同じ暗がりに魅せられて 2
好きなものが同じ人に出会ったときの、
純な感動って、間違った方向に進むと危ない気がします。
表情の見えない角度なので、一体、彼女がどんな感情で問いかけているのかは分からない。
声にしても、いつもの無感情な語調であったため、いよいよ今の彼女は、のっぺらぼうという怪物に近しい。
女が今振り向けば、それだけで地獄の蓋が開き、そこに相応しい醜い怪物の顔になっているかもしれない。
そんなことを夢想してしまうぐらいに、表情は見えずとも、これまでの彼女の態度は、燃え盛る狂気を滲ませていた。
どう思う、と聞かれても…。
私はもうこの絵を、ただの芸術品として眺めることは出来ない。
当然だろう、自分にとってこれは、忌むべき光景となりつつあって、吐き気を催すほどにネガティブなイメージに結びついてしまっている…。
しかし…。
しかし、どうだ。
本当に、それだけか?
自らの内奥に潜む目の前の怪物と同種の何かが、この絵を称賛しているのを、気づかないフリをしているだけではないのか?
もしも、私が絵画の成り立ちを一切知らぬままに、この場に立っていたとしたらどうだ?
何の躊躇も、恐れもなく、自分が求めているものだと、感極まったのではないのか。
この女に抱きついて、自らの孤独が、本当の意味で終わったのだと、落涙さえしてしまったのでは?
単に、生々しい死が付随していることによって感情が波立っている。いや、極論を言えば偽っている、と言い切ってしまってもいい。
目の前の物の怪が、私の体の向きをくるりと変えて、真っ向から視線を交えられる形にする。
薄暗い部屋の中で、その両の目だけがぼんやりと浮かび上がるように輝いている様を見て、私は確信する。
私は、この怪物と同じものになるのが怖いのだ。
人間を辞めてしまっているかのような、
純粋な感情だけで動いているような、
そんな、おぞましい生き物。
自分の感性に素直に従うと、彼女と同じカラクリ仕掛けで生きていることを認めてしまうようで、背筋が凍りつくほどに恐ろしかったのだ。
「言わなくても分かるわ、夕陽。貴方が何をそんなに恐れているのかも」
すっと、彼女の雪のように白い手が私の頬に伸びる。傍から見ると、血の気が通っていないように思えた掌だったが、触れられると確かな熱を感じる。
「でもね、どんなに貴方が拒んでも、即答できなかった時点で私の勝ちなのよ」
「…そ、そんなの」
「こんな絵、まともな人間は到底受け入れられない。直視すらできない。なのに、夕陽はどう?」
「わたし、は…」
「きっと貴方が感じているものは、幼い男児が、予期せずして、女性の裸体を見てしまったときのような、戸惑いと、本能的な好奇心…。それと、形ばかりの倫理の壁にすぎない」
次第に高ぶっていく女の語調に、全身の肌が粟立つ。同時に、抗えぬ感情の機微を見透かされたようで、ゆっくりと、しかし確実に逃げ場が失われていく。
「もう一度尋ねるわ、この絵…貴方の心はどう感じたのかしら?」
どこにも逃がさない、彼女の瞳はそう唱えているようだった。
あぁ、駄目だ。何もかも見抜かれている。
彼女は嘘を吐く必要がないことを、これ見よがしに知らしめて、私の脆弱な魂を揺さぶってくる。
今まで誰とも共有できなかった私の孤独に対して手を差し伸べて、私を、自らの住まう地獄よりも恐ろしい暗がりに引き込もうとしている。
最悪なのは…。
もう私自身、その暗闇に抵抗する気が起きぬ程に魅力を感じている、という点。
小刻みに震える青い唇が、まるで自分の物ではないかのように蠢き、己が心の裏側に宿った言葉の蕾に花を咲かせる。
「…素敵だよ、綺麗な、独善的な輝きの中にあって…私も――」
女は私が紡ぎ出す言葉を、喉を鳴らして待っていた。
あたかも、自分の期待している言葉が飛び出してくると知っていて、それを心待ちにしていたかのように。
「――こんなふうに眠りたい」
涙があふれていた。
理由は分からなかった。
分からないほうが、幸せだと気づいていた。
無知の暗がりは、やはり心地良い。
目蓋を閉じたときにだけ見ることの出来る、自らの心の深淵に、この身をなげうって、綺麗なまま自分のまま、永劫の眠りにつきたかった。
女はその言葉を耳にして、瞳を伏せた。
その仕草は一見、深い悲しみに沈んでいるようにも見えたのだが、直後に予想が裏切られて、涙はより激しくこぼれ落ちた。
「ふふ、ふふふふ…」
逆放物線状に刻まれた歪極まりない微笑みから、邪悪さと神聖さを同居させたような笑い声が上がる。
それだけで、いかに彼女が、私の回答に満足したのかが伝わってきた。
彼女が私の頬に添えた掌に、いくつもの涙が水滴となって降り積もっていく。
「ふふふ、やっぱり、私たちは同じものね。同じ暗がりに魅せられているのよ。それこそ、己が身を滅ぼすことも厭わないほどに…」
感極まった様子で瞳を煌々と輝かせた彼女は、ぐっと顔を寄せて、白い掌と、私の頬の間に溜まった涙の湖を、赤い舌を伸ばして舐め取り、すすった。
いやらしい音を立てて、私の涙を延々と飲み続ける彼女は、それこそ、こちらの涙が枯れるまで舌を動かすことを止めなかった。
女の行動は淫らで艶かしく、下品なものであった。
しかし、聖女のように儚く、美しく、私の両目に映ってしまったこともまた事実で、高鳴る鼓動を抑えられない。
彼女の姿は、言語化することの出来ない、私にとってのある一つの完成形であった。
泣き続けたことで軽い頭痛が生じていたものの、目の前で、キスをするように唇を頬に寄せていた女の魔性の前には、些細な問題だった。
チュッ、と最後に彼女は、本当に口づけを私の頬に落とす。
「私の…、私たちの求める最高の芸術のために、力を貸してもらえるかしら?」
「最高の、芸術?」
「そう、ネクロアート愛好家は、世界中にいるわ。貴方も、私たちのネットワークの一員になってほしい。もちろん、今直ぐに決めろとは言わないわ」
「…貴方は、誰なの」
「どういう意味?」
「貴方は本当に、今まで私が会っていた綺羅星亜莉栖なの…?それとも、綺羅星の姿をした悪魔…、彼女の内側にある残虐な人格か何か?」
その問いを耳にして、女は愉快そうに大声を上げて笑った。その仕草が、本当にただ、『楽しい』というだけの理由でされたように思えたのが、一番恐ろしかった。
「ふふふ、はは!残虐な人格?例えば、ジキルとハイドみたいに?じゃあ、私はハイド?それともジキル?」
女は、目にうっすらと涙を溜めながら、首を左右にこてん、こてんと倒し、また一人悦に入って、笑い声を大きくした。
「残念だけれど、私は一人よ。そもそも、どの自分が本物かなんてものはないの。貴方の知っている綺羅星亜莉栖も、私の考える自分も、どちらも偽物ではない」
彼女はそこで言葉を区切ると、何を思ったのか、次は私の額にキスを落とした。
反射で目を閉じた私に向けて、女は続ける。
「ただ、人間の本質というものは様々な側面を持っていて、貴方は、その極一部の面しか見てはいなかった、というだけのことよ」
それからゆっくりと首元に添えられた女の手は、いつまでも優しい手付きで肌を擦っていた。
私はきっとこの日、本当の意味で綺羅星亜莉栖という人間に出会ってしまったのだ。
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