ルビコン川の先に
ルビコン川というのは、
渡ろうと思えば渡れるけれど、
渡った後に、過酷な運命が待ち受けている境界のことですね。
ご興味のある方は、是非調べてみてください。
結構、面白いことが書かれていますよー。
夕食の買い出しに行ってくる、と柊が申し出た手伝いをやんわりと断って、冬原は部屋を出て行った。
あんなに大きな冷蔵庫なのに、中身がほとんど入っていないとは、一体、どういう了見なのか。
黒いダッフルコートに身を包んだ冬原を見送ったことで、妙ににやついた綺羅星と二人きりになってしまう。
この時点ですでに、早く冬原が帰ってこないだろうか、と柊は願い始めていた。
何か物言いたげにこちらを見ている綺羅星を、容赦なく無視したものの、大した抵抗にもならず間もなく捕まった。
「やっぱり、ああいう娘がタイプなの?」
鬱陶しい絡みが始まったと辟易しながら、全く頭に入ってこないニュースを見ているフリをする。しかし、こんなことで諦めてくれる綺羅星ではない。
「こういうときに率先して働いてくれるし、ちょこちょこした動きも可愛い。器量だって小顔な上にまあ整っている。それに頭も良い。きっと退屈しないわよね」
…あぁ、うるさい。
でも、相手にしたら負けだ。
反応を示した途端、なぶる獲物を見つけた猫のように執拗にちょっかいを出され、身も心も疲弊すること間違いない。
ここは耐えるのだ…。
「小さい背丈は、つい後ろから抱きしめたくなる」
自分の体を両腕で抱くような仕草をする、女優ぶった綺羅星に、苛立ちが込み上げる。
我慢だ、我慢。
悔しいが口の達者な綺羅星に、弁舌では勝てない。
余計な反論も控えるべきである。そこが蟻の一穴となって、いいように遊ばれるに決まっている。
綺羅星は、ちらりとこちらを一瞥すると、一瞬だけ舌なめずりするように、真っ赤な舌を唇から覗かせた。
「寡黙で、いつも閉じられている小さな桜色の唇も、思わず吸い付いて、舌でこじ開けたくなる」
そのねっとりとした口調に、柊はとうとう我慢できず、ギロリと怒りのこもった視線で、綺羅星を突き刺した。
駄目だ、もう我慢できない。
「うっさい、黙れ」
どうせ、こちらが反応するまで、永遠に語りかけてくるつもりだったのではないか。しかも、会話の内容をエスカレートさせてくるに決まっている。
コイツは、そういう奴だ。
柊が反応を示したのが余程満足なのか、にっこりと笑みを浮かべ、綺羅星がすり寄って来る。
「いいじゃない、私には話してくれたって」
少し不貞腐れたふうを装って、彼女がぼやいた。
「話すことがあるなら、話してるわ」
「はぁ、柊、もう少しだけ、自分に素直になったほうがいいわ」
どうしてか、呆れたような口調でそう忠告されるのが、腹ただしい。
中身がほとんど空っぽになったオレンジジュースの缶を意味もなく眺めていると、綺羅星が、労わるようにそっと、柊の手に自らの掌を重ねた。
しかし、彼女はそれを素気無く払った。それから、ガラス窓のほうへ、逃げるように首だけ動かす。
夕焼けと呼ぶには暗くなりすぎた残照が、二人の横顔を弱々しく照らし出す。対象的に、空のグラデーションは鮮やかだ。
まるで、人間の心を写したようだとぼんやり思う。
明るい朱色は、人の陽の面を模写している。
そして、限りなく黒に近い紫は、人の心の陰の部分を切り取ったかのように。
そこまで考えてから、柊は今の考えを振り払うように目を固くつむった。
自分自身の陰陽など考えたくもない。
薄汚い自分からは、出来れば目を逸らしていたい。
…誰だって、そうして生きているはずだ…。
センチメンタルな気分にする夕焼けの前に、綺羅星が立ちはだかる。
表情が逆光で見えづらく、一体どんな感情を抱いているのかも、ここからでは分からない。
見上げるような角度で、柊は彼女の声を聴く。
「そんなに苦しいなら、友達なんてやめなさい」
「あのさぁ、口出ししないでくれる?」
「だったら、見ていて苛々する態度をやめなさいな」
「…私が、どんな態度しているっていうのよ」
