星降る夜、冬の寒さに、蝶は息絶えるか
これにて、最終章は終いです。
人は、それまでの生き方をやすやすとは変えられない生き物ですよね。
みなさんはどうでしょう?
自分を根幹から揺るがすほどの出会い、経験したことはありますか?
綺羅星の瞳がはっきりと激情の色に染まり、彼女の背後でチカチカと明滅するランタンのように、感情の光闇が切り替わっている。
何とか冷静さを保とうとしているのが、手に取るように分かる。
彼女の全てが詰まっているだろう一室では、やはり仮面を被り切れないのか。
「だから、こんな手段を使って、私を引き込もうとしている。私が後戻りできないようにして…、自分だけが拠り所になることで、私を逃さないようにしている!」
叩きつけるように、冬原は口にする。もう、そこに迷いは微塵もなかった。
「独りになるのが、怖いから…!」
「…ふふっ、よく回るお口ね。貴方が真面目に吐く言葉は、どんな内容だろうと、的を射ているような気がしてしまうから不思議だわ」
「もうそうやって、笑って誤魔化せると思わないで」
ピシャリと言い放った冬原に、綺羅星は貼り付けた笑みを向けていたのだが、少しずつその笑みを崩して、やがて、屈辱に満ちた顔つきへと変貌した。
綺羅星の本性が牙を剥き、自分の喉元を狙っているような錯覚に襲われる。しかし、それは彼女の焦りの表れでもあると感じたので、どうにか体に力を込めて、その場に踏み止まる。
「夕陽…。貴方は一体、どうしたいの」
「今までみたいに、戻りたい」
「それは無理ね、何度も言わせないで頂戴」
「じゃあ、柊を解放して」
綺羅星は、冬原の言葉を聞くと、苛立った様子で視線を天井に向け、額に手を当てた。
「…そうして貴方は一人に戻るのね」指の隙間から、エメラルドがこちらを覗く。「そこは寒くて、暗いわよ。今はいいかもしれないけれど、もう数年もして、社会に出ると嫌でも孤独に気づくわ」
やはり、彼女は孤独なのだ、と冬原はどこか虚しい気持ちになった。
嘲笑を浮かべながらそう発言した綺羅星に対して、冬原は反射的ともいえる勢いで、「一人でいいよ」と答え、さらに続ける。
「それに、暗くても、寒くはないよ」
冬原は、首だけでくるりとこちらを振り向くと、「だって、柊がいるから」と呟いた。
それを耳にした柊は、表情を一瞬だけ硬直させたのだが、徐々に唇が震え始め、瞳は潤み出し、最後には泣きじゃくりだした。
綺羅星は二人を見ながら、浅く笑った。それからしゃがみ込んで、柊に目線の高さを合わせると、ねっとりとした口調で、「今更遅いのよ」と冷徹に告げた。
しかし、自らの嗚咽で何も聞こえなくなっていた柊には届かなかった。
床に足を折り畳むようにして屈んだ綺羅星のロングスカートが、炎のような灯りに照らされて、赤く燃えている。
「夕陽、考え直して。私たちは、同じものなのよ、理解し合える――」
「違う。私たちは、同じものなんかじゃない」
相手の言葉に被せるように、冬原が断言する。
それがよほどショックだったのか、彼女は驚愕したような顔つきで固まり、俯きながら、「そう、そうね…」と独り言のように呟いた。
その瞬間、私たちの関係が決したのだと、冬原は直感した。
もう、戻れないんだ。
三人で過ごした日々は、色々あったが、綺麗な時間だった。
出来れば、ずっとあの時間の中にいたかった。
綺羅星がふざけて、柊がツンツンして、私が困って…。
あぁ、時間は、無常だね。
きっと、変わらずにいられるものなんて、何もないんだね…。
「分かったわ。貴方がどうやっても…私のものにならないことは」失望を越えて、怒りを滲ませた綺羅星が言う。
「分かったなら、早く柊の手錠を外してあげて」
「ふふ、そんなムシの良い話、あると思う?」
そう短く答えた彼女は、立ち上がり際に目に見えぬスピードで、冬原の手元からナイフを奪い返した。
それから、曲芸師のようにくるりと掌の上で回転させてみせ、逆手に持ち替える。
あまりに一瞬の出来事であったため、冬原は、綺羅星が二本目のナイフを用意していたのかと思うほどだった。
「ちゃんと、殺してあげるわ。綺麗にね。でも…、私をここまで惑わせたのだから、楽には死なせないわ、冬原夕陽」
この状況での、唯一のアドバンテージを失い、さらには恐ろしい呪いの言葉までぶつけられ、一歩後退りする。
しかし、彼女はすでに目と鼻の先まで迫っており、逃げ出す余裕もなく、柊の隣に押し倒されてしまう。
「冬原!」
派手な音を立てて、床に倒れ込んだ二人に、柊が涙ながらに叫び声を上げた。
すぐに、二人の動きは止まった。
ナイフを冬原の首元に当てた綺羅星の姿と、顔を真っ青にしながらも、灼熱の意思で瞳を煌めかせている冬原の姿。
「最後のチャンスをあげるわ。死にたくなければ、柊を殺しなさい、夕陽。そしてそれを、本当の貴方が思うままに描きなさい」
