星は、語る 1
長文駄文が続いておりますが、
お付き合い頂いている方々、
ここまで来たら、どうか、最後まで共に参りましょう。
「私が、初めてネクロアートを描いたのは、8年前だった」
そう言って伏せていた写真立てを起こすと、そこには、安っぽい紙に素人が描いただろう絵が飾られていた。いや、絵と呼ぶにはかなり拙いものであるし、まともな道具で描かれていないのだろう、インクは滲み、紙はぐしゃぐしゃになっていた。
だが8年前というと、彼女が年齢をサバ読んでいたことを加味しても小学校高学年か、中学生に成り立ての頃だろう。
その年頃の人間が描いたと考えれば、上手な方には分類されるはずだ。
「え…」呑気に絵の感想を考えていた冬原は、衝撃的な事実に気がついて息を止めた。
つまり、彼女はそんな幼い時分から人を殺めていたというのか?
「ねぇ、この絵、何の絵だか分かるかしら?」ぽつり、と尋ねる。
何の絵、と聞かれても…。
あまりに暗い色彩に、月明かりのようなおぼろ気な青い光。それから、おそらくは海。
あぁそうか、夜の海か。
だが、中央に映っている人影らしきものは大した特徴もない。かろうじて、倒れている人間だということだけが…。
いや、これは、両足が無い――。
冬原は、その絵が一体何を描き出しているかに気がついたとき、全身を駆け巡る電流と、戦慄を抑えることができなかった。
夜の海、月の光、横たわる足のない人間。
まさか…。
「人魚…」夢の中みたいに呟いた言葉に、綺羅星が深く頷いた。
「私は12歳のとき、父の生まれた国を訪れた。ちょっとした里帰りだったのよ。そして、ヨットでクルージングを楽しんでいた。優雅にね。ちょっとした冒険で済むはずだったのに、私たちはそこで遭難した」
「遭難…」
ふと脳裏に、あの美しい人魚の絵に描き出されていた、破れたゴムボートが浮かんだ。
「嵐でもないのにヨットが横転して、母と父はそのときにはいなくなってしまった。きっと海に還ったのね。いつも忙しない人たちだったから、運命が死に急いでいる両親を迎えに来たのよ。でも、私たちはそれに巻き込まれた」
私たち、と彼女は今告げた。それはきっと…。
「お姉さんがいたの?」
「…ご名答」
綺羅星は冬原の問いに、優しくも儚い面持ちで頷くと、大切な思い出を振り返るように、耽美的な声音で続けた。
「ええ、嘘を吐いていてごめんなさい。姉は、とても出来た人でね、憧れだった。姉さんは、ヨットが転覆するときもすぐに救命用のボートの準備をして、私を乗せてくれたの」
「とても…優しい人だったんだね」
ヨットが横転して転覆しかかっている、落ちる先は底の見えない海原なのだ…。そんな未曾有の恐怖の前に、他人を思いやるなんてこと、私には無理だ。
綺羅星は目を細め、深く頷いて、再び話を続けた。
「ええ、ええそうなの。でも…」
一旦言葉を区切った綺羅星は、先ほどまでの、魂の隅々まで陶酔したような笑みを葬って、代わりに無感動な、機械的な顔つきになった。
それから、砂利を噛んでいるかのように、淡々と口を動かした。
「きっと、ヨットの荷物にでも惹かれてやって来たのでしょうね。あの頃の私には、鮫なのか、シャチなのか、はたまた違う魚なのかも分かりはしない生き物に襲われて、そのうちゴムボートは穴だらけでダメになったわ。後は、何とか岩礁まで泳いで辿り着いたけれど…」
サーフボードなどを、獲物の亀や海棲哺乳類と間違えて
怖かっただろうに、と冬原は他人事のように思った。
話があまりにも悲劇的で、映画のようだったため、もう現実感を失った物語になりつつあった。
もしかすると今自分は、彼女の作った映画の試写会のために、特等席で、そのあらすじを聞かされているのかもしれないとさえ思った。
「姉はもうダメだった。岩礁に手を掛けたときには、死んでいたわ」
「そんな…」
「ねぇ、そうして両足のない姉を引っ張り上げた私が、震えながら日中を過ごし、燃える夕陽を見送って、月が顔を出してから最初に考えたことって何だったと思う?」
その思いがけない必死な問いかけに、冬原はただ首を左右に振る。
「私はね、『腐ってしまう』と思ったの、分かる?あんなに綺麗で誇り高かった姉の体に、どこから湧いて出てきたかも知れない、小汚い虫どもが這い上がって、腐り落ちていくの!ねぇ、こんなにも悲劇的なことがある?こんなにも気高い人間を侮辱できることが、この世にある?だから…。だから、ポケットの中の、濡れてぐしゃぐしゃになった紙に、インクが滲み出しているペンを使って必死に描いたの。あの日の光景を忘れないために、姉の美しい姿を永遠に切り取るために!」
説得するような、縋り付くような叫びを受けて、冬原は思わず一歩後ずさる。