「私が彼女をからかうと怒ったり、彼女をじっと見つめていたり、彼女を特別扱いしたり、手を繋いだりかしら」
「してない」
「今朝もしてたじゃない」
あまりにもしつこい綺羅星の追及に舌を打つ。
「あれは、いつも向こうから繋いでくるのよ」
声を大きくして返すと、彼女は面食らったような顔つきになり、その丸い瞳をパチパチと高速で開閉した。
それから間を置いて綺羅星は、「いつもって…、どういうことかしら?」と有無を言わさぬ口調で、バツの悪い顔をした柊に尋ねる。
「…別に、言うほどのことじゃないわ」
「そう」綺羅星は、あっさりと頷いた。その顔には、爽やかな作り笑いが浮かんでいた。
「言いたくないならしょうがない。本人に聞くことにするわ」
嫌な形であっさり引き下がってしまったので、仕方がなく、自分の口から説明することにした。
初めに、今まで何度かそういうことがあったと、簡略的に話した。話の途中で打つ相槌以外は口を挟まず、比較的大人しく綺羅星は話を聞いていた。
一通り話を聞き終わると綺羅星は、顎に手を当てたまま直立不動になって、何事かを考える仕草を取った。それも一瞬の出来事で、すぐに思考がまとまったのか、こちらに微笑みかけて勘ぐるように言った。
「それで両想いかも、とは思わなかったの?」
「そもそも私は、別に――」
「もう、その段階は終わっているわ」
あまりに冷徹に吐き捨てられた言葉に、柊は思わず黙ってしまう。
沈黙は肯定と受け取られかねない、と逡巡したが、彼女の言う通り、とっくの昔に気づかれているようだったので、それこそ本心を語って、これ以上の介入を防ぐべきかと悩み、質問責めの今とで天秤にかけた。
「…絶対言わないでよ」
綺羅星は一瞬目を丸くして、小さく微笑んだ。それから目をつむって、かき消えそうな声を上げ、頷いた。
「分かっているわ」
何故だか嬉しそうな様子の綺羅星に戸惑いながらも、柊は自分が妙な汗をかいているのを感じていた。
ただ認めるだけで、こんなにも落ち着かない気持ちになるのは…、自分の弱さなのか、今まで逃げ惑っていた代償なのか。
「…思うわけがないでしょ、女子同士で手を繋ぐなんて、そう珍しいことじゃないし」
「あの娘が、そんなタイプだと思うの?」
「元々冬原は友達がいないんだから、分かりようがないでしょ」
本人が聞いたらショックを受けるだろうか、と柊は考えたものの、続く綺羅星が、「友達がいない三人ですものね」と付け足したことで、どうせこんな人間の集まりだものな、とどうでもよくなる。
「とにかく、私はもう期待したくないのよ」
「そう…なぜ?」
「勝手に裏切られた気分になるのも、当人から哀れまれるのも、もううんざりなのよ…っ」
少し昔の記憶が蘇ってきて、息が詰まりそうになる。
この場には、私に近い性的趣向を持つ綺羅星しかいないと分かっていても、虚しい過去は無条件で自分の心に去来し、苛んでくるのだ。
「じゃあ、私が貰ってもいいのね」
明らかにこちらを挑発するような物言いに、一瞬腰が浮きそうになるが、思った以上に体が鈍くなっているようで、体はぴくりともしなかった。
「勝手にすれば」と精一杯の強がりを口にする。
その瞬間、確かに綺羅星の顔には、大きな落胆の色が広がっていった。
ちょうどそのタイミングでインターホンが鳴る。
エントランスに冬原が戻ってきたのだろう。
夕食分だけとはいえ三人分だ、荷物も軽くはないはず、と下に迎えにいくつもりで、今度こそ腰を上げたのだが、綺羅星がそれを手で制した。
不服そうに相手を睨む柊に、綺羅星は、はっきりと冷酷な声音で告げた。
「そう…、貴方は、ルビコン川を渡る勇気を持たない者なのね」
「ルビコン川…?何よ、それ」
綺羅星は、その問いには答えず、ゆっくりと首を左右に振った。
「もう、貴方はこちら側に来なくていいわ」
白いワンピースの裾を揺らしながら、優雅に玄関へと消える背中が、くるりと向きを変えた。
わずかに腰を上げたまま硬直している柊を、真正面に捉える。
「弱虫」




