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やがて、冬の雪がとけたら  作者: null
七章 ルビコン川の先に

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ルビコン川の先に

ルビコン川というのは、

渡ろうと思えば渡れるけれど、

渡った後に、過酷な運命が待ち受けている境界のことですね。


ご興味のある方は、是非調べてみてください。

結構、面白いことが書かれていますよー。

 夕食の買い出しに行ってくる、と柊が申し出た手伝いをやんわりと断って、冬原は部屋を出て行った。


 あんなに大きな冷蔵庫なのに、中身がほとんど入っていないとは、一体、どういう了見なのか。


 黒いダッフルコートに身を包んだ冬原を見送ったことで、妙ににやついた綺羅星と二人きりになってしまう。


 この時点ですでに、早く冬原が帰ってこないだろうか、と柊は願い始めていた。


 何か物言いたげにこちらを見ている綺羅星を、容赦なく無視したものの、大した抵抗にもならず間もなく捕まった。


「やっぱり、ああいう娘がタイプなの?」


 鬱陶しい絡みが始まったと辟易しながら、全く頭に入ってこないニュースを見ているフリをする。しかし、こんなことで諦めてくれる綺羅星ではない。


「こういうときに率先して働いてくれるし、ちょこちょこした動きも可愛い。器量だって小顔な上にまあ整っている。それに頭も良い。きっと退屈しないわよね」


 …あぁ、うるさい。


 でも、相手にしたら負けだ。


 反応を示した途端、なぶる獲物を見つけた猫のように執拗にちょっかいを出され、身も心も疲弊すること間違いない。


 ここは耐えるのだ…。


「小さい背丈は、つい後ろから抱きしめたくなる」


 自分の体を両腕で抱くような仕草をする、女優ぶった綺羅星に、苛立ちが込み上げる。


 我慢だ、我慢。

 悔しいが口の達者な綺羅星に、弁舌では勝てない。

 余計な反論も控えるべきである。そこが蟻の一穴となって、いいように遊ばれるに決まっている。


 綺羅星は、ちらりとこちらを一瞥すると、一瞬だけ舌なめずりするように、真っ赤な舌を唇から覗かせた。


「寡黙で、いつも閉じられている小さな桜色の唇も、思わず吸い付いて、舌でこじ開けたくなる」


 そのねっとりとした口調に、柊はとうとう我慢できず、ギロリと怒りのこもった視線で、綺羅星を突き刺した。


 駄目だ、もう我慢できない。


「うっさい、黙れ」


 どうせ、こちらが反応するまで、永遠に語りかけてくるつもりだったのではないか。しかも、会話の内容をエスカレートさせてくるに決まっている。


 コイツは、そういう奴だ。


 柊が反応を示したのが余程満足なのか、にっこりと笑みを浮かべ、綺羅星がすり寄って来る。


「いいじゃない、私には話してくれたって」


 少し不貞腐れたふうを装って、彼女がぼやいた。


「話すことがあるなら、話してるわ」

「はぁ、柊、もう少しだけ、自分に素直になったほうがいいわ」


 どうしてか、呆れたような口調でそう忠告されるのが、腹ただしい。


 中身がほとんど空っぽになったオレンジジュースの缶を意味もなく眺めていると、綺羅星が、労わるようにそっと、柊の手に自らの掌を重ねた。


 しかし、彼女はそれを素気無く払った。それから、ガラス窓のほうへ、逃げるように首だけ動かす。


 夕焼けと呼ぶには暗くなりすぎた残照が、二人の横顔を弱々しく照らし出す。対象的に、空のグラデーションは鮮やかだ。


 まるで、人間の心を写したようだとぼんやり思う。


 明るい朱色は、人の陽の面を模写している。

 そして、限りなく黒に近い紫は、人の心の陰の部分を切り取ったかのように。


 そこまで考えてから、柊は今の考えを振り払うように目を固くつむった。


 自分自身の陰陽など考えたくもない。


 薄汚い自分からは、出来れば目を逸らしていたい。

 …誰だって、そうして生きているはずだ…。


 センチメンタルな気分にする夕焼けの前に、綺羅星が立ちはだかる。


 表情が逆光で見えづらく、一体どんな感情を抱いているのかも、ここからでは分からない。


 見上げるような角度で、柊は彼女の声を聴く。


「そんなに苦しいなら、友達なんてやめなさい」