綺羅星は肩で大きく呼吸していたのだが、少ししてようやく落ち着いたかと思うと、再び地の底から響くような声で、過去を語り始めた。
「何とか自分だけが助かって、親戚に引き取られた後、私は必死に絵の勉強をしたわ。つまらない人物画、止まったままの風景画、死を超えられない抽象画…。腕を磨くためとはいえ、芸術とは程遠い物のために時間を摩耗することは、大きな苦痛を伴うものだった」
ふと気がつけば、部屋の隅で死んでいた小さな蜘蛛が、一回り小さな蜘蛛に貪られていた。
ドロドロになったジュースを堪能しているらしい小型の虫は、まるで自らが、この部屋の新しい主になったと言わんばかりに、堂々と昼飯にありついていた。
もしかすると、彼女もこうして喰われたのかもしれない。
自分の中に住まう、怪物に。
そして気がつけば、その怪物は周囲の人間にすら手を伸ばし、貪り始めたのだ。
「でもその影で、私はあの絵を、何度も何度もキャンバスの白に叩きつけた!日に日に薄れゆく記憶に反比例して、培われていく技術。それらの全てが、奇跡的に重なり合って生まれたのがあの絵なのよ。でも、結局、あの日の姉を、切り取って貼り付けることはできなかった。記憶が風化するのが早すぎたの、間に合わなかったのよ…」
自分の背後で柊が小さく呻いたのが分かった。ただ、かすかに身じろぎしただけで、昏倒した意識が覚醒したわけではないようだ。
今にも泣き出しそうな綺羅星の声に、胸の内側を削り取られる感覚を覚えながらも、冬原は、
決死の形相で短く反論する。
「でも、だからって、誰かを殺す理由にも、説明にもならない…!」
そうだ、いくら彼女があの絵の完成を願おうと、もうどうにもならない。
色褪せた記憶は、不可逆的なもので決して戻りはしない。
当然、柊を殺して、絵の中に閉じ込めたところで、目的とは関係の無い絵が増えるだけだ。
しかし、綺羅星は苦笑いのような表情になってそれを否定すると、続けて喉を震わして言ってみせた。
「私は、あの月夜を超える瞬間をずっと探しているのよ。そうすることで、私はきっとあの絵を、もっと、もっと本物に近づけられるもの」
「お姉さんの死を超えるものが、柊にあるなんて思えないよ」
「それはそうよ、私が柊を殺してネクロアートを作ったところで、越えられるわけないじゃない」
「だったらどうして!」
「半端な記憶と実力しか持っていなかった私が、どうしてあの絵を、あそこまで完成に近づけられたのか…夕陽に分かるかしら?」
知るわけがない、人の中身なんて、分からないのだから。
爪が肉に食い込む痛みで、異様な力を込めて自分の拳を握っていたことに気がついた。
冬原は、少しでも冷静になれるようにと、息を深く吐く。
そうだ、冷静になって聞かなければ。そして、反論するのだ。
だって、今から綺羅星が口にするのは、『柊を殺してもいい』理由なのだから。
綺羅星は両手を重ね、自分の胸に当てた。そうかと思うと、神にでも祈る、敬虔なシスターのように目をつむり、やや頭を前に傾けて言った。
「それはね、私が姉を愛していたからよ」
「あ、愛…?」
冬原は、そんな素っ頓狂な返答に耳を疑ったが、綺羅星の顔つきは真剣そのものであった。
いつまでも祈り続けている綺羅星は、「あのクオリティは、そうとしか説明できないわ」と断言した。
だが、そんなはずはない。いや、確かにそれも要因の一つなのかもしれないが、『愛』だなんだというのは、さすがに滑稽がすぎる。
あの絵をあそこまで昇華させたのは、綺羅星の、その絵に対する病的なまでの執着と、本人の能力によるものだ。
死をも厭わない、と綺羅星は口にしていた。
対象へ命を捧げられることが、『愛』なのか?
そんな物騒なまでの破滅的願望が、ネクロアートをあの高みにまで近づけたとは、思いたくない。
私の愛するネクロアートは、確かに倒錯的なものかもしれない。しかし、決して、独りよがりが生み出す怪物の卵であってはならないのだ。
綺羅星は所詮、ネクロアートを利用したにすぎない。
自分一人だけが取り残された孤独から、生き延びるために。
愛する姉にもう一度会いたいという、どうにもならない願いのために。
一心不乱に描き続け、その果てに、現実から逃げ出した。
綺羅星は、姉の『死』を拒絶するために、この十年近い時間、本当の『死』を作り続け、そして描き続けたのか。
思わず、鼻を鳴らして嗤ってしまう。
彼女は、本当に――。
「…馬鹿じゃないの」
私の思考を、そのまま鏡に写したかのような言葉は、自分の口からではなく、私の少し後ろから、薄闇を切り裂いて聞こえてきた。
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