戻れない道の上で
これが、最後の幕間になります。
次の節からは、最後まで一気に話が進みます。
あの日を境に、私の世界は変わってしまった。
表側としては何一つ変わっていなかったが、その裏側にある生活は、確実に禍々しい闇に侵食されつつあった。
綺羅星は、たまに、ぽつりぽつりと思い出したかのようにあの事件について私に話をした。
彼女は定期的に、ああした忌むべき行為に手を染めていること、そしてその相手は、どうやら綺羅星が決めているわけではないということ。
余程の失態がなければ、何者かが彼女の身柄を保証していること。
そして、その何者かは、彼女がネクロアートを手掛けることを認めているということ。
今回は、その標的があの男であったということ。
私や柊と仲が良くなったのは、本当に偶然だったということ。
さらに、特筆すべきか分からないが、やはりこの女は私たちより2、3歳は歳上であったということだ。案の定、年齢をサバ読んでいたのだ。
どのみち、綺羅星の語る話の一体どこからが真実で、どこまでが偽りなのかは、明確には断言できない。
どれもこれも嘘らしく聞こえたし、ときには全て真実を物語っているようにも思えてた。
12月も2週目に入り、生徒会選挙を目前に控えた今、いよいよ柊は忙しくなって、共に過ごせる時間が減ってしまっていた。だが、柊自身が、私たちから距離を置いているようにも見えた。もちろん、所詮は私の憶測だ。
「どうかしたの?」言葉とは裏腹に、無関心な口調。
小さな木椅子に腰掛けて、こちらを上目遣いで見つめる綺羅星と目が合う。長い足がとても窮屈そうに、机の下に収まっている。
「いや、何でもないよ」
冬原は抑揚なく返答をしながら、手元にまとめた絵画を、綺羅星に指定された箱の中に揃えて詰め込む。
まともな照明を点けない彼女の私室では、電気ランタンが唯一頼りにできる光だ。そのため、部屋の大部分が薄暗闇に包まれてしまっている。
冬原は綺羅星の頼みで、床に散乱した絵画や、棚のあちこちに不規則に放り込まれていた絵画を綺麗に整頓していた。
そんな雑用を、と初めは不服に思ったものだが、これがいざ始めてみると、彼女の作品を鑑賞するのに効率的な方法であったことに気がついた。
そのうえ綺羅星の絵を、ある程度の精度でカテゴライズして片付けることができる者など、そうそういないことも悟った。
「手際が良くて助かるわ、ありがとう」
「まぁ、どういたしまして…」
ちょいちょい、と手招きされる。一体何の用だろう、と一応綺羅星に近づく。
「耳を貸して」
指示に従い、少しだけしゃがむと、彼女は耳ではなく私の頬に顔を寄せ、ちゅっ、とキスを一つ落とした。
「ちょっ」慌てて体を離す。
驚いた様子の私を見て、綺羅星は嬉しそうにクスクス笑うと、作業に戻りながらついでみたいに口を動かした。
「ご褒美よ」
「ま、また馬鹿にして…」
相手にしては、こちらの負けだと私も素早く作業に戻る。
「週末は生徒会選挙ね」
「え、うん。どうしたの、急に?」
「どうしたのって、柊が出るのよ?」
「出るって言っても、まともな対抗馬がいないんだから…。消化試合みたいなものでしょ」
「分からないじゃない、ダークホースがいるかも」
「柊は大丈夫だよ、絶対」
まるで柊に落選してほしそうな物言いに、かすかな苛立ちを覚え、目の前の人間が殺人鬼だということも忘れて、強い語調で返す。
綺羅星はそれを聞くと、嬉しそうに笑った。
「そんなに怒らないで?」
「別に、怒ってないけど」
綺羅星は、私をからかいつつも、手先の動きを全く止めようとしない。
作業ついでに会話していることは別に何とも思わないのだが、何をそんなに真面目に作っているのか気になってしまう。
綺羅星の手元は、ランタンの逆光になっていてよく見えなかったので、やや右側に回り込んで覗き込んだ。
私は、作業の内容を確認すると、ちょっと呆れたようにため息を吐いた。
「綺羅星ってば、また、切り絵?」
ここ数日間、ずっと綺羅星はこの調子だった。
私に物の片付けをさせては、自分は延々と切り絵を繰り返し、雪の結晶を無数に生み出し続けている。
その様は、電源が落ちなくなってしまったマシーンのように不気味で、不安を煽るものだった。
何に使うのかを尋ねても、返ってくるのはいつだって曖昧な微笑みだけだったからだ。
「綺羅星ではなく、亜莉栖でしょ」と本気で嫌がるみたいに、眉をひそめる。「全く、何度言わせれば分かるのかしら」
じっと、私にプレッシャーをかけてくる綺羅星。
慣れないから恥ずかしいが、仕方がない。
「ごめんってば、亜莉栖」
その返答に満足そうに笑った綺羅星が、急に話題を変えた。
「もうすっかり冬ね」
「まぁ、そうだね」
「冬は、好き?」
意外と普通の話題も口にするのだな、と私は思った。
「まあ、冬生まれだから」と大した理由にもならない理由を並べる。
「死ぬなら冬?」
「え?」
「春夏秋冬、いつ死にたい?」
ふと気がつけば、彼女は作業の手を止めて、じぃっとこちらを見据えていた。
あぁ、やっぱり彼女らしい。
その返答次第では、今すぐにでも暗幕が下りて、この部屋で行われている陳腐な劇が終わりを迎えてしまいそうだ。
そういう、恐怖の影を感じさせるミステリアスさが、綺羅星には最初からあった。
だが、ここ数日間、この異常な薄闇で、異常な興奮を駆り立てる作品に囲まれて過ごしていた私は、すでにそうしたまともな危機感のようなものを喪失してしまっていたようだ。
何の躊躇いもなく――それこそ、夕食のメニューをオーダーするかのように気軽に答える。
「冬、かな」
彼女相手であれば、こんなやり取りも、相手の反応も気にせず出来るのだ。
もちろん、綺羅星の不穏な陰りに、微塵も気が付かないほど愚鈍ではないが、それでも、私には、もう後戻りできる道がないことを知っていた。
あの日、彼女を受け入れ、そして受け入れてもらえたと感じた以上、私も今や半人半妖の怪物だ。
綺羅星は、私の返事に深く頷くと、優雅に微笑んでから頬杖をついた。
「私もよ。やっぱり、気が合うわね」
理由を尋ねようと綺羅星に顔を向けるも、彼女はまたすぐに作業へ没頭し始め、私が何と声をかけても反応しなくなったので、諦めて、こちらも片付けに戻ったのであった。




