが、ひとまず帰ってくれませんか」
「話もしないで解決するわけがないでしょう。僕だってやることやらないと納得できません」
「お嬢様の望みを叶えることこそが、私達唯一の幸福です。そこに自我なんて必要ありません」
部屋を訪ねてきたシリルを、ハンナは我が物顔で追い出した。リゼットは陽が落ちてから一言も言葉を発していなかったが、最早ハンナに嘘への抵抗はない。
可愛い義弟が相手だとしても、僅かな罪悪感すら湧かなかった。
「だからこそ、僕たちが協力するべきなんじゃないですか。そもそもチーフがいないと屋敷は回らないんです。ずっとお嬢様に構いきりになられても困ります」
「なら、指示出しの実技練習をしてみましょう。シリルくんには私のすべての知識を与えてきましたんです。皆さんからも信頼されていますし、きっとできますよ。ファイト!」
無責任にファイティングポーズを決めて、ハンナは部屋の扉を勢いよく閉める。シリルはすぐさま猛抗議したが、鍵を閉められてしまってはどうにもできなかった。
「お労しいお姿ですね、お嬢様」
毛布を被って蹲るリゼットに、ハンナは愉悦を覚えていた。啜り泣くリゼットの声だけが、部屋に響いている。
刃物はなく、窓も用材で頑丈に閉鎖した。この状況で自殺をするのは、相当苦労しないと難しい。
「ですが、かつてのような失敗はしませんよ。この部屋は何より安全です。どんなお世話もしてあげますから、可愛い姿をたくさん見せて下さいね」
呪詛を囁きながら、ハンナはリゼットの頭を撫でた。彼女はまるで飼い犬のように、されるがままだ。
「レーナ………」
音も光も、すべて意識の外に追いやっていく。リゼットにできるのは、思い出に閉じこもることだけだった。
「ご存知のはずでしょう。お嬢様はレーナさんを騙したんです。彼女の尊厳を陵辱し、それを良しとしてきたんです」
その冷酷な囁きに、リゼットは従者の手を振り払った。そして枕を床に思い切り叩きつけて、部屋にあるものを滅茶苦茶に壊していく。
「お嬢様のせいです。ああ、可哀想なレーナさん」
冷笑しながら、覆い被さるようにハンナはリゼットを抱きしめた。体格差に任せた抱擁は、一切の抵抗も許さない。
「ですが、仕方のないことですよね。奴隷には、何をしたって許されるんです。使い終わったゴミなんて、捨ててしまうのが一番ですよね」
「や、やだ。いやっ」
「恐れないでください。私はいなくなりませんよ。お嬢様がどれだけ無様を晒しても、ずっと側にいてあげます」
ぐるぐると渦巻く闇黒が、沈むように部屋を汚していく。悲鳴と嬌声が、混沌として騒がしかった。
「私、不安なんです。お嬢様はなーんにもできないままなので」
「うぅ………」
「怖がらないで下さい。私は裏切りません。私の忠誠心が本物だって、お嬢様は知っていますよね」
用材の隙間から、月光が流れ落ちている。リゼットは身じろぎするのをやめて、彼女の愛を静かに受け入れた。




