本質を知る者 1
六章が始まります。
この章で彼女らは、また一つ、雪どけに近づきます。
柊は、気付くと、資料室にいるはずの綺羅星の元へと向かっていた。
状況の全てが、冬原にとって向かい風となって吹き荒んでいるのを、ひしひしと感じながら、資料室の扉に手を掛ける。
中には、閉じられていたカーテンの隙間から、外を睨む綺羅星の姿があって、どことなくその様子は、鬼気迫るものだった。
初めから柊が部屋に入ってくるのを分かっていたように、綺羅星は背中を向けたまま、うわ言のように呟きを漏らす。
「…聞いたかしら。冬原さんのこと」
その言葉が、綺羅星も全てを告げられていたことを示唆しており、柊は苦虫を噛み潰したような顔つきでそっぽを向いた。
部屋の中央に置いてある、六人がけの長机に腰掛ける。行儀の悪さなんか、気にはしていられない。
なるほど、今になって、綺羅星が呼ばれた理由が分かった。
彼女と自分は、周囲から冬原と三人セットにされている。自分以外から、冬原の情報を得るために彼女が必要だったのだ。
二人は、互いに部屋の反対側に位置していたが、遠く距離のある背中合わせのように、片方は空を眺め、もう片方は床を見つめていた。
柊は沈黙をもって、綺羅星の問いに答えていた。だが綺羅星は、「ねえ」と短く答えを求めてくる。
「うるさいわねぇ、聞こえているわよ」
「それなら、答えなさいな」
「…あんなの、どうせ嘘っぱちよ」と吐き捨てるように言ってのけると、綺羅星は反発するように、カーテンを勢いよく閉め、くるりとターンした。
その瞳には、柊を責める苛烈な憤りが滾っている。
「はぁ…。貴方がそんなことで、一体どうするのかしら」
「何よ」
姿勢のブレもなく、一定の間隔で足音を刻んだ綺羅星。彼女は、柊の正面まで回り込み、腕を組んだままで顎を突き出した。そして、ハキハキとした滑舌で言う。
「情けのない…。見損なうわね」
「あぁ?」
「冬原さんがそういう趣味を持っていたら、貴方は、彼女のことを嫌いになるのね」
綺羅星が言った言葉は、ずっと柊の頭で堂々巡りしていた問題の一つを的確に貫いていて、無意識のうちに体が硬直してしまう。
人の死体の絵…。
それを鑑賞することが、冬原の趣味?
そんな人間が、本当に存在するのだろうか。
柊には、それが一番信じられなかった。
それならまだ、冬原が殺人鬼だというほうが信じられる。
それともこれが、冬原の言っていた、『秘密』なのだろうか…。
柊の沈黙をどう受け取ったのかは分からないが、綺羅星は鼻を鳴らして嘲笑うと、顔を斜めに傾けた。
「もういい、貴方には失望したわ。私はここで冬原さんを待つから、さっさと消えなさいな」
「な…っ、私は、まだ、何も」
かすかに顔をしかめる柊にぐっと体を寄せ、真っ白い、死人のような腕を柊の座っている机の上に、ドンと体重をかけて置く。
それから一音、一音で、柊の首元を締め上げるように感情を込めて言い放った。
「陰気な顔は、目障りよ」
冷たい拒絶の言葉が、独特な匂いを漂わせている資料室に短く響く。
綺羅星は、そっと体を離し、未だ釈然としない態度の柊に、ため息と共に告げる。
「ふぅ…。そんな顔をしていたら、冬原さんが戻ってきたとき本当に悲しむわよ」
少しだけ優しい口調だった。
そんなことは、アンタに言われなくとも分かっている。
本当なら、柊はそう強く反論してやりたかった。
だが、自分の感情をそんなに上手くコントロール出来るほど、人間がなっていないのだ。
逆に、どうして彼女は…。
柊は、先ほどからずっと抱いていた疑問を綺羅星にぶつけた。
「アンタは…何で、何も変わらないのよ」
人は、自分とは違うものを恐れる。
自分が持つ理解の範疇からはみ出た存在は、全て悪で、
例え、誰にも迷惑をかけていなくても、
異質なものは、ことごとく焼き払われる。
時には、その些細な違いを意図的に利用して、
ストレスや満たされぬ欲望のはけ口にする。
そうすることで、世界のバランスは取りなされている。
スケープゴート、魔女狩り。
科学技術のないかつての時代の人間は、理解できない自然現象を神と崇めて奉り、そして、人柱という生贄を捧げることで解決できると信じていた。
現代において私たちは、その生贄に選ばれないように――つまり、集団から弾き出されないように生きている。
なのに…こいつは出会ったときからこうだ。
集団そのものに属さず、輪の外側で生きていくことを自ら望んでいる。
恐ろしくはないのか。
どれだけ強くても、所詮個人は、集団には勝てない。敵わず爪弾きにされるのに。
綺羅星は、柊の縋るような視線を突き放すために背を向けると、椅子を引いて座った。
目を閉じ、時を数えるようにつま先で地面を叩いている。
何かを考えているのか、それとも興味がないのか…。
「貴方は、人の本質は何で決まると思う?」ぽつりと、綺羅星が自分に問うように呟く。
柊はその言葉の意味が分からず、ただ首を振って、自分には答えを出す術がないことを伝える。
綺羅星は、一人舞台で淡々と朗読を続ける。
「性格、価値観、成したこと、愛したものの数、愛された数…?」
何かに取り憑かれたようにひたすら言葉を紡いでいくその姿は、まるで地上に残された最後の女が、ただ独り悲しみの物語を演じているようだった。
閉ざされた遮光カーテンが、彼女の舞台の暗幕の役割を果たして、外界の光の一切を届けはしない。
「違う、そうではない。人の本質はそんなものでは決まらない。人の本質というのは、何を対象にして、何を感じて、何を考え、どう行動するかで決まるものよ」
綺羅星は次第に頬を紅潮させ、丁寧なアクセントで、台本を読み上げるように絶え間なく続ける。
薄暗い資料室を小さな劇場に変えて、私というたった一人の観客のために美しく、気高い心を惜しみなくひけらかしてくれていた。
どうして彼女が、こんなにも堂に入った立ち居振る舞いが可能なのかは分からなかった。
だが、その言葉、仕草は、冬原に対し、どう接すればいいか分からずにいる柊の心に、不思議と真っすぐ届いた。
それらの言葉を、静かに心のなかで繰り返している柊の耳に、鈴を転がしたような綺羅星の声が流れ込んでくる。
「貴方は…、冬原夕陽という人間に対して、何を感じ、何を考え、どう行動するの?」
「私、が?」
「それが、貴方の本質になる」
「…小難しいことばっかり、アンタって、本当に同い年なの?」
「余計なお世話。とにかく、よく考えなさい。少なくとも、その顔でずっと待つぐらいなら、早いこと出て行くほうが冬原さんのためよ」
そこまで言い切ると、彼女はまた瞳を閉じて沈黙を守った。




