例え、星が瞬かなくとも 2
刹那、乾いた音が室内に響いたかと思うと、少し遅れて、自分の右頬に痺れるような感覚と、焼け付くような痛みがやってきた。
そうして、呆然としたまま部屋の隅を見つめた。
小さな蜘蛛が、いそいそと、ランタンの光の届かない影に逃げていく。
まるで自分のようだ、と上の空で思う。
「どいつも、こいつも…」
怒り心頭といった様子の声に、初めは冬原が発している声だとは気づけなかった。
自分が彼女に叩かれたのだと遅れて自覚したときには、口の中に、嫌な鉄の味が広がっていた。
ぽかんとした表情で、柊は顔を上げた。
「勝手がすぎる…!」
わずかに視線を動かすと、彼女の背後に立っていた綺羅星と目が合った。
彼女も、心底驚いた顔つきだったので、場違いにも吹き出しそうになった。
あんな間抜けな顔の綺羅星は、一度も見たことがなかったのだ。
「そんなくだらないことで、私に、殺せとか、言わないで…!」
「くだらない…?」
冬原の吐き捨てた言葉に、脳みそが一瞬で沸騰する。そうして、涙を流したままで、彼女に噛み付くように声を荒げる。
「な、何も知らないくせに、分かったようなこと言うんじゃないわよ!」
「そうだよ、知らないし、分からないよ」
開き直る冬原を怒鳴りつけようと息を吸ったのだが、直後、それよりも早く彼女が口を開いた。
「でも、私に知られたら、死にたくなるぐらい大事な気持ちだったんでしょう?」
「え…」
「じゃあ、ちゃんと私が返事するまでは待っててよ。この、馬鹿」
そう言うと、再び綺羅星に向き直った冬原の背中が、やけに逞しく見えて、思わず何度も瞬きしてしまう。
元々背丈が小さいのに、普段どおり猫背なものだから、私や綺羅星よりもずうっと小さいはずなのだ。それなのに…不思議なものだ。
「だから亜莉栖も、諦めて」
「ふふ、そういうわけにはいかないわ、ここまで来たのだから」
「今なら、私たちは黙っておく」
黙っておくわけ無いだろう、と口を挟みたくなったが、真剣味を帯びた冬原の口調に圧されて、もう静観することしかできない。
「無理よ、もう戻れないわ。家にだって戻らなきゃいけない。時間がないのよ。でもね、ここまで丹精込めて育ててきた画題を、みすみす見逃すわけにはいかないの」
「でも、私は殺さないよ」
「それじゃあ貴方は、また戻りたいのかしら?誰も理解者のいない、一人ぼっちの暗がりに」
その一言に、冬原がかすかに動揺するように身動きする。
「私の求めに応えてくれるのなら、ネクロアートを一緒に続けていくのに相応しい環境を用意するわ。そこで、二人でもっと美しいものを探し続けましょう?どうせ貴方の家族も、友達も、誰一人として夕陽の大事なもののことを理解できない。私ぐらいのものなのよ、本当の貴方と、一緒に生きられるのは」
さあ、と手を差し伸べる綺羅星を、冬原は悲しそうな目で見返した。
迷っている、と私には思えた。
「一緒に生きるのよ、夕陽。私は、そこの弱虫とは違う。貴方を理解できるうえに、貴方を愛していると、必要だと、きちんと伝えられる」
どこか切羽詰まったような口調で、綺羅星はひたすらに言葉を重ねた。
そんな彼女を、冬原はじっと見つめたままで言う。
「亜莉栖、私たちは同じものだって、言ったよね」
「ええ、ええ、そうよ」二度頷き、嬉しそうに綺羅星が返事をする。
「じゃあ、何で柊のことを大事にできないの?」
その一声に、綺羅星が浮かべていた微笑は、一瞬で興が冷めたように消えた。
それでも、未だに冬原のことを諦めていないのだろう、必死で説得を続ける。
「大事なものと言っても、優先順位をつけなければならないときもあるわ。全ては選べないのよ」
「…どうして、私のそれを亜莉栖がつけるの」
「…いいから、私の言葉を信じて、貴方はこちら側で生きるべき人間なのよ」
「亜莉栖は、何でも分かってるみたいな話し方をする」
「貴方達よりは少しだけ長く生きているもの」
ぎゅっ、と冬原が拳を握ったのが分かった。
迷いを断ち切ったのだと、彼女の凛とした横顔から理解する。
「違う、自分のことさえよく分かってない人間が、他人のことなんて分かるはずもない」
「それは…どういう意味かしら?」
明らかに機嫌を悪くした綺羅星が、その瞳に冷徹な輝きを宿したままで冬原に一歩、また一歩と近づいた。
「冬原…、そいつから、離れてっ…」
冬原は、慌てて警告した私の声を無視した。
彼女は相手が眼前に迫っても、ただ一途に、相手のエメラルドを睨みつけていた。
「私は、逃げない」冬の星空のように、鋭く、冷たい強さだった。「私の秘密を知っても、そばにいるって言ってくれた二人からだけは…、絶対に、逃げたくない」
ゆらり、と綺羅星の瞳がかげった。動揺したのかもしれない。
大きな身長差に怯まない冬原は、毅然とした口調できっぱりと言い切った。
「一人の暗がりが怖いのは、亜莉栖のほうでしょ」
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