ひんやりとした銀の刃が喉元に触れ、ぞわりとした悪寒が全身に走った。
自分が今、死の入り口に立っていることを感じながらも、魂までも弱音を吐くことはなかった。
「本当の私は、ネクロアートが好きなだけの女じゃない…。亜莉栖と、柊のことを大事に思う私だって、本当の私だから」
「ああ、そう、そう、そうなのね。じゃあ、もう本当に殺すわよ…っ!」
アドレナリンが、異常なくらい分泌されているのが分かる。
こんな状況になってようやく、自分で自分の箱の中身を引きずり出せるようになるなんて、思いもしなかった。
日頃は胸の奥に仕舞ってあって、たどたどしくしか扱えない言葉たちも、生死の境においては踊るように口から飛び出ていく。
きっと死に対してある種の美徳と、憧憬の念を抱いていた私だからこそ、こんなふうに、差し迫る死に対して冷静になれるのかもしれない。
普通なら、柊のようにパニックになったりするのだろう。
普通、という単語が自分の中に浮かんだのが、今は死ぬほどおかしかった。
「殺せないよ、殺したら、亜莉栖は一人ぼっちになる」
「ふ、ふふ、愛憎は表裏一体とはよく言ったものね…。貴方のことは大好きよ、それこそ私のものにしたいくらいに。でも、それと同じくらい憎たらしい。私の心の深い部分まで土足で入り込むのは、感心しないのよっ!」
それを亜莉栖が言うのか、と呆れて笑ってしまう。
それが余裕の笑みだとでも思ったのか、彼女は顔を真っ赤にして、空いた片手で私の首を締め始めた。
頸動脈が塞がれる初めての恐怖に、慌てて綺羅星の手を、自分の両手を使って引き剥がそうとするが、彼女の力は想像以上に強く、全く動く気配がしない。
死、という一文字が、暗くなっていく視界と脳裏に無数に浮かぶ。
死ぬのだ、という奇妙な安心感と同時に、柊がこの後どうなってしまうのかという不安を感じた。
咄嗟に首を捻って柊へ顔を向ける。すると、彼女はこちらに片手を伸ばして、何事かを懸命に叫んでいた。
その声が、次第に大きくなる耳鳴りで聞こえないことが、酷く恐ろしかった。
せめて、最期は。
どうにもならないのなら、せめて。
私は、綺羅星の手に爪を立てていた左手を離して、柊へと手を伸ばした。
瞬間、驚いたような顔つきになった柊は、すぐさま手錠のされていない左手を、体を捻って伸ばし、私の手を掴み返す。
きっと、もう彼女も助からないだろう。私の次は柊だ。
手を繋いで一緒に死ねるなら、柊も少しは怖くなくなるだろうか。
感覚のなくなりつつある中、柊と繋がった手だけが、やけに鮮明に感じられた。
まるで、他の部分はすでに死んでいて、彼女と繋がった手のお陰で、この此岸にしがみついているようだ。
柊の名前を呼びたかった。
だが、上手くいかない。
意識が消えかかっている中、唐突に、左手に炙られるような激痛が走って感覚が戻る。
痛みで反射的に体をよじった拍子に、ほんのわずかに、首元の締まり具合が緩む。
熱い、痛い。左手、左手に、ナイフが刺さっている。
綺羅星が手にしていたナイフが、二人の繋いだ掌に突き立てられ、柊が絶叫を上げていた。
涙に濡れた柊の黒曜石を見つめると、本当に彼女が愛おしく、不憫に思えて、私は必死になって彼女の名前を呼んだ。
「柊…っ、蝶華、蝶華!」
私の声に反応した彼女が、大粒の涙を流しながら、求めに呼応するかのように大きな声で私の名を叫ぶ。
「ゆ、夕陽、夕陽!」
柊に名前を呼ばれたとき、綺羅星にそうされたときとは全く違う胸の疼きを感じて、頭がどうにかなりそうだった。
だがそれもほんの一瞬で、ナイフを手放して自由になった綺羅星の手が、今度は柊の首元に勢いよくかかった。
まるでペンチのように二人の急所を締め上げる彼女の手は、ぞっとするほど白く、まるで死人のそれのようだった。
半狂乱になって互いの名前を呼んでいた声が、次第に遠くなっていく。
今度、生まれ変わったら、蝶華が苦しまないでいられる時代になっていればいい。
生まれ持った感性で差別を受けず、苦しむことはない世界。
色とりどりの、個性と自由の世界。
そう、それこそ、亜莉栖の描くネクロアートのように、耽美的で、脆くて、生死が入り乱れていて…そして、そして――。
あぁ…私は、綺麗に死ねる。死ねるのだ。
愛しい友の隣で。
掌に、永遠の象徴のような楔を打ち込まれたまま。
なんて、幸せなんだろうか。
みなさん、これにて最終章は終いとなります。
ある意味、ここで終わっても構わないのかな、と思いますが、
やはり、長い物語の終わりは、幸せであるほうがいいかな、と考え、
エピローグまで用意しております。
ぜひ、そちらまでお付き合い頂けると嬉しいです。
読みづらかったり、もっとこうしたほうが良い、という意見がありましたら、是非お寄せください!
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