雪どけを待つ、冬の蝶
秘密を抱えた少女たち。
彼女らの結末を、どうか見届けてあげてください。
雪が降っている。積もりはしないかもしれない、そんな程度の淡雪だ。
ただ、今日という夜を彩るには十二分に相応しく、真っ白で美しいものだった。
月夜の闇に、きらきらと反射して宙を舞う、灰のような雪。
天上で何かを焼き尽くし、この地に降りしきるのだろうか。
風のない冬空であっても、雪は左右に揺られ、降り立つ場所を探しながら落下していく。
優しく地面に衝突する刹那、アスファルトに黒い点のような染みを残して消える。
凍える両の掌を口元に寄せて、生ぬるい息を吹き当てる。その拍子に、左手に巻かれた包帯の奥が鈍く疼いた。
刺すような痛みを感じながら、花壇まで移動し、縁に腰掛けて何となく空を見上げる。空気の澄んでいる冬の夜空は、月だけではなく色々な星が爛々と輝き、その命を燃やしていた。
この輝きは何光年先のものなのだろう…、と意味もなく、ぼんやりと想像してみる。
つい数ヶ月前までは秋桜が咲いていたこの花壇も、今では見る影はないほど寂れてしまっていた。ただの枯れ草が、執念深く居座っているだけになっている。
時刻は、もうすぐ夜8時を越えようとしている。すっかり夜の帳が降りた暗闇の中で、わずかな電灯の灯りを頼りに、彼女はただ人を待っていた。
きっと今頃彼女は、自分の家のクリスマスパーティーの片付けを終えて、こちらに向かっている最中だ。
いつも一緒にパーティーを楽しむ姉が途中でいなくなり、弟たちは不服だろうし、あんな不審な怪我をした後では、こんな時間に外泊しようとする彼女に、父親はきっといい顔をしなかったに違いない。
それでも会いたい、というのは、自分の我儘かもしれない。
不意に、無風だった冬の空気を、強い風が動かした。
髪を抑えて目を閉じていた私は、後ろから迫っている人の気配にまるで気が付かなかった。
私の頬に、何か生ぬるい物が押し当てられる。
「きゃっ」
小さな声を上げて振り返った私に、彼女は呆れたような、でも、とても暖かい眼差しを向けてきた。
「何よ、そんなに驚かなくてもいいじゃない」
そう言って彼女は、手にしていた缶コーヒーを渡してきた。
自分の好きなブラックだ、と嬉しくなったが、その微妙な温かさに、「ぬるい」と文句を垂れる。すると彼女は不機嫌そうに顔をしかめて、自販機が遠すぎるのが悪い、と吐き捨てた。
そうして口を尖らせた彼女が愛おしくて、つい頬を緩めて微笑む。すると、彼女も鏡写しにしたように口元を緩めた。
「メリークリスマス、夕陽」
こんなに優しい声が出せるのだな、と胸が温かくなる。
冬原も、可能な限りの歓迎と幸せと、優しさを込めて応えた。
「うん。メリークリスマス、蝶華」
ふわりと微笑む蝶華は、とても綺麗だった。
彼女のまつ毛と、アップに結んだ黒い髪に淡雪が降り積もって、雪の妖精かと見間違えるほどだ。
蝶華が手渡した珈琲を片手にオートロックの扉をくぐり、自分の部屋まで素早く移動する。
右手で扉を開けて、中に蝶華を促す。
彼女は得意げに、「ご苦労さま」と微笑むと玄関に上がって靴を脱ぎ始めた。
一人暮らし用の玄関はとても狭く、二人で立ったら体がくっついてしまって落ち着かない。
蝶華の甘い香りを吸い込んでしまい、くらりと脳髄が揺れる。
手狭な廊下を足早に抜ける。蝶華は、我がもの顔でベッドに倒れ込んだ。
「ふぅ、疲れたぁ、どうしてガキってあんなに元気なのよ」
台詞とは裏腹に妙に嬉しそうな面持ちになって愚痴る、素直じゃない蝶華の隣に腰掛けて、人一人分だけ隙間を空けておく。
誰かがすっぽり収まりそうなその空間に、かすかな胸の痛みを感じながらも、それを誤魔化すために無理に笑い、もう一度珈琲のぬるさにケチをつける。
「ぬるいよ、やっぱり」
「もう、ごちゃごちゃ言わないでよ」
プルタブを引く左手が、ずきりと疼く。
じんわりと熱を帯び、少しだけ出血し始めたのが分かる。
ここ数日でだいぶ落ち着いたのだが、時折こうして包帯に血が滲んだ。
「…包帯、巻き直さなきゃね」
蝶華が泣き笑いのような表情になって立ち上がり、私の家の救急箱から新品の包帯を取り出すと、また隣に座る。
ゆっくりと、ゆっくりと包帯を外していく。
それそのものが、カサブタであるかのように、必要以上に慎重に扱う。
空気に晒された傷跡から赤い鮮血が垂れて、危うくベッドにこぼれ落ちそうになったのを、蝶華がギリギリで拭き取る。
数センチ程度の傷だが、それでもかすり傷とは言い難い。当然だ、ナイフが貫通して出来た傷なのだから。
間違いなく、傷痕は一生残るはずだ。
