同じ暗がりに魅せられて 1
最終章、始まります。
ここまでお付き合いくださっている方、
本当にありがとうございます。
その美しい女性の顔をした怪物は、電気ランタンの光を受けて、艶やかな陰影をその面に浮かび上がらせていた。
かつては絶世の輝きを放っているように思えたエメラルドも、赤黒ずんだこの部屋においては、今や毒々しい花弁にすら思える。
口元には、三日月が上から押さえつけられたような形の薄ら笑いが張り付いており、目を細めるのと連動して、両端が角度を変えるのがおぞましかった。
心臓がけたたましく早鐘を打ち鳴らすが、逃げ場がないとすぐさま判断し、諦観した心が、自分の足を絵の散乱した床に打ち込んでいる。
彼女は、まるでこちらが悲鳴を上げるのを心待ちにしているかのように、じっとりとした眼差しのまま動かない。
勝利を確信した獣が、追い詰めた獲物をなぶり殺さんとしている。そんな姿を彷彿とさせる女の佇まいに、全身が今にも震えだしそうになる。
何とか声を絞り出そうと口を開いても、喉の奥に異物でも詰まったかのように、吐息一つもこぼれはしない。
そんな冬原の状況を見透かしたかのように、女は禍々しい笑い声を口の隙間から漏らした。
「ふふ、こんばんは、冬原」
その声の何と恐ろしいことだろう、そして、何と美しい響きであったことだろうか。
この異世界じみた部屋の一角で、そこに住まう女郎蜘蛛が張り巡らせた巣に、自分は捕まったのだと、今になってようやく悟った。
「ダメじゃない、勝手に人の部屋に入ったら」
謝罪の言葉も、一度彼女と目が合ってしまえば、恐ろしくて吐き出すこともできない。
自分自身の影にすら縋り付きたいのに、ランタンの明かりがあまりにも弱く、床に伸びた影は曖昧で、今にも消えてしまいそうだ。
どうすればいいのか分からないまま、女に見つめられる時間だけが、こんこんと灰のように降り積もる。
ついに女が一歩前に出たことで、反射的に冬原は一歩後退した。体がちゃんと動いたことが不思議だった。
直後、鈴のような笑い声が頭上から振ってきて、もうどうにもならない、という思考停止の結論ばかりが、泥水のように湧き上がってきた。
彼女の体が眼前まで迫った瞬間、反射的に目を強くつむってしまったが、彼女はそのまま冬原の横を通り過ぎた。
「来なさい、冬原」
そう命じられて、ようやく瞳を開けた冬原は、彼女の姿を探した。女は、十歩ほど先にあるランタンの置かれた机のそばに立っていた。
机の上にはランタンと、キャンパスノート、様々な染料、倒れた写真立てが不規則に散乱していた。これだけで、本当の彼女の居住スペースはこの部屋であることが窺える。
彼女が手招きするのが見える。冬原は、普段の三倍近く重く感じる体を引きずって、どうにかその傍らまで移動した。
冷たく歪んだ眼差しをこちらに向ける女が、やけに優しい声音で告げた。
「どう、私の部屋は…素敵な部屋でしょう?」
果たして、これを部屋と呼称していいのかは抜きにして、確かに興味深く、惹かれてしまうものを感じたのは否定できない。だが、状況が混沌に満ちすぎている。
そもそも、なぜ彼女は、ネクロアートについて、ずっと黙っていたのだろうか。
「言葉も出ないのかしら」まるで、蛇口を捻っても水が出ない、とでも言うかのように呟く。
彼女はランタンを片手に取ると、布の掛かったキャンバスの前に移動した。
揺れる光が、女の影を巨大化させて壁に投影する。
その翠の瞳がこちらを誘うように動いたため、何かのマインドコントロールでも受けたかのように、無条件で女の後をついて行ってしまう。
女は布の端を指で小さく摘むと、「ねぇ、見たい?」と艶かしく囁いた。
