弱虫の本音 2
凍りついたような時間の中で、前触れなく、柊が独り言のように囁く。
「ねぇ、私たちが初めてまともに喋ったときのこと、覚えてる?」
「初めて…?」
正直、そんなことは覚えていない。冬原は、首を左右に振って否定する。
「まあ、そうよね」
「急にどうして?」
「別に、覚えてないならいいわ」
「いや、気になるよ」
柊は、迷いながら、口の中でぶつぶつと呟いているようであった。
彼女は、何度目かの催促の後に、ついにぽつり、ぽつりと過去を語り始めた。
自分も共有しているはずの過去だったのだが、どこか他人の記憶のようにすら感じられた。
「二年生に上がった直後、新入生歓迎会の催し物に、アンタを含めた何人かが担当になったのを覚えていない?」
「え…あぁ、あったような気がする」曖昧な返事をすると、柊は呆れたように、「何でまともに覚えていないのよ」と肩を落とした。
「私は生徒会として、その催し物をまとめる係だったんだけれど…」
そう言われてみればそんなこともあったな、と冬原は記憶の底を探る。
その間、柊は自分の黒髪の先を胸元の辺りでつまみ、片方の指先で弄りながら、言葉に迷うように視線をさまよわせ、やがてゆっくりと言葉を紡いだ。
「そのとき、新入生の中にいたのよ」
「何が?」
「だ、だから、その…」
繋いだ掌をもぞもぞと動かす柊は、その手が冬原のものであるということを、忘れているようだった。
「や、やたらと仲が良い新入生よ」
「へぇ、別に良くない?何が問題なの?」
「い、いや、そのぉ…良すぎたのよ」
「良すぎた?」と繰り返す冬原に、柊が困ったような、怒ったような表情を見せる。
「だ、だから!き、キスしてたのよ!」
まるで自分がそれを目撃されたみたいに、焦っている。あまり見られない、新鮮な彼女の姿だ。
「あぁ…キス…。まぁ、女子校だし、そういう人もいるんだろうね」
たいして驚くこともなく、冬原は口にする。
多少、柊は潔癖なところがあるから、こんな風に大袈裟に口にするのだろう。もしかすると、私が手を繋ごうとすることも、本当は嫌なのかもしれない。
何となくそう考えてしまって、一瞬、柊の手を握る力を緩めた。しかし、こぼれ落ちそうな物を慌てて掴むように、ぎゅっと、強く握り返され、ちょっとだけドキリとする。
柊は冬原のだいぶ淡白な様子に、意外なほどオーバーに反応して、早口になって言い返す。
「あ、アンタ、あのときと反応が全く違うじゃない…」
「あのとき?」
「私が、『やっぱりああいうのっておかしいと思う?』って聞いたとき、自分が何を言っていたのか、覚えていないの?」
覚えていないも何も…。そもそも、まともに記憶にない話をされているのだから、当然だろう。
二年の始まりと言えば…。
そこまで思考を巡らせた際に、頭の中に嫌な記憶が蘇り、冬原は、苦虫を噛み潰したような顔つきになってしまった。
あぁ…。その時期のことは、あまり思い返したくない。
母が、完全に私を拒絶した頃のことだからだ。
それまでも、まともに受け入れてもらえていなかったが、母の望む『家族』の輪から弾き出されたのだと確信したのは、その頃だった。
そんな冬原の表情をどう勘違いしたのか分からないが、柊は、奇妙にも勝ち誇ったような様子で、歪んだ笑みを浮かべた。
どこか自嘲的な微笑が、どうしてだか、とても美しく見える。
やはり自分の美的センスは、人とはズレているのかもしれない、と冬原は思った。
「そうよ、アンタあのとき、『無駄』って言ったのよ!」
「えぇ?そんなこと言ったっけ…」
「言ったわよ!もぅ、何で覚えてないのよ!私、びっくりして、『どうして?』って聞き返したら、アンタ、『どうせ誰にも分かってもらえないのにね』って小憎たらしく笑って言ったじゃない!私はそれが――」
柊はそこで、不自然に言葉を途切れさせた。そして、もう一度物悲しい語調で、「それが…」と繰り返したきり押し黙った。
どうして、突然このような話をされたのかが、分からなかった。
他愛のない四方山話にしては、やけに真剣味を帯びている気がするし、かといって、何か重要な話しに繋がるようにも思えない。
かすかに首を傾げて柊の顔を下から眺めると、柊は、やがて意を決したように瞳に力を込めて、冬原の手を痛いほど強く握った。
「私はそれが、その言葉が、許せなかった」
冷静さを装ってはいるが、隠しきれない必死さが、血の気を失って変色した冬原の掌に滲み出ている。
冬原は、彼女の意図するところがようやく分かった気がした。
手の痛みも忘れて、独り言のように問う。
「だから、私にあんなことしたの?」
「…そうよ」
キッ、と目を見開きながら、攻撃的な表情を浮かべる柊であったが、その態度が、自己防衛の心からやってくるものだということは、とうに気が付いていた。
そうだ、柊は自分を守るために、自らを強く見せているに過ぎない。
毛を逆立たせて体を大きく見せる猫の威嚇と、何ら変わりない。
そう思えば、どこかこの話自体に、馬鹿らしさを感じずにはいられなくなってしまう。
「ふぅん、じゃあ、何だか損した気分」
飄々とした物言いで応じた冬原に、柊は正気を疑うように眉をひそめた。
「アンタ、言うことはそれだけなの?」
「だって、別に今更言うことなんかなくない?柊こそ、本当にそれだけの理由なの?」
何となくぶつけただけの質問に、一瞬、柊の瞳が揺れた。それから、首を縦にぎこちなく振る。
ああ、これは嘘つきの目だ。
まだ彼女は、何かを隠している。
一か月前、二人の女によって自分の中から摘出された仄暗い光が、今、目の前の女の中に、膿のように蠢いているのを見るのは、どこか哀れだった。
柊には、相手を認めて救う力はあっても、自分自身を救ってやる力はないのだ。
ある意味矛盾した姿に、奇妙な愛おしさを覚えつつも、何も気が付かない間抜けのフリをして口を開く。
「私は、柊に認めてもらったから苦しくなくなったよ。だからさ、結果的には感謝してる」
雪が土に染み込むように、この気持ちが、柊の胸に届けばいい。
「ただ…、最後に叩かれたのは、本当に痛かったから根に持ってるよ」と悪戯っぽく付け足して、苦笑いする。
柊の気が少しでも楽になれば、と思って告げた言葉なのだが、彼女は逆に苦しそうに顔を歪め、黙るだけだった。
普通の人なら、絶対に許さないと息巻くところなのだろうか。
分からないな、と諦観の念と共に、遠くの空を見つめる。
そう、分からないのだ、人の心は。
どれだけ考えても、分かりようなどない気がする。
私の中には、相手の心を照らす光は一切差さないままで、ちょうど、目の前の夜空のように、月の無い晩が続いているのだ。
だが別に、それが不便だと思ったことはない。
洞窟の中で過ごす生き物が光を嫌うように、初めから見えないものは、いつまでも見えないほうがちょうど良かったんだ。