あの日、意識を取り戻した私たちが見たのは、繋ぎ止めるものを失った手錠と、掌の傷に応急措置を施したであろう様々な形跡、それから、部屋の隅に落ちた一枚の花びら。いや、花びらではない、切り絵だった。
雪の、結晶。
彼女がわざと落としていったのかは分からない、しかし、どうしてか捨てきれず、私たちはそれを持って部屋を後にしてしまった。
その後、あの部屋がどう処理されたのかは分からない。
色々と面倒と無理はあったが、私たちは綺羅星については永遠に箝口令敷いて、全ての秘密を胸に押し込めることにしたのだ。
病院に行ったときだけはかなり怪しまれたものだが、二人して治療を受けたことで、拗らせた二人が互いにお揃いの傷でもつけたがったと思われたようだった。
看護師の冷ややかで、呆れた視線が、今でも目の前に浮かんできそうだ。
アルコールで消毒したガーゼで血を拭った彼女は、新品のガーゼに取り替え、その上から包帯を巻きつけようとしていたのだが、私は何となく思いついて彼女にお願いをした。
「ねえ、蝶華も包帯変えようよ」
「え、いや、私は傷が浅かったから、そんなに頻繁に変えなくともいいのよ」
「いいから、ね?お願い?」
私が首を傾げてお願いすると、柊は渋々といった様子で包帯を解き始めた。
最近の私は、蝶華がどういうふうに頼まれると断れないのかを察し始めていた。
少々汚い真似のような気がするが、何だかんだ頼みを聞いてくれる蝶華を見ていると、つい嬉しくてやめられなくなっていた。
…そんなに、好きなのか。私のこと。
…ふむ。
包帯の下から覗いた傷は、確かに私のものより比較的小さい。だが、決して軽い傷などではなかった。
「ほら、まだカサブタもまともに出来ていないけれど、順調に治っているのよ」
そう言って、蝶華は左手を立てた。
私がそれを左手で掴むと、蝶華の口から悲鳴に似た声が上がった。
当然、こちらも鋭い痛みに顔が引きつる。
蝶華は、何が何だか分からないといった様子で、怒りよりも先に戸惑いの色を露わにしていた。
重ねた掌に、躊躇いなくぐっと顔を近づける。
「蝶華…」
今にも消えそうな声で囁いて、触れるだけのキスを重ねた傷痕に贈る。
鉄の味が唇を通して伝わってくるが、それよりも、顔を朱に染めた蝶華が可愛くて、くすぐったい気持ちになる。
「ちょ、アンタ、汚いわよ」
照れ隠しで呟く彼女の瞳を見て、もう一度、幸福の証を刻む。
「あ、もう…、ちょっとやめなさい」
「え、うん」
思いのほか、彼女の声が真剣だったので、渋々とそれに従う。
すると蝶華は、ピアノ線のように張り詰めたトーンで、こちらを叱るように続けた。
「あのね、少し前から思っていたけれど、その…ちゃんと私、返事してもらってないのよ…」
「…返事?」
「は…?」と蝶華が眉をひそめる。今では珍しい、凶悪な顔だ。「まさか、なかったことにするつもりなの」
「なかったことも何も、私、ちゃんと好きって言われてないよ?」
「え…、あ、あー、いや、でもさぁ…わざわざ言われなくても、分かってるでしょ?」
「駄目。ずるだよ、それ」
にやにやしながら、私が告げると、蝶華は意地を張ったふうな強情な顔つきで、今から言ってやる、と豪語した。
「ちゃ、ちゃんと聞きなさいよ」
「うん」
「…一回しか、言わないから」
「うん」
「…わ、笑わないでよ?」
「分かったから、早くしてよ」
わざと白けた顔で、冷たく言うと、蝶華は、うっ、と困ったように黙ったのだが、直に姿勢を正して言った。
「わ、私は、夕陽のことが好き…みたい」
「…へたれ」
「あぁ、もう!いいでしょう、勘弁してよ…。これで限界なの」
こういうことに関しては、根性がないなぁ、と思いながらも、真っ赤になった蝶華の顔を見て、本当に限界なのだろうと、ほどほどにしてやることにする。
こちらも姿勢を正し、返事をする態勢を整える。
どんな言葉でも受け止める、そういった気概を感じさせる蝶華の表情に私は、愛されるというのは、こんなにも満たされるものか、としみじみ思う。
だけど…、もっと早く、蝶華が正直に自分の気持ちを私に伝えていてくれれば、この美しい時間は、もっと早くから私のものになったことだろう。
そう思うと、何だか素直に思いを伝えるのはちょっと癪で、悪戯心が湧く。
「私ね、やっぱり…、蝶華の想いに答えられるか分からない」
「…う、うん、そうよね。いえ、いいの、いいのよ…うん」
そう独り言のように呟く蝶華は、明らかに気落ちした様子で、右手に握った包帯を手の中で転がしていた。
「でも――」
本当は、彼女の気持ちに今すぐにでも応えたいけれど…。
もう少しだけ、こんな曖昧な関係を楽しんでもいいよね?
