開かれる、ネクロアートの扉 1
真っ暗だった。それもそうか、と冬原はぼんやりと考えていた。
部屋の明かりは全て消えている。いや、点けていない、といった方が正しい。
暗いところが嫌いで、寝る前だって常夜灯にしていることの多い彼女だったが、今は先の見えない暗黒が、妙に落ち着いて感じられていた。
人生、一寸先は闇というが、きっとその言葉を生み出した人物は、何も悪い意味だけで作り出したのではないと思う。
暗闇がこんなにも優しいのだということを、私は知らなかった。
見なくていい、知らなくていい、ということは、とても心地良いものだった。
自分が息をしているかどうかも分からなくなるこの環境は、時間が止まったように静かだ。
もしかしたら、すでに私は死んでいるのかもしれない。
…違うな。とっくの昔に、私は生きているのか、死んでいるのかすらハッキリとしていなかったのだろう。
生きながらにして死んでいる、という表現が、妙にしっくりくるくらいに。
昔から、死んだ動物や虫、枯れた花に興味を抱く子供だった。
道路で横たわる首輪付きの獣、コンクリートの森で眠るように裏返る蝉、咲かぬまま散る花。
じっと、それらを観察する私のことを、家族は得体のしれないもののように遠巻きに見ていた。
私は次第に、観察するだけでは物足りなくなって、絵で描きとどめるようになった。
周囲の私を見る目から、自分が人とは違うものを愛でているのだと把握するのに、そんなに時間はかからなかった。
そのうち実物を目にできる機会は激減した。その代わりに、絵で自分を慰める機会が増加した。
そんなときだった、自分がネクロアートと出会ったのは。
屍体芸術――ネクロアート。
人の死体を美しく、儚く、ときに冒涜的に、ときに神聖に描き出す。そんな背徳的な輝きを秘めた芸術に、私は瞬く間に心を奪われた。
グロテスクなものが好きなわけでも、人を殺すことに魅力を感じるわけでもない。
命を失ったはずの亡骸に宿る狂気的な美に、生を越えた価値を感じずにはいられなかったのだ。
だが、誰もそんな私の趣味を理解してはくれなかった。
実の家族も、そのうち離散し、自分のそばには母だけが残った。そんな母も例外なく自分を拒んだ。
私は、好きなものを、好きだと言えなかった。
美しいものを、美しいと言えなかった。
他人と自分との間に引かれた明確なラインが、私に人との関わりを諦めさせた。
それで良かった、別にもう誰にも期待なんかしていなかった。
だけど…。
暗闇の中に、二人の人影が浮かんだ。
私を取り囲む境界線を、軽々と乗り越えてきた彼女たち。
片や暴力的なもので、片や不可思議なもので。
初めは迷惑だったけれど、誰かと過ごす久しぶりの時間は、私にとって、徐々に安らぎのものとなっていった。
…だがついに、再びそれを失う時が来た。
荷物、置いてきてしまったなぁ、と目の前の現実から逃げるために、ぼうっと考える。
一体、どれだけの時間が流れただろう。
何も見えぬ闇は、次第に感覚を奪っていく。
心地の良い静けさの中、そっと冬原は目を閉じた。二度と覚めない眠りにつけることを祈りながら。
不意に、静寂を切り裂くインターホンの音が暗い部屋に響いた。
あまりに予想しなかった音に、急速に意識が覚醒していく。冬原はむくりと体を起こして、リビングにあるドアフォンに近づいた。
オートロックの向こう側に並んで立って、言い争いをしている二人は、彼女がよく知っている人物だった。
柊と綺羅星だ。
綺羅星の肩には、自分の物らしき鞄が担がれていて、荷物を届けに来てくれたようだ。
冬原にとってそれは嬉しいことではあったが、いざ二人を目の前にすると、顔を合わせる気分にはなれなかった。
どう考えても、彼女らが、私の趣味について聞かされたことは疑いようもない。
冬原はドアフォンのモニターの電源を落として、また暗闇のベッドに横たわったのだが、五分としないうちに、今度はオートロックの先、自分の部屋のチャイムが鳴らされた。
他の住民が入るのに便乗したのか…。まぁ、放っておけば勝手に帰るだろう。
しかし、冬原の予想は外れ、執拗にチャイムが鳴らされた。
冬原は、段々と音が大きくなるような錯覚に苛まれ、より深く布団に潜った。そうこうしている間に、今度は鉄製の扉が勢いよく叩かれる音が聞こえ始めた。
冬原は恐ろしさのあまり、思わず飛び起きて身構えた。ここまでくると、さすがにご近所迷惑だ。出ないわけにはいかない…。
忍び足で、扉の前まで移動し、覗き穴から向こうを確認する。
その瞬間、ガチャリとドアが引かれ、鍵の閉まった扉がストッパーに引っかかる音が大きく響いた。
「ひっ」と情けのない声が反射的にこぼれる。
「何よ、やっぱりアイツいるじゃない」
「まぁ、居留守なんて酷いわ」
聞き慣れた声…、綺羅星と柊だ。
これ以上放置していると、隣の部屋の警察が騒ぎ出してしまうかもしれない。
そう考えた冬原は、ドアチェーンを掛けた状態で恐る恐る鍵を開けた。すると、こちらが扉を開けるよりも、遥かに素早い勢いでドアが引かれた。チェーンに阻まれ、鈍い音が鳴る。
「あ、この!アンタ、開けなさい!」鬼気迫る形相だ。
「な、何しに来たの…」
「いいから、早く開けなさいよ」
柊の隣で、綺羅星がウインクしてみせる。明らかに面白がっている仕草だ。
「わ、私、今忙しくて…」
「はぁ?」と柊。「嘘が下手ね、冬原さんは」
「別に、嘘なんかじゃ…」
「開・け・な・さ・い!」
「わ、分かったから静かにして」
廊下どころか、敷地の外にまで響き渡りそうな大声を上げる柊の横で、綺羅星が迷惑そうに耳を両手で塞いでいた。
どうしようか、とプチパニックになっていると、柊が深く空気を吸い込み、また大声を上げる準備をしていたので、冬原は慌ててチェーンを外して扉を開け放った。




