凶星、綺羅めく
これにて、7章は終わりです。
いよいよ、全ての秘密が白日の元に晒されます。
彼女らの秘密が、罪なのか、そうではないのか、
みなさんは、思想の自由とはどこまで許されると思いますか?
冬原の意識は、深夜、唐突に覚醒した。
そうさせたのは喉の渇きか、それとも、かすかな尿意なのかは分からなかった。
ただ、少なくとも、このままでは落ち着けそうにはない。
もぞもぞと、隣で眠る柊に配慮して、芋虫のように静かに布団から出て立ち上がる。
おぼろ気な記憶を頼りにして、暗闇の中をふらつく足取りで進み、冷蔵庫へと辿り着いた。
途中、ガラステーブルに脛が当たり、痛みのせいで思わぬ声が漏れたが、寝つきが良いタイプなのだろう、柊は身じろぎ一つしなかった。
地震とかあっても起きないタイプだな、と子犬でも見守るような微笑みをこぼしつつ、冷蔵庫のドアを開ける。
ドアポケットの珈琲を勝手に頂戴し、プルタブを引く。
黒一色の空間に反響する、窒素ガスが放出される音に肝を冷やすが、例によって柊は起きそうにない。
色の見えない液体を一気に喉へと流し込みながら、これが毒液であっても、今は気が付けないだろうな、と余計なことを空想する。
もちろん、中身は苦々しくも飲み慣れた缶コーヒーそのもので、このチープさが逆にたまらなく安心した。
ずっと暖房が稼働したままになっているから、こんなにも喉が渇いたのか。
天井付近で明滅する緑のランプをじっと観察していると、次はいよいよお手洗いに行きたくなってきた。胃に流れ込んだ冷たい感触に意識を向けると、ますますその願望が高まっていく。
お手洗いは、廊下のどの辺りだっただろうか。
こんなに暗くては、電気を点けるか、携帯で照らしながら歩くでもしないと、目的地に辿り着くのに時間がかかるかもしれない。
一先ず、廊下への扉を開ける。すると、一室からかすかに暖色の光が漏れ出しており、何とかぶつからずにトイレに向かえそうだとほっとする。
しかし同時に、こんな時間まで明かりが点いているということは、まだ綺羅星は起きているのだろうか、と不審にも思った。
時刻はよく分からないが、もうとっくに午前になっているはずだ。
こんな時間まで、一体何をするというのだろうか。
冬原は、直前まで抱いていた尿意も忘れて、忍び足で扉の前に近づいた。どうやら、ドアがかすかに開いているらしく、その隙間から光が漏れ出しているようだった。
息を呑みつつも、その隙間から部屋の中を覗くが、室内の様子を確認するには、さすがに視界が悪すぎる。
この生暖かい光源は、どうやら電気式のランタンであることは何となく分かった。しかし、それ以上は本当に何も見えない。綺羅星の姿すら、まともに見えないのだ。
好奇心は猫を殺す、という諺が刹那的に脳裏をよぎった。
その好奇心の赴くままに行動した結果、つい一か月前、社会的に死にかけたことを忘れたわけではない。
…しかし、ここは友達の家なのだ。
私を殺す何者かは、ここに存在するはずもない。
軽くドアを手前に引く。好奇心に負けたのだ。
次第に廊下へ漏れてくる光が強くなるも、明らかになりつつある部屋の全貌に気を取られて、そのような光はもうどうでもよくなっていた。
綺羅星の私室だと思っていたこの部屋は、何かが異様であった。
別に、どこぞの部屋のように、死体がベッドの上に寝かせられていたわけでもなければ、身の毛もよだつような嫌な臭いが漂っているわけでもない。
誰もが納得するような理屈の整った要因を挙げることは不可能に近いと直感するも、語弊を恐れずに言葉にするのであれば、部屋そのものの位置がずれている感じがしたのだ。
もちろん空間的に、という意味ではない。
マンションの高層階の一室としては荒んだ印象を受け、女子高生の一人暮らしとして考えれば、何もかもが生活からは遠ざかっていた。
そして、普通の人間の感覚を基準とすれば、明らかに色彩が異なっていた――いや、もはや狂っていたと表現しても過言ではないだろう。
気分を明るくするような色合いは皆無。
何もかもが陰鬱な暗色に染まっているか、あるいは、動悸と息切れを呼び覚ますような、鮮烈な赤で彩られている。
ここは…暗く湿った沼の底か、あるいは白濁した空の果てか。少なくともこの世のものではなかった。
惨憺たる光景を描写した絵画の数々、グロテスクという言葉とはまた違うものを追究したであろうそれが、壁一面どころか、床一面にも散らばっていた。
光が弱く仔細は読み取れないが、どういったものが描かれているかぐらいは、はっきりと分かる。
一見すれば、赤黒い模様の絨毯のように足元に広がる、画用紙の水面の隙間を縫って、一歩前に進み出る。
開いた口が、カラカラに乾いていくのを感じる。
呼吸が乱れていく自分の肺が、隙間風のような音を鳴らしている。
それでも、目だけは瞬きも忘れて目の前の光景を深く、深く脳裏に刻み付けるため、フル稼働していた。
間違いない。
これらは、これら全てが、ネクロアートだ。
壁一面に広がる絵も。
床に散らばる絵も。
おそらくは、布で覆われたままのキャンバスにも。
部屋のあちこちに置いてある、布にくるまれた謎の物体も、きっとそれに関係あるものなのだろう。
冬原は直感した。
自分が感じていたズレの正体は、死の気配によるものだ。
実態を伴わない、死のファンタズマ。
ネクロアートへの興奮と同時に込み上げてくる、大きな不安の波。
それと同時に気がつく。
――何もかもが、まやかし。
…あぁ、そうだ、何もかもが…。
そのとき、背後の扉が音を立てて閉まった。人の気配を感じて、すぐに振り向く。
その気配の主は、高い背丈を折り曲げて、冬原の顔を覗き込んでいた。
首の長い化け物が獲物を見下ろしている情景が、冬原の脳内キャンバスに描きこまれていた。
次回より、最終章が始まります。
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ぜひ、エンドロールが流れるまでは、お付き合い頂けると幸いです。
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