「あのさぁ、口出ししないでくれる?」


「だったら、見ていて苛々する態度をやめなさいな」

「…私が、どんな態度しているっていうのよ」


「私が彼女をからかうと怒ったり、彼女をじっと見つめていたり、彼女を特別扱いしたり、手を繋いだりかしら」

「してない」

「今朝もしてたじゃない」


 あまりにもしつこい綺羅星の追及に舌を打つ。


「あれは、いつも向こうから繋いでくるのよ」


 声を大きくして返すと、彼女は面食らったような顔つきになり、その丸い瞳をパチパチと高速で開閉した。


 それから間を置いて綺羅星は、「いつもって…、どういうことかしら?」と有無を言わさぬ口調で、バツの悪い顔をした柊に尋ねる。


「…別に、言うほどのことじゃないわ」

「そう」綺羅星は、あっさりと頷いた。その顔には、爽やかな作り笑いが浮かんでいた。


「言いたくないならしょうがない。本人に聞くことにするわ」


 嫌な形であっさり引き下がってしまったので、仕方がなく、自分の口から説明することにした。


 初めに、今まで何度かそういうことがあったと、簡略的に話した。話の途中で打つ相槌以外は口を挟まず、比較的大人しく綺羅星は話を聞いていた。


 一通り話を聞き終わると綺羅星は、顎に手を当てたまま直立不動になって、何事かを考える仕草を取った。それも一瞬の出来事で、すぐに思考がまとまったのか、こちらに微笑みかけて勘ぐるように言った。


「それで両想いかも、とは思わなかったの?」

「そもそも私は、別に――」

「もう、その段階は終わっているわ」


 あまりに冷徹に吐き捨てられた言葉に、柊は思わず黙ってしまう。


 沈黙は肯定と受け取られかねない、と逡巡したが、彼女の言う通り、とっくの昔に気づかれているようだったので、それこそ本心を語って、これ以上の介入を防ぐべきかと悩み、質問責めの今とで天秤にかけた。


「…絶対言わないでよ」


 綺羅星は一瞬目を丸くして、小さく微笑んだ。それから目をつむって、かき消えそうな声を上げ、頷いた。


「分かっているわ」


 何故だか嬉しそうな様子の綺羅星に戸惑いながらも、柊は自分が妙な汗をかいているのを感じていた。


 ただ認めるだけで、こんなにも落ち着かない気持ちになるのは…、自分の弱さなのか、今まで逃げ惑っていた代償なのか。


「…思うわけがないでしょ、女子同士で手を繋ぐなんて、そう珍しいことじゃないし」

「あの娘が、そんなタイプだと思うの?」

「元々冬原は友達がいないんだから、分かりようがないでしょ」


 本人が聞いたらショックを受けるだろうか、と柊は考えたものの、続く綺羅星が、「友達がいない三人ですものね」と付け足したことで、どうせこんな人間の集まりだものな、とどうでもよくなる。


「とにかく、私はもう期待したくないのよ」

「そう…なぜ?」


「勝手に裏切られた気分になるのも、当人から哀れまれるのも、もううんざりなのよ…っ」


 少し昔の記憶が蘇ってきて、息が詰まりそうになる。


 この場には、私に近い性的趣向を持つ綺羅星しかいないと分かっていても、虚しい過去は無条件で自分の心に去来し、苛んでくるのだ。


「じゃあ、私が貰ってもいいのね」


 明らかにこちらを挑発するような物言いに、一瞬腰が浮きそうになるが、思った以上に体が鈍くなっているようで、体はぴくりともしなかった。


「勝手にすれば」と精一杯の強がりを口にする。


 その瞬間、確かに綺羅星の顔には、大きな落胆の色が広がっていった。


 ちょうどそのタイミングでインターホンが鳴る。

 エントランスに冬原が戻ってきたのだろう。


 夕食分だけとはいえ三人分だ、荷物も軽くはないはず、と下に迎えにいくつもりで、今度こそ腰を上げたのだが、綺羅星がそれを手で制した。


 不服そうに相手を睨む柊に、綺羅星は、はっきりと冷酷な声音で告げた。


「そう…、貴方は、ルビコン川を渡る勇気を持たない者なのね」

「ルビコン川…?何よ、それ」


 綺羅星は、その問いには答えず、ゆっくりと首を左右に振った。


「もう、貴方はこちら側に来なくていいわ」


 白いワンピースの裾を揺らしながら、優雅に玄関へと消える背中が、くるりと向きを変えた。

 わずかに腰を上げたまま硬直している柊を、真正面に捉える。


「弱虫」

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