星空の住まう場所へ 1
歩く振動で下がったマフラーを、ぐっと口元まで持ち上げ、冷たい空気を直接吸わないで済むようにする。
このマフラーは、実家から持ってきた数少ない持ち物の一つだ。
父が、自分たちの元から離れる日に贈ってくれたもの。
父が帰ってこないなんて、ちっとも考えていなかった自分は、喜々としてそのプレゼントを受け取り、首に巻いたものだった。
知らない、とは幸せなこともある。知らない間は、少なくとも平穏でいられる。
12月も一週間が経ち、もうしばらくしたら年の瀬だ。その直前には、生徒会選挙がある。
隣を不機嫌そうに歩く柊にとっては、一大イベントであろう。とはいっても、まともな対抗馬が存在していないため、実質、消化試合のような状況だとは耳にしている。
だからといって、いちいち付き合ってくれなくても良かったのに。
冬原は、自分を仲間外れにしていた(当人にその気はなくても)柊への、当てつけのつもりで綺羅星の提案を承諾した。
それなのに、柊が食い下がってきて、結局彼女も綺羅星の家に遊びに行くことになった。しかも、話が膨れ上がって、泊まりに行くことになったのだが…。
黙ったまま、柊の端正な横顔を盗み見ていると、ばったり柊と目が合ってしまった。背けるのも何だか負けた気がするので、珍しく冬原も意固地になって、見つめ続ける。
「何よ」
以前は、条件反射で謝罪させられていた一言だったが、今はそうそう簡単にはいかない。
「別に」
そもそも、悪いのは彼女なのだ。
自分にも、綺羅星のことを話してくれたって、良かったのではないか。
さらに、これはただの憶測なのだが、冬原の目からは、二人は互いの秘密を共有しているように見えた。
綺羅星側も、柊の秘密を知っている。
何かが私にそう感じさせていた。
校門近くで待ち合わせしていた二人は、綺羅星に教えられていた住所を携帯のアプリで検索しながら、大通りに沿って歩いていた。
驚いたことに、マップ情報が示している建物は、この辺りでも一番豪華なマンションで、しかも、彼女の部屋番号から考えると、かなりの高層階に住んでいるようだった。
そのときは、つい仲睦まじく顔を近づけて一つの携帯を覗き込み、口々に驚きの声を上げていたのだが、お互い微妙に不貞腐れていたのを思い出して、急に余所余所しくなった。
やっぱり、意地なんだとそのとき思った。下らない意地だが、なぜだかそれが大事に思える。
そして、ようやく近くまでやってきたところで、いよいよその不満を口に出してしまったというわけだ。
「へぇ、最近はいよいよ可愛くなくなったわね。昔の従順な冬原さんと違って」
嫌味を言わせると、柊は世界一なのではないか。
「別に、可愛くなくていいけど」
「…随分、生意気になったわね」
「柊は相変わらずだね、悪役でも目指してるのかなって、時々思う」
「はぁ?」
「な、なに」
「私は次期生徒会長よ。生徒と教師からの信頼が厚いの。分かる?」
「うわぁ、いよいよ小者臭い…」呆れたように肩を竦めて見せる。
「何ですって?」
「そもそも、本当に何で柊まで来たの」
素朴な疑問を感じて、冬原は面倒くさがりながら尋ねる。
その問いを受けた柊は、顔を反対に向けながら、ぶつぶつと何事かを呟いていた。
彼女らしくもない、情けない態度に腹の虫が騒ぎ、つい嫌味な言い方をしてしまう。
「…そんなに小さい声じゃ、聞こえないんだけど」
すぐそばの道を大型トラックが通ったのを切っ掛けに、群雀が一斉に寒空を飛び去っていく。
一羽一羽が固まって、一つの生命体のように、宙を縦横無尽に踊っている姿が、とても誇り高く見えた。
自分が憧れていた、『自由』そのものだからだろうか。
…二人のおかげで、その生き方に一歩近づいた気がする。
そんなふうに一ヶ月前のことを思い出しているときは、どうしても、あの夕方のことが脳裏に浮かんだ。
私の頭を泣きながら撫でてくれた、本当の優しい柊の姿。
その姿を脳裏に描き出してしまったら、柊へのつまらない反抗心は、冬の風に吹かれ、塵と共に消え失せていた。
謝らなくては、と思いつつもどうにも口が動かない。
さて、どうしたものかと頭を悩ませていると、柊が、「あのさぁ」とマフラーに顔を埋めて言った。
「アンタ、綺羅星と二人きりになるって、怖くないの?」
「え、あ、それは…」
「お、襲われるかもしれないのよ…?」
「お、襲う!?」
「そうよ、アンタみたいな弱々しい奴は、すぐに危ない目に遭うのよ?だから、ほら、付いて行ってあげるの!」
鼻息荒くそう告げた柊。何を怒っているんだろう、と不思議に思えたが、朱の差した表情から、照れ隠しなのだと分かった。
「柊、心配してくれてたんだ…」
彼女の、黒曜石のような光を放つ瞳と視線が交差する。
その瞬間、弾けるように柊の頬が真紅に染まり、再び彼女は目を逸らした。だが、冬原が小さく柊の名前を呼ぶと、少し遅れてから、もう一度、朱に染まったままでこちらを向いた。
二つの暗闇が溶け合って、真冬の空気の狭間にたゆたう。
目が反らせなくなる不可思議な引力に導かれ、気がつけば冬原は、白い手袋が守っている彼女の片手を握っていた。
手袋越しに伝わるはずのない熱を感じて、自分の顔にも熱が集まっていくのが分かった。
柊は困ったように視線をあちこちに散らしながら、非常に早い速度で瞬きを繰り返している。
それでも、時折思い出したかのように、自分の目を見つめ返してくれるのが、たまらなく嬉しかった。
今なら、言える気がした。
「ありがとう、あの日も、今日も」
「な、何よ、急に」
「ううん、今言わなくちゃいけない気がして」
ついに顔を完全に逸してしまった柊の横顔を見つめていると、自然と息を呑むような感動に突き動かされてしまう。
朱が差すことで、いっそう引き立てられる肌の美しさ。
整った顔立ちの中でも一際目を引く、切れ長の黒曜石。
12月の風にも、その血色の良さを奪えない、薄桃色の唇。
綺羅星とは、また違う種類の美しさに、呼吸をすることも忘れて魅入っていると、柊がぽつんと呟いた。
「いつまでこっち向いてるのよ。マンション、見えてきたわよ」




