蝶を導く星 1
職業上、自己受容に関して色んな人とお話をしますが、
つくづく難しいものだと、日々思い知らされます。
みなさんは、自分自身の清濁、認められていますでしょうか?
この二ヶ月足らずで聞き慣れたチャイムが響いた。
最早、三人の居城とも言っても過言ではない資料室に、再び静寂が戻ってきていた。
少しだけ、熱くなりすぎたようだ。
先ほどの女生徒たちの、怯えた顔を思い出して内省する。
だが、彼女たちにはお礼を言わなければなるまい…。
綺羅星は、掴んだままの柊の腕を離して、くるりとターンする。
自分の制服のスカートの裾が、体を中心に同心円状に広がるのが、何だか見ていて不思議だ。
「顔色は…、まだ少しだけ青いわね」
真正面から私に見つめられて、柊は思い出したように顔を背け、苦い顔をした。
女というのは、どうしてこうも、こと人の秘密に至っては鋭い嗅覚を発揮するのだろうか。
先ほどの生徒の言ったことは、自分も前から感じていたことであった。ただ、もう少し、本人のほうで受け入れる準備が出来るまで、触れずにおこうと思ったのだが…。
ある意味、これも運命なのだろう。
柊と冬原、二人の秘密が封じ込められた、禁忌の箱が同時に開かれてしまった。
顔を背けたままの柊にセンシティブな話をする前に、閉ざされた遮光カーテンを解き放つ。
じんわりと体が温まる眩い日差しに、無意識に目を細める。
綺羅星は、掌を光にかざすことで自分のそばに影を作った。
ゆっくりとした動作で、いつの間にか椅子に腰掛けていた柊のほう見やり、かすかに微笑んで、彼女に言い聞かせるように言葉を唱えた。
「言っておくけれど、私は気がついていたのよ」
「…何が」
「あぁ、もう。まだ誤魔化そうとするの?強情の域を越えて、愚かね」
「うるさい…。アンタこそ、さっきの本当なの…?」
「さっきの?」
「だ、だから、その、ば、バイセクシュアルだって話」
普段の彼女からは想像も出来ないくらい不審な挙動で、綺羅星のほうを二度見する。
チラリと横目で様子を窺う彼女を見て、どうやら過去に何かあって、それがトラウマになっているのかもしれない、と綺羅星は分析した。
そのくらい、彼女らしからぬ弱々しさを露呈していたのだ。
そんな物珍しさに、ついつい悪戯心が湧き上がる。綺羅星は、意地悪く笑った。
「さあ、どうかしら?どっちにしても、私の本質は変わらないわ。変わるのは、本質を知ろうとしない人間の態度だけよ?あぁ、貴方はどうでしょうね?怖い?私が?」
柊の顔が、一瞬で赤くなる。
綺羅星の目は、その表情をしっかりと認識しているのに、頭のほうは、ここにはいない冬原のことを考えていた。
殺人犯として疑われ、友達からは精神異常者と思われているかもしれない、という二段重ねのプレッシャー…。
とてもではないが、彼女が平気な顔をしていられるとは思えない。
それが普通だ、きっと。
私にはよく分からない、普通の話。
それにしても、と綺羅星は砂坂の狡猾な笑みを思い出して、臍を噛んだ。
手段を選ばないタイプの人間なのか、それとも、冬原が犯人だと断言できるほどの確信が彼にあるのか…。まともなやり方ではない。
とにかく今は、彼女の様子を確かめたほうが良いだろう。
綺羅星にとってこの状況は、ある意味で、千載一遇のチャンスでもあった。
「きっと、彼女は戻ってこないわ」
「何で…?」
「あの娘は頭がいい、それに想像力も豊か。刑事の質問が、同じように私や貴方に向けられていたことにも、とっくに気がついているはず」
「でも、荷物だってここにあるのに」
「貴方が逆の立場だったらどうするかしら?殺人犯の汚名を着せられそうになっているうえに、自分が同性愛者だってことが――」
「わ、私はレズじゃない!」
直前までは、怯えたように話を聞くだけだった彼女が、突然怒りを露わにして綺羅星を怒鳴りつけた。
柊は、今にも泣き出しそうに、しきりに瞬きを繰り返しながら、両肩を上下させている。
彼女の濡れ羽色の髪が数本口元に引っかかっていて、その必死さや、情念といったものをまざまざと印象づける。
何かを言おうと震える唇を動かすも、結局、何も思いつかないのか、俯いて床の継ぎ目を見つめていた。
自己受容とは、容易いものではないな。
柊にせよ、冬原にせよ、誰に迷惑をかけているわけでもないのに、こうして何かに怯えている。
そうならなければならない何かを、経験しているからだろう。
難儀なものだ…。
自分と、マジョリティとの違いを明確に感じながらも、己がまだ、マジョリティサイドにいられると錯覚している。それが、全ての不幸の原因なのだ。
自分はどうだったろうか。
記憶の蓋をどかしてみるも、変わっている自分自身を、不幸だと感じたことはなかった。
どちらが幸せなのかと、外面上には一切出さず、綺羅星は心の中だけで笑った。
半端に歪んでいるものと、完全に歪んでいるもの。
少なくとも彼女たちは、私よりも不幸せそうであることは確かだ。
人は時として、均整の取れたフォルムよりも、多少歪な造形をしているモノのほうにこそ、真の美しさを見出すというのに…。
全てが整った芸術品こそが至高ならば、それこそ、機械にでも大量生産させて、美術館に並べればいい。
それをしないのは、人の手で生み出す歪さにこそ価値があると、我々が潜在的に知っているからにほかならない。
綺羅星は、何に怒っているか自覚できない子供のように、その複雑な感情に支配されている柊を一瞥すると、極めて彼女らしからぬ優しい声を出した。
「そうね…、どうでもいいことね」
おそるおそる顔を上げる彼女と目が合う。
その顔つきが普段の冬原にとても似ていて、綺羅星は、二人が一緒にいた理由を悟った気がした。
すっと、二人分のバッグを手に取り、無駄のない動きで帰り支度を始めた綺羅星に、柊が何をしているのか尋ねた。
「彼女の家にお邪魔するのよ」と返すと、ファスナーを閉めて荷物を肩にかけた。
柊は、自分の行き場を見失ったようにおどおどとしていた。だが、綺羅星が扉に手を掛けたまま振り返ることもなく、「貴方はどうするの」と呟いたことで、ようやく荷物の片付けを始めた。




