蝶の羽ばたきでは、星には届かない 2
絶句した。いや、正確に言うと、驚きで思考がショートしていた。
それは、彼女の言葉に衝撃を受けたのではない。
彼女の左手に、獣の牙のように鋭く尖った、銀の刃が握られていたからだった。
灰色の狼の毛が混じったような髪の毛が、ぱさりと彼女の片目にかかる。それは、彼女を酷く残忍な生き物に見せた。
口をぱくぱくさせていた柊は、綺羅星が繰り返した質問に答える余裕など、持ち合わせていなかった。
冗談に決まっている。きっとこれは、パーティーのサプライズ余興で、綺羅星が私をからかっているに違いない。
扉の向こうに冬原が隠れていて、悪戯っぽい笑みを浮かべているのだ。
そう考えれば考えるほど、かえって、自分の中にある本能が、そんな空想を否定する。
これは、冗談で持ち出せる代物ではない、と煌めく銀のナイフへと視点を落とす。
すると彼女は、その危険性を誇示するように、刃を斜め上に向けた。少しでも力を込めれば、今にも私の腹に突き刺さり、風穴を空けてしまうことだろう。
かすかな後退を続ける柊を、綺羅星がすり足で追い詰める。二人の体は、暗幕の下りた大きな窓にピン留めされるように張り付いた。
「酷い…冗談ね」
ようやく喉から出た声も震えていて、情けのないものだった。
その言葉を聞いた綺羅星は、口を閉じたまま喉だけで含み笑いを漏らすと、完全に体を密着させて、その刃を衣服に穴が空かないギリギリの強さで押し付けてきた。
少しでも体が動けば、血で服が赤く染まりそうな気がして、呼吸が一気に荒くなる。
綺羅星の瞳が、私の恐怖と混乱を吸って、怪物の大口のように広がった。
「だ、大丈夫よ、殺したりしないから、そんな顔をしないで、お願い」
自分では分からないが、きっと今の私の顔は、酷く怯えているのだろう。
それにしても、落ち着きのない語調、そして抑揚に富んだ喋り方は、綺羅星らしくなかった。何かに追い詰められるような、あるいは必死に何かを抑えているかのようだ…。
「あぁもう、駄目じゃない、ほ、本当、そんな顔をされたら我慢できなくなるわ…」
頬を上気させて、高い身長を屈め、下から上目遣いに見上げる彼女の目には、明らかに狂気を孕んだ鈍い輝きが秘められていた。
ぬっ、と顔が近づいてくる。
反射的に目をつむると、閉じた目蓋の上にキスを落とされて、困惑してしまう。
「な、何を…!」
「言ったでしょう?貴方のこと、結構タイプだって…。ね、ちょっとだけ、楽しんでおく?」
息を荒くして顔を近づけてくる綺羅星に、ほぼ反射的な抵抗をしてしまう。
「やめてっ!」
物が置かれていないぶん、やけに声が反響する。
拒絶されたというのに、綺羅星は謎の興奮に身を震わせて、微笑んだ。
足の力が抜けて、うずくまりそうになりながらも、次第に押し付ける力が強くなっている切っ先の恐ろしさに、口の中がカラカラに乾いていく。
「泣いているじゃない…かわいそうに。でもね、しょうがないの、しょうがないのよ?ここまで来たのだから、ここまで…、そう、我慢しなくちゃ、ねぇ?貴方もそう思うでしょう?」
空いた右手で、私の太ももをスカート越しに触れる綺羅星。彼女は、思い出したかのように、また最初の質問を口にした。
「そうよ、忘れていたわ。柊、いつがいい?死ぬ季節はいつがいい?」
「ちょ、っと!触るなってば…!」
「柊、ねぇ、お願い答えて。夕陽は、冬が良いって言っていたわ」
その言葉を聞いた瞬間、柊の脳内に、最悪の想像が浮かんだ。
冬原のか細い首筋に吸い付き、赤い痕跡を刻みつける綺羅星。
それから彼女は、吐息を漏らして上下する、冬原の喉元に銀の刃を――。
「…アンタ、冬原に何かしたんじゃないでしょうね」
「え、ああ…。ふふ、今はそんなことどうでもいいのよ、いいから、いつが良いって聞いているでしょう…?ねぇ、いい加減に答えてくれないかしら!」
――どうでもいい?
この野郎、言うに事欠いて、冬原のことをどうでもいいなんて…!
私からしたら、お前の考えていることのほうがどうでもいい!
唐突にヒステリーを起こした綺羅星に対し、恐怖や怯えよりも先に、憤りの衝動が、ゴムを限界まで引き絞った反動のように突発的に湧き上がる。
柊は、綺羅星を凌駕する大声で怒鳴り返した。
「知るかぁ!そんなもん!」
柊の怒号を耳にした綺羅星は、目を丸くしてから、乱暴な手付きで柊の首元に手をかけた。
「そんなもん?そんなもんですって…!」
頸動脈が締まっていき、頭頂部の辺りに熱が集中する。目の裏側は、破裂しそうなほどの圧迫感に襲われていた。
呼吸の出来ない閉塞感が、頭の周りの膜一枚隔てた先に充満し、その隔離された空間から、瞬く間に酸素が無くなっていくのを感じる。
綺羅星が、ナイフを持っていることなど忘れてしまうほどの苦しさに、手足をばたつかせて、その手を振りほどこうとするが、ナイフを放り捨てた綺羅星に、両手で首を絞められてしまう。
本気で絞殺するつもりなのかもしれない、という恐怖と、先ほどの怒りがミックスされて、無闇やたらな力で彼女の体を殴打する。
しかし、綺羅星はそんなことは意にも介さず、ただひたすらに、執拗に両手の力を強くした。
「私は、私はね…!そんなもののために生きているのよ、貴方には分からないでしょうねぇ?そうよ、だからこうなっているのよ?貴方に少しでも、ほんの数ミリでも『これ』が分かれば、一緒に連れて行ってあげても、良かったのだけどねっ…!」
ワケがわからない、と反論したつもりの口から、透明の涎がつたい落ちる。
世界が明滅する。
物のないこの部屋で、音が無限に反響し、光が際限なくフラッシュを瞬かせていた。
死ぬのかもしれない、とぼんやり思う。
脱力していく全身から、私という私が、全て涎と同じ透明の液体になってこぼれ落ちていく。
だらりと垂れ下がった私の両手が、もう、誰のものかも分からなくなっていく。
気づけば、私の体は粗大ごみのように床に横たわっていた。
ごみ、そう、ごみだ。
たちの悪いごみだ、私など。
業火で炙ったところで、煙だけでなく、鼻を捻じ曲げるような異臭を放つ。
プレス機に押し込んだところで、汚らしい体液と汚物を撒き散らす。
汚染物質を封じ込めるため、隔離して土に埋めたところで、私の精神に宿る醜悪な本質は消せはしない。
本質、そう本質だ。
冬原夕陽を、いつまでも、意地汚く思っている。
情けのない、消してしまいたい自分。
どうしたら、綺麗に消えられるのだろうか。
跡形もなく消えてしまう方法があれば、多くの人間が確実に救われるのに。
いや、分かっている、消し去ることなどできない。
自分から逃げてばかりで…、なのに、諦めきれずにいる醜い私のことは、簡単には消せない。
きっと、死んでも冬原のことが頭から離れないまま、地獄に落ちる。
こうなるぐらいなら、何でもいいから、彼女に痕を残しておけばよかった。
そしたらこんな私だって、心置きなく地獄に行けたかもしれない。
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