誰かのために空けていた二人の距離を、私から一気に詰めて、蝶華の頬に、一つだけ印を刻む。
何が起こったか分からないでいる蝶華に、微笑みと共に一言告げる。
「蝶華の好きと、私の好きが同じになればいいなぁ…って思うよ?」
真っ赤になった蝶華の顔を見ていると、むず痒い気持ちが込み上げる。
きっと、その日が来るのは遠くないのだろう。
春一番が吹く頃には、いや、もしかするともっと早く、雪どけを待つ必要もないぐらいに…。
言葉を失い、俯いたまま動かなくなった蝶華のことを、ずっと見ていたい気分ではあったが、突然インターホンが鳴って来客を知らせた。
こんなときに誰が邪魔をするのだろう。
仕方なく、硬直したままの蝶華を放っておいて応対すると、どうやら荷物の配達のようだった。
怪訝に思いながらも玄関に赴き、荷物を受け取ろうとしたのだが、表に出た瞬間、その荷物のサイズに驚いた。
目を白黒させつつも、受け取り印を押す。
両手いっぱいに抱えて持たなければならないほどの大きさだ。
中身は何だろうか…全く見当もつかない。
「ゆ、夕陽、何だったの?」と未だに頬を紅潮させたままの蝶華が、照れ隠しなのか、やたらに不機嫌そうな表情をして尋ねてきたので、首を左右に振ってみせる。
茶色い厚紙のようなもので梱包された荷物を壁に立て掛けて、じっとそれを見据える私に、蝶華は低い声で問いかけた。
「何をしてるの、開けないの?」
「う、うん…」
何かが、私にそれを思い留まらせていた。
理性を越えた直感が、肌を粟立たせる。
――彼女の声が、聞こえる気がした。
儚く、囁くような響きなのに、一切の障害もなく、鼓膜に届く彼女の声が。
電撃的な衝動が、体を突き動かす。
気づいたときには、私は荷物の梱包を引き裂くように剥がし始めていた。
隣でそれを見ていた蝶華が、慌てて制止するが、もう、私の耳には何も聞こえていなかった。
少しずつ全貌が明らかになっていくにつれて、あやふやな予想が確信に変わっていく。
全ての外装が剥がされ、露わになったそれを見て、私は、いや、私たちは息を呑んだ。
「これ…」
「あ、あいつ…!」
無数の雪の華に埋もれ、静かに眠る、二人の少女。
幸せそうに微笑む少女たちの右手には、この世界に、その清純な体を縛り付けるかのごとく、鉄の輪が括り付けられている。
互いに重ねた左手には、真っ赤な彼岸花が一輪だけ、肌を引き裂くように咲き誇っていた。
涙の筋が眼尻にうっすらと残っており、二人の幸せな微笑にかすかな影を落としている。
間違いない、これは彼女の…綺羅星亜莉栖が描いた絵だ。
だって、これはあの日の私たちだもの。
そっと絵に触れて、ゆっくりと息を吐き出す。
そうか…。切り絵は、このときのために作っていたのか。
「『最愛の二人へ…』」と背後から呟きが聞こえてくる。
振り向くと、蝶華が白い紙を両手に持って、苦しそうな顔で唇を震わせていた。
「『貴方たちのキューピッドより、愛を込めて――』」
そうか、彼女もまた…。
一つの孤独から、解放されたのかもしれない。
「『――メリークリスマス』」
もう一度、彼女が手掛けた私たちを見返す。
これは、ネクロアートではない。
絵の上手な友が、友の幸せを祈って描いただけの、ただの絵だ。
そして、この世で最も美しい絵だった。
少なくとも、私たちにとっては。
添付された手紙には、絵の題名が小さく記載されていた、
その絵の題名は――。
これにて、この物語は終幕となります。
まず、こんな趣味全開な長編をここまで呼んでくださり、
本当にありがとうございます。
みなさんの温かいブックマーク、評価が
物語を最後まで導いたと言っても、過言ではありません。
楽しんでいただけていれば、それ以上の喜びはありません。
どうでしょうか、みなさんも、誰にも言えない秘密はありますか?
私にも、かつてはそれがあったのですが、
共有する友人が出来たとき、なんだか息苦しさが消えたような気がしました。
余計な話をしてしまいましたね。
お節介は、ここまでにしたいと思います。
なにはともあれ、
みなさん本当にありがとうございました!
よろしければ、ファンタジー百合の中編も載せてますので、
興味があればそちらもどうぞ!
それでは、また会う日まで、みなさんお元気で。
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二人がサブキャラで登場する続編は、
こちらになっております。
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