何も答えられず、ただ黙って女の指先を見つめる。
「ふふ、可愛いわねぇ…。何が何だか分からない、夢うつつといった気分なのでしょう…?心配しなくとも大丈夫、きっと気に入るわ」
そう言うと、女は躊躇いなくするりと布を引き剥がした。
重力に引かれて自然に落下したみたいにも見えたが、間違いなく、女の白い指が奪い去ったものだった。
一瞬で、何が描かれているのか理解できた。
当然だ。あの光景はきっと、今後の人生何が起こったって、一生消えることはないと断言できるほどショッキングなものだったのだから。
首元と両足の付け根を真っ赤に染め、棺桶の上に横たわる男の姿。
月光を浴びてきらめく傷口から、赤いコスモスが、まるで根から命を吸うように咲き誇っている。
そして、…男の胸元には、その花びらが手向けのように降り注いでいた。
あの夜の光景がカメラのフラッシュのように蘇り、麻痺した脳内に悠々と広がる。
誰も知らぬはずの瞬間を克明に、しかし、幻想的に描き出された絵画。冬原は、それに左手を伸ばしながら呟く。
「ど、どうして…」
「それにしても、この絵を最初に鑑賞するのが、貴方だなんて…」
唖然として固まっていた冬原の肩に、ぽん、と女が両手を置いた。
「やはり、これも運命なのかしら…ふふ」
肩越しに振り返ると、女の顔が目の前にあった。
邪悪さを惜しみなく晒しつつも、醜さと美しさを、天才的な調和によって同時に兼ね備えた微笑。
女は、急に人らしい感覚を取り戻したかのように、悪びれた口調で告げる。
「あぁ、そうだ。貴方に謝らなくてはとずっと思っていたの。こんなくだらない事件に巻き込んでしまって、ごめんなさいね。まさか貴方が、隣室に勝手に入り込むような大胆な真似をするとは予想できなくて…」
どうして、こんなにもあっさり認めるのだろうか。
彼女は今、自分が冬原の隣に住んでいた男性を殺めたことを、子供の悪戯を暴露するかのような軽々しさで認めたのだ。
巻き込まれた怒りよりも、想像を絶する女の無邪気な残忍さに精神が圧倒されてしまい、もう、身振り手振りすらできずにいた。
凍りつく冬原の目を覗いて、小首を傾げながら、「分かっているんでしょう?」と悪気なく尋ねた。
「でも許して頂戴ね?ちゃんとスケープゴートは用意してあげたでしょう?」
「スケープゴート…」
まさか、自首してきたという男のことだろうか?
いや、だとしたら…いよいよ彼女は何者なのか。
「色々と面倒はあったけれど、さすがに貴方を放り捨てるわけにはいかないものね。それにとんだ収穫もあったのだから、何も悪いことばかりはなかったわ」
収穫、とは一体、何のことだろうか。
怪訝に思ったこちらの心を読んだように、女は目を細める。
「まさか…、貴方が私と同類だったなんて夢にも思わなかったわ」
「同類…」
「しかも、どこで漏れたのか、あの絵のことまで知っているなんて」
「き、綺羅星、貴方は…」
女は力強く頷くと、一度冬原から離れ、ランタンの弱々しい光で部屋の中をぐるりと照らしてみせた。
先ほどよりも、いっそう鮮明に見えるようになった絵画は、どれもこれも死体をテーマに描かれていたものだった。
恍惚を顔の上の皮膚に貼り付けた女は、部屋を見渡した後、不意に体を折り曲げ、冬原の耳元でぽつりと水滴が一粒垂れるようにして囁いた。
「冬原――いえ、夕陽」
初め冬原は、自分の名前が呼ばれているということに気が付かなかった。
「どう思う?この絵」
読みづらかったり、もっとこうしたほうが良い、という意見がありましたら、是非お寄せください!
ご意見・ご感想、ブックマーク、評価が私の力になりますので、
応援よろしくお願